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松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」

今後、テクノロジーの発達に伴い大きく変化していく”乗り物”をちょっと違った角度から考え、体験する。

自動車の社会的費用を巡る基本的な構図

2010年10月21日

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 本連載は、第1回に書いた通り、「我々の社会交通システムに空いている穴」を考察するという趣旨で書き進めている。その意味では、自動車を取り上げるのはかなり難しい。自動車こそは現代の交通体系における一大勢力だからだ。連載の趣旨からすれば、積極的に避けるべき交通機関である。

 しかし、穴を考察するには周囲の地質も知らねばならないのと同じく、交通システムの穴を考察するためには巨大な地である自動車を避けて通ることはできない。鉄道、航空機と並んで自動車は20世紀を彩り、21世紀もそれ以降も生き延びて行くであろう交通機関だ。自動車がもたらすモビリティは、人々の生活を後戻り不可能なほどに変えた。これは間違いなく事実だ。その一方で、自動車は交通事故や公害、廃棄自動車といった多くの問題をも生み出してきた。そのありようを考察することは、それ以外の交通システムを考える上でも必須である。

 と、大上段に振りかぶったが、実は自動車を巡る根本的な問題点は、もう30年以上昔に、一冊の本によって明快に指摘されている。今回は、その本、「自動車の社会的費用」(宇沢弘文著・岩波新書)を紹介するところから始めよう。初版が1974年6月30日刊行、私の手元にあるのは2008年11月14日刊行の第36刷だ。36年にも渡って読まれ続けている名著である。著者の宇沢弘文氏は東京大学経済学部の学部長も務めた経済学者だ。

 「自動車の社会的費用」は、宇沢氏が、10年もの海外滞在から帰国し、日本の交通事情のひどさに驚くところから始まる。なぜかくも狭い道を自動車が我が物顔に走り回っているのか――この問題意識から、氏は専門分野の経済学の知識を駆使して、自動車というものが現実の経済のなかでどのように位置付けられるのかを分析していく。
 中心的な課題となるのは、書名にもなっている「自動車の社会的費用」という概念だ。

 たとえば道路。自動車は、それ単体では便利な移動の道具にはならない。整備された道路と組み合わせて初めて便利な道具となる。鉄道と線路が不可分であるように、実は自動車と道路は一体で不可分の存在なのだ。
 ところが我々は、「自動車を買う」とはいうが、「道路を買う」とは言わない。道路は政府や地方自治体が自分と関係ないところで勝手に整備するものであり、自動車ユーザーは新しい道のルート選定に口を出すことすらない。道路整備の資金は税金から捻出される。つまり税金によって道が整備され、整備された道を利用するために人々が自動車を買い、自動車で移動するという構図が存在する。

 ここに、自動車を巡る根本的な問題が存在すると宇沢氏は指摘する。自動車のユーザーは自動車の車体に関する経済的負担しかしていない。道路は税金で整備される。これは、自動車ユーザーは、本来道路建設の経済的負担を免れているということではないだろうか。自動車が便利だということは、このような税金による実質的補填があってのことではないだろうか。つまり、自動車産業も自動車ユーザーも、自動車から利益を受けるすべての者は、税金からの補填で自分が支払ったコスト以上の利便を享受しているのではないだろうか。

 こう書いてくると、「ガソリン税というものがあるぞ」という声が聞こえてきそうだ。その通りで、実は道路に関してはこれまで受益者である自動車所有者の負担でも整備が進められてきた。道路特定財源だ。
 太平洋戦争の後、日本では道路網の整備が急務となり、道路を国が整備するための財源として1953年に道路建設という使途を決めて税金を徴収する、道路特定財源という制度が作られた。最初にガソリンなどの精製に当たって課せられる揮発油税が、道路特定財源に組み込まれた。ガソリン税は揮発油税の一種である。その後、道路特定財源は、税の種類を増やし、税率を引き上げ、大型化していった。

 道路特定財源には、国の財源と地方の財源とがあった。2008年の段階で、国の財源としては揮発油税、自動車重量税、石油ガス税が、地方の財源としては、軽油引取税、自動車取得税、地方道路譲与税、石油ガス譲与税があり、それぞれ道路建設に使うことが法律で決まっていた。2008年度でみると、国税で3兆3000億円、地方税が2兆1000億円。総額5兆円を超える巨大財源だった。

 道路特定財源が作られた頃、日本の道路の舗装率は5%にも満たなかった。ところがその後道路の整備が進み、道路特定財源を年度内に使い切るための「道路整備のための道路整備」が目立つようになった。2007年には当時の自民・公民連立政権で、道路特定財源を、その他の用途にも使える一般財源化しようという方針が出され、2009年度から、道路特定財源は一般財源になった。
 このあたり、額が大きいだけに建築業界や政界の道路族、道路向け予算が欲しい地方自治体、さらには国土交通省や日本道路公団(2005年に分割民営化)の利権なども絡んだ様々なドロドロがあったわけだが、本題からははずれるので省略する。

 「なんだ、『自動車の社会的費用』が指摘する社会的費用は、すでに自動車ユーザーが毎年5兆円以上負担してきたのか」と思うかもしれない。しかし、自動車特定財源は、道路建設予算のすべてをまかなっていたわけではなかった。

