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松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」

今後、テクノロジーの発達に伴い大きく変化していく”乗り物”をちょっと違った角度から考え、体験する。

デマンドバスには数理的アプローチを

2010年1月21日

(これまでの 松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」はこちら

 前回、「柔軟にルート変更できるコミュニティバス」の可能性を書いたところ、「すでに、デマンドバスというものが存在します」という意見をいくつも頂いた。調べてみると確かに、乗車希望者からの乗車リクエストに応じて運行される「デマンドバス」あるいは「オンデマンドバス」という運行形態が、すでに日本各地で実施されていた。運行形態は様々だが、利用者が電話、ファクシミリ、インターネットなどで乗車要求を運行車に通知し、それに応じてバスを運行するという点が共通している。Wikipediaのデマンドバスの項目によれば、1972年阪急バスが大阪府能勢町の路線で導入したのが、日本における最初の導入例とのこと。すでに38年もの実績がある運行方式だった。これを知らずに前回の記事を書いたのは、完全に私の不見識である。読者の皆さんにお詫びする次第だ。

 デマンドバスの運行形式はかなり多種多様だ。普段は定期運行せずに利用者からのコールがあって初めて運行する路線を設定するもの。路線ではなく、利用者からのコールがあった場合にのみ停車する停留所を設定するもの。コールがあった場合に、路線を変更して通常は走らない地域も走るもの。つまりは、利用者からのコールによって、時刻や停留所、路線などを柔軟に変更するわけだ。
 使用する車両も多岐にわたり、通常のバスからマイクロバス、場合によっては乗り合いタクシークラスの小さな車両を使用することもある。

 デマンドバスは、タクシーと、コミュニティバスを含む定期バスとの中間形態と考えることができるだろう。利用者側のメリットは「必要な時に呼べば来る」ということ。運行者側のメリットは「無駄に空っぽのバスを走らせる必要がないので、運行コストが節約できる」ということだ。運航コストの節約──過疎地における公共交通システム共通の課題だ。導入事例を調べていくと、やはりというべきか過疎地での運行が目立つ。

 そもそも、地方の公共交通システムが、なぜコスト割れを起こすようになったかと言えば、各家庭への自動車の普及が最大の原因だった。自動車を持っていればいつ、どこにでも自分の意志で行くことができる。自動車の利便性を享受できないのは、免許を持てない学生、身体的理由から運転適性に欠ける高齢者などに限られる。これらの人々が公共交通システムのユーザーとして残され、それだけではシステム維持のコストを負担しきれない、ということが、地方の公共交通システムが抱える共通の問題なのだ。それに都会への人材流出による人口減少、少子化と高齢化の同時進行が、追い打ちをかけている。

 経済的には廃止が合理的であっても、地域の高齢化が進行しているとおいそれと廃止してしまうわけにはいかない。公共交通システムを廃止すれば、そもそも地域で暮らしていけなくなる高齢者も出てくる可能性がある。行政としては、減少していく需要に対応して公共交通システムを低コスト化しつつ維持して行かなくてはならない。
 前回取り上げたコミュニティバスも、低コスト化を追求する中で日本全国に拡がっていった。だが、実際にはコミュニティバスは、ある程度の人口稠密地域にこそ向いているシステムだった。
 ではデマンドバスはどうだろうか。

 いかなる公共交通システムも、カバー領域の需要とユーザーの要求を無視することはできない。調べていくと、どうも地方においては需要の把握と顧客の要求を満足させること──換言すればカスタマー・サティスファクションだ──の分析が不十分なまま、コミュニティバスやデマンドバスの導入が進んでいるように思える。1)定期バスの旅客数が減ってコスト的に維持困難になる→2)小型で維持コストの少ないコミュニティバスを導入し、その代わりきめ細かい路線を設定する→3)あちこち走り回る細々とした路線設定のせいで目的地への所要時間が長くなり、顧客満足度が低下する→4)一部の停留所や路線をスルーできるデマンドバスへ──というように。
 目の前にある不都合の解消を繰り返しても、根本的な解決にはならない。

 とすると、デマンドバスの本質はなにかということが問題になる。私の見るところ、デマンドバスの本質は「需要に応じたリソース配分」である。ユーザーの「どこかに行きたい」という需要に応じて、バスという輸送のリソースを配車することだ。
 需要と供給の一致を追求すると、最後はタクシーに行き着く。タクシー会社に「どこそこまでタクシー1台」と電話をすると、すぐにタクシーがやってくる。タクシーとデマンドバスの違いは2つ。まず、タクシーは需要に応えることが最優先なので、バスに比べればずっと高コストになること。そして、その裏返しであるが、「デマンドバスは、タクシーのようにユーザーの要求に完璧に応えるものではない」ということだ。

 デマンドバスの継続的な運行にとっては、「タクシーほどではないが、ほどほどの利便。そしてタクシーよりも低料金」を許容可能なコストで実現できるかどうかが重要だろう。当然のことながら「いかほどの値段ならお客はタクシーに比べての不便を許容し、逆に運賃が安いことを積極的に評価するか」の見積もりが不可欠になる。
 同時に、デマンドバスではユーザーの不便や不満がなくなることはない。「あちらのお客さんからの要求に応じれば、こちらのお客さんに若干の不便が行く」ことになるからだ。である以上、「トータルで見て、不便や不満を最小にするシステム設計」が非常に重要になる。そこには運行コストを最小にするという要素も入ってくる。

