たそがれ未来のモノレール
2010年2月22日
(これまでの 松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」はこちら)
表題はモノレール自体がたそがれた乗り物であるという意味ではない。なぜかそういう印象が強いという意味である。
モノレールは、かつて少年雑誌などの未来予想図の王様だった。未来都市の図解などでは、鉄道が走っているほうが珍しかった。いつもモノレールだったような記憶がある。しかし現実にモノレールが鉄道に置き換わることはなかった。そんなこんなで、モノレールには「来るだったはずだけれども、結局来なかった未来のビジョン」という印象が張り付いている。
しかし、印象はあくまで印象でしかない。モノレールは現実の交通機関として幅広く使われている。最近では2003年に沖縄県で新線「沖縄都市モノレール(ゆいレール)」が開業している。
モノレールの歴史は通常の鉄道と同じぐらいに古く、19世紀初頭には様々な方式が考案され、研究が始まっていた。大別して、線路にまたがる跨座式と線路にぶらさがる懸垂式がある──というようなことは今や常識だろう。それぞれ線路や車輪の材質、車体と線路の接触方法などで様々な細かい方式に別れる。
世界初の旅客輸送モノレール路線は、ドイツ中部、デュッセルドルフ郊外のヴッパータールにある懸垂式路線で1900年に開業。現在も営業運転を行っている。日本では、第二次世界大戦前にもいくつかの営業路線の敷設計画があったがいずれも実現しなかった。1928年に大阪・天王寺公園で開催された大阪交通電気博覧会で、懸垂電車という名称で短期間運用を行ったのが日本初のモノレールである。
戦後は、路面電車に代わる都市交通システムとして注目が集まり、まず1957年に上野動物園内に初の路線が東京都交通局の手によって敷設された。今も運転が続いている「上野懸垂線」通称上野モノレールだ。営業距離300mということもあり、上野公園のアトラクションと思っている人も多いだろうが、東京都交通局が運用しているということからも分かるように、本来の意図はモノレールという新しい乗り物の運用課題や運用に当たってのノウハウを探るための実験路線だった。
その後、モノレールは奈良ドリームランド(奈良県、2006年閉園)や、犬山ラインパーク(現日本モンキーパーク、愛知県)という遊園地の園内交通手段に導入されるようになった。遊園地という新規性を求める遊戯施設に導入されたというあたり、「未来の乗り物」というイメージが先行していたことがうかがえる。
日本初の本格営業路線は、山手線の浜松町と羽田空港を結ぶ東京モノレールだ。1964年9月17日、10月の東京オリンピックに間に合うように開業。以来、羽田空港への重要なアクセス手段として運行を続けている。2002年には日立グループからJR東日本に売却され、浜松町の乗り換え通路が改築されて便利になった。その後1980年代以降、北九州モノレール(1985年開業)、千葉都市モノレール(1988年開業)、大阪モノレール(1990年開業)、多摩都市モノレール(1998年開業)、沖縄都市モノレール(2003年開業)などが、第三セクター方式で次々に敷設された。
モノレールの利点は、線路の幅が狭く、比較的安価に高架線を敷設することができるということだ。占有面積が小さいので通常の道路の上に建築することができるわけである。また高架であることのメリットを生かして、高低差のある地形を水平に走らせることで、通常の鉄道の敷設が困難な丘陵地に通すことができる。逆に弱点は、上下線車両入れ替えなどに特殊かつ大がかりな専用軌道を必要とすることだ。
きっとあるだろうと思って探したら、やはりYouTubeにアップされていた。
まず、懸垂式の千葉都市交通モノレールの転轍機。
そして跨座式の東京モノレールの転轍機である。
ちなみに世界初のドイツ・ヴッパータールの路線には、3両編成の車体をまとめて方向転換する巨大な空中ターンテーブルが装備されている。
現存するモノレールは、だいたいこれらの利点を生かし、欠点が出ないような路線経路で敷設されている。繁華街では道路の上を走り、丘陵地では谷をまたぐようにして路線が延びている。北九州モノレールや沖縄都市モノレールは、都市型の道路の上を走る路線だし、湘南モノレールは鎌倉付近の丘陵地を、多摩都市モノレールは多摩丘陵を、大阪モノレールは千里丘陵を縫うようにして走っている。
ところが、理に適った経路と使用法にも関わらず、第三セクター方式のモノレール路線は、どこも経営的に苦戦している。誰がまとめてくれたのか、Wikipediaには日本のモノレールの経営状況という項目が立っている。これによれば、利益をきちんと積み立てられているのは、羽田空港への旅客輸送という非常に手堅い輸送需要を持つ東京モノレールのみだ。一見、千葉都市モノレールが利益積み立てに至っているように見えるが、これは2006年以降、累損の相当部分を千葉県と千葉市が肩代わりしたためである。また、北九州モノレールは2005年に産業活力再生特別措置法に基づく救済処置を受けて、現在は北九州市が株式100%を所有している。
「第三セクター故の放漫経営」と言われる部分はあるのかも知れない。これらモノレール営業路線のうち、民営と言えるのはJR東日本が主体となる東京モノレールと、三菱グループが運用する湘南モノレールだけだ。
東京モノレールは立派な黒字である。また、湘南モノレールは沿線に三菱電機・鎌倉製作所があり、グループ企業の通勤の足という側面も持っている。最大株主の三菱重工業は売上高3兆2000億円の大企業であり、湘南モノレールの累損18億円程度はどうということはない。どちらも基本的に割が合っている。となると、確かに第三セクター経営の見通しの甘さを疑いたくはなる。しかし、ここでは交通システムとしてモノレールが持つ問題点について考えてみたい。