 国土交通省ホームページにある財源構成の推移(pdfファイル)という表を見てみよう。道路特定財源は国税と地方税に分かれているので、表も国と地方とで分けてある。合計して考えてみる。2007年度(平成19年度)における道路建設のための予算は、特定財源、つまり道路特定財源分が国と地方を合わせて5兆6343億円、一方一般財源、つまり通常の税収からの支出が2兆514億円となっている。少なからぬ額が、自動車利用者の負担以外からも道路建設に支出されているわけだ。これを道路建設費がピークとなった1995年度(平成7年度)で見ると、特定財源5兆5472億円、一般財源6兆6303億円となる。

 自動車利用者は同時に一般税の納税者でもある。だから一般財源から道路建設に支出することが即問題というわけではない。しかし、道路建設費用のかなりの部分を、道路による利益を直接受けない人も負担してきたということはいえるだろう。
 もちろん間接的には、道路があることで利益を受けない人などいない。しかし、一般財源から特定財源を越える額を支出すべきかどうかは、社会的費用の分担の面でいろいろ議論がでるところだろう。

 しかも、自動車によって発生する社会的費用は、道路建設費に止まらない。例えば公害。自動車の出す排気ガスによって発生した公害は、大きな社会問題となってきた。このことにより発生した社会的損失を自動車から利益を受ける者が負担したかといえば、そうではない。
 あるいは交通事故。交通事故によってこれまで多くの被害者が発生してきたし、いまも発生している。自動車事故によって発生した損失が、受益者の負担で埋め合わせてきたかといえばそうではない。
 さらには、自動車は道路を走り回ることによって、道路は歩行者にとって危険な場所になった。歩行者が被る損失を埋め合わすだけの対価を受益者が支払ったかといえば、そうではない。

 歩行者天国で道路の真ん中を歩くと、自動車が実に広々とした空間を占有していることに気がつく。あるいは、工事などで一時的に自動車が通行しなくなった道路を自転車で走ってみると、自動車がきちんときれいに舗装された道路の中心を独占しており、自転車は舗装の荒れた路肩に追いやられているのだということを、あらためて認識する。

 自動車の利便性は、社会の様々な方面にツケを回すことで維持されている。その事実を「自動車の社会的費用」は経済学の手法を使って明らかにしたのだった。

 いったいなぜ、自動車はそこまで社会の中で優遇されたのだろうか。その答えは、自動車が巨大な経済効果を生じる商品だったということに尽きる。多数のハイテク部品から構成される自動車の製造は、巨大な産業を形成し、大きな雇用を創出した。自動車のために道路を建設することにもまた、大きな経済効果があった。自動車による輸送を利用することで、宅配便やコンビニエンスストアといった新しい産業も生まれた。日本の経済成長にとって、自動車産業は必須の要素であったのだ。

 そしてまた、自動車を購入し、税金によって整備された道路を利用することで、自動車の利用者は強力な移動能力を手に入れることができた。自分と家族、さらにかなりの量の荷物をもって、自分の意のままに自分の行きたい場所に移動することが可能になった。電車のように駅まで出向く必要も、終電を気にする必要もない。自分が持てるだけに、荷物の量や重さを絞り込む必要もない。重い荷物で息を切らすこともない。

 人々の欲望を徹底的に充足する能力と、巨大な経済の拡大効果を両輪として、自動車は身近な乗り物の筆頭に躍り出た。日本自動車検査登録情報協会の自動車保有台数統計データによると、2010年7月現在、日本には二輪車や工事用車両などを含めて7900万1361台の自動車が存在する。およそ1億2000万人の日本人は、1.52人に1台の割合で自動車を保有していることになる。かつては家庭に一台だった保有形態も、1人で1台ということが珍しくなくなった。

 自動車の普及に対応して社会も変化する。そうして出来上がった、自動車を誰もが持っていることを前提とした社会が、果たして暮らしやすい社会かといえば、必ずしもそうとはいえない。

 かつては鉄道の駅を中心に、歩いていける範囲内にまとまっていた商業地は、自動車による来店を前提とした郊外の大型店舗に取って代わられた。この傾向は特に地方で顕著だ。駅前商店街がシャッター通りと化す一方で、郊外の国道沿いに大型店舗が林立する様は、この10年ほどで当たり前の田園風景となった。
 大量に仕入れて安く売る大型店舗では、駅前商店街よりも安くものが買える。しかし、自動車を運転することができない未成年や高齢者には、行きづらい場所だ。自動車がなければ買い物ができないとなると、生活のすべてが自動車に依存することになる。そうなると人は歩かなくなる。歩かぬままで年をとると、歩行困難な老後が待っている。

 自動車を運転しなければ生活できないとなると、老化が進行した者も自動車を運転することになる。視力、反射神経、判断力などが衰えても自動車を運転するとなると、自動車は走る凶器になりうる。高速道路の逆走でもしようものなら、大惨事になる可能性もある。
 これら、自動車に起因する望ましくない社会の変化もまた、「自動車の社会的費用」と見ることが可能だ。では、発生した社会的コストを自動車の受益者が支払っているのかといえば、そうではない。

 「自動車の社会的費用」の出版から36年がすぎたが、その内容が指摘する問題は、今も解決してはいないというわけだ。自動車という、「モビリティの王様」とでもいうべき乗り物を考える上で、このことは常に意識しておく必要がある。

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プロフィール

ノンフィクションライター。1962年、東京都出身。日経BP社記者を経て、現在は主に航空宇宙分野で執筆活動を行っている。著書に火星探査機『のぞみ』の開発と運用を追った『恐るべき旅路』(朝日新聞社)、スペースシャトルの設計が抱える問題点を指摘した『スペースシャトルの落日』(エクスナレッジ)、桁外れの趣味人たちをレポートした『コダワリ人のおもちゃ箱』(エクスナレッジ)などがある。

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