 前者のユーザーの意向の見積もりは、最終的には計画責任者の「商才」に頼ることになるだろう。同時に昨今流行している行動経済学によるユーザー動向の分析も有効ではないだろうか。
 それに対して後者の「リソース配分とコストの最小化」に関しては、数理的なアプローチが有効だと考える。「ある条件を満たしつつ特定のパラメーターを最小化する」というのは数理解析では一般的な問題だし、「あるユーザーがバスへの要求を出した場合、別のユーザーにはどの程度の不便が発声するか」という問題は、ゲーム理論で解析できそうだ。リソースが決まっていて、要求が存在し、最適解を求める問題は、数理的に攻略するのが正しいアプローチではないだろうか。

 東京大学大学院新領域創成科学研究科大和裕幸研究室では、デマンドバス(同研究室ではオンデマンドバスと表記している)が、複数のユーザーからの要求に対応して最適な巡回経路を産出するアルゴリズムを開発、千葉県柏市や大阪府堺市などで実証運行を実施した。同研究室では、より使いやすい予約システムや、ユーザーの利用履歴に応じて「この時期の予約はいかがでしょう」と提案を行うシステムの開発なども行っている。

 私は東大・大和研究室のような数理的アプローチこそが、デマンドバスを地域に根付かせるためには必要不可欠ではないかと考える。ネットなどで顧客は利用予約を行い、サーバー側ではリアルタイムでバスが巡回すべき最適経路を産出し、結果をバスに伝達する──数理的な裏付けを持つ運行経路生成システムを組むことができて初めて、デマンドバスは「不便なタクシー」といった位置付けを脱するはずだ。そうなってこそ、現在の「定期バス、コミュニティバスの低コスト化の方策としてのデマンドバス」ではない、「タクシーよりも安くて、そこそこ便利」という新たな価値を提供できるようになるだろう。同時に、そのようなシステムさえあれば、過疎地でもデマンドバスがそこそこ使えるようになるのではないかと、私は期待している。

 ところで──と、ここで少し我田引水してみる。過疎地に住む高齢者のような交通弱者にとって、長期的に見た「生活の質(QOL)」まで考えると、「どのような交通手段が最適か」という問題はもう少し違う様相を帯びるような気がする。

 最近の予防医学の研究により、人間は若い時から適切に心身を使用し、正しい生活習慣を維持するならば、高齢者になってからもかなりの気力体力を維持できることが判明している。我々が老化と思い込んでいる現象の中には、「不健康な生活習慣の結果」が入り込んでいるのだ。
 地方の高齢者で、大きな問題となっているのは、交通が不便なために閉じこもりがちになるということだ。閉じこもってしまうのは、心の健康に良くないし、身体も動かさなければ衰弱する。デマンドバスのような交通手段は、外出の助けになるので心身の健康維持にも役立つ。

 しかし、すでに老化が進んだ現在の高齢者はともかくとして、これから高齢化していく団塊世代にはより積極的な対策を考えていくべきではないだろうか。つまり、外出することが同時に適切な運動手段となるような交通システムを考え、より一層の健康の維持を可能にすべきと思えるのだ。それは同時に医療費の削減にも役立つ。

 そう、私は本連載でかなりの紙幅を費やした自転車2.0(本連載の“自転車2.0”をめざして(その1)“自転車2.0”をめざして(その2)、そして“自転車2.0”を巡る社会状況を参照のこと)について考えている。電動アシストを基本に、今までの自転車にない利便性を付加した乗り物は、一般人のみならず高齢者のモビリティをも拡張する可能性を持っているのではないだろうか。

 自転車を日常的に利用している方はご存知だろうが、「自転車で10kmも走るのは大変」というのは、普段ママチャリに乗っている人たちの先入観である。健康な人ならば適切に作られた自転車で10km以上を走るのは全然簡単だ。「地方だとお店が遠くて」というのも、実のところ10数km程度であることがほとんどである。往復30kmだが、それだって実は大した距離ではない。電動アシストがあれば山道でも負担は軽減できるし、防水フェアリングが付けば雨もしのげる。しかも移動の途中は有酸素運動にもなる。

 今現在の高齢者ではなく、団塊世代の高齢化を見据えると、むしろ地方の日常交通として自転車の発展形を考えることのほうが有益に思えるのだ。
 その場合、「地方において自転車に優しい道路」を整備することが必須となるだろう。自動車が我が物顔で走り回り、中高生の自転車通学では、校則でヘルメット着用を義務づけるような環境では、中高年に「自転車に乗ろう」と呼びかけるのは難しい。
 色々問題は多いのだが、医療費の削減をはじめとして、得られる利益は決して小さくないように思う。

 これは私の偏った考え方だろうか。皆さんはどう思われますか。

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プロフィール

ノンフィクションライター。1962年、東京都出身。日経BP社記者を経て、現在は主に航空宇宙分野で執筆活動を行っている。著書に火星探査機『のぞみ』の開発と運用を追った『恐るべき旅路』(朝日新聞社)、スペースシャトルの設計が抱える問題点を指摘した『スペースシャトルの落日』(エクスナレッジ)、桁外れの趣味人たちをレポートした『コダワリ人のおもちゃ箱』(エクスナレッジ)などがある。

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