私の見るところ、モノレールには2つの問題点が存在する。一つは、既存鉄道との相互乗り入れができないため、交通ネットワークを拡大することができないということだ。甦る路面電車で触れたように、路面電車は既存鉄道網を相互乗り入れすることでネットワークを拡大し、利便性を増すことができる。
地下鉄も同じやり方でネットワークを拡大可能だ。東京の地下鉄はJRや私鉄との相互乗り入れを積極的に進めている。東京居住者は、小田急のロマンスカーが東京メトロ千代田線と直通運転をしていることを知っているだろう。大手町でロマンスカーに乗ると、一気に“箱根の山は天下の険”と箱根湯本まで1時間40分ほどで行けてしまうのだ。まったくもって「便利になったもんだ」と言わざるを得ない。
モノレールはこのような手法を使えない。となると、他の交通機関との乗り換えを極力簡便にする必要がある。
ところが、モノレールは通常かなりの高さの高架を走る。このため乗り換え駅における人の動線がどうしても長くなり、かつ垂直方向への移動を伴うことになる。東京に最近建設されている大江戸線や副都心線と同じ「乗り換えが遠くて垂直移動が面倒」という問題が、常について回ることになる。
さらにモノレールの場合、動線の作り方が悪いと乗り換え時に屋外を歩く必要も出てくるという、地下鉄には存在しない問題点も存在する。雨天時には乗り換えがかなりの負担になるのだ。
東京モノレールは経営権がJR東日本に移ってから、浜松町駅を改装してJRとの乗り換えの動線を短くした。これはモノレールの欠点を補う、大変に意味があることだったと思う。湘南モノレールもJR大船駅からの乗り換えは階段もなく、屋根のある短い通路を歩くだけだ。
逆に問題だと思える例は、多摩都市モノレールの乗り換えだ。多摩センター駅における京王線と小田急線との接続、高幡不動駅における京王線との接続、立川北駅と立川南駅におけるJR中央線立川駅との接続は、どれも「もう少し歩かなくても済むように駅の配置を考えれば良かったのに」と感じてしまう。特にJR中央線という通勤幹線と接続する立川駅は、線路を挟んだ南北ではなくJR駅の直上に駅を作らなかったのか、不思議に思う。路線決定時にJR線の南北の商店街で駅の綱引きがあった結果らしいのだが、ひどく不便だ。
ちなみに、多摩都市モノレールにはもう一つの問題がある。やたらと遅いのだ。東京モノレールが全路線17.8kmを(快速の場合)平均時速60kmで結ぶのに対し、多摩都市モノレールは、全路線16kmを平均時速27kmという路線バス並みの速度だ。モノレールは鉄道並みの高速を出すことができるので、モノレールの使い方としては長所を殺していると言わざるを得ない。
第三セクター路線の赤字は、結局のところ「きちんと乗り物の特性を考えて路線を設計したか」というところに行き着く。その意味でも責任が曖昧になる第三セクター方式は、放漫経営というだけではなく有害なのかも知れない。
ところで、冒頭に述べた「結局来なかった未来の象徴としてのモノレール」という話。私はこのイメージが出来上がるにあたって、ひとつのモノレール路線の失敗が影響していると見ている。ドリーム開発ドリームランド線だ。
この路線は東海道線・横須賀線の大船駅と横浜市戸塚区にあった遊園地「横浜ドリームランド」(2002年に閉園)を結ぶもので、1966年5月に開業した。跨座式を採用し、東芝製の当時としてはかなりモダンな外観の車両が特徴だった。ところが線路に亀裂が発見され、開業1年4ヶ月後の1967年9月23日を最後に運行休止となってしまった。ドリーム交通モノレール線というホームページが、この薄幸の路線の記録をまとめている。
その後長い間、路線は廃止ではなく休止という形で放置されていた。輝かしい未来の象徴であったはずのコンクリート製の路線は、30年以上の時間に蝕まれ、雑草に埋もれて朽ちていった。
1980年代までは大船駅東海道線のプラットホームから、放置されたモノレール大船駅が見えた。「ドリームランドまで8分」だったか、遠目にもよく見える錆びた大看板がなんとも諸行無常のオーラを放っていた。大船駅の反対側では日々湘南モノレールが運行していただけに、廃駅とのコントラストは心に沁みた。
朽ちていくモノレール路線に私は惹かれ、1980年代から90年代にかけて、何度となく自転車で路線に沿って走った。路線は横浜の丘陵地帯を這うように走り、国道一号線の上を通過し、新興住宅街の2階の窓のすぐ横を通過し、やがて横浜ドリームランドに着くのだった。風化し、ぼろぼろになっていくモノレールの線路は「未来に核戦争があって人間が滅んだ時はこのような風景が訪れるのだろうか」と想像させ、大層魅力的だった。
路線は意外なぐらい起伏に富み、乗ったらさぞや楽しかったろうと思わせた。1966年といえば自分は4歳である。乗るチャンスはあったのだ、と思うと今でも少々のくやしさを感じる。
その後、2002年に路線は正式に廃止となり、線路は撤去された。私はこのドリームランド線のスキャンダラスで劇的な休止と、その後35年以上に及ぶ放置が、「モノレールは失われた未来の乗り物」というイメージを広めてしまった理由ではないかと推理している。
というわけで今回は、私が1989年6月に撮影したドリームランド線廃線の写真で終わることにする。現存するモノレール路線には、どこも経営面で頑張って欲しいと思う。が、同時にあの魅力的な廃線がなくなってしまったことを残念に思う自分がいることも否定できない。
松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」
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