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松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」

今後、テクノロジーの発達に伴い大きく変化していく”乗り物”をちょっと違った角度から考え、体験する。

電動モーターで変わるもの――社会に自動車を作る自由を

2011年5月19日

(これまでの 松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」はこちら

 昨今、少なくとも東京とその周辺地域では、電気自動車を街頭で見ることもまれではなくなった。三菱自動車のi-MiEVは、官庁がエコロジー推進の象徴として導入するケースが多いようで、公用車として走っているのを見かける。私の住む神奈川県茅ヶ崎市では、おそらく試験的にだろうが、タクシー会社が日産自動車のリーフを1台導入していて、時折お客さんを乗せて走っているのに出会うことがある。

 そんな状況の中、私も電気自動車に試乗する機会に恵まれた。それもi-MiEVでもリーフでもなく、独BMWのMINI-Eだ。友人がモニターに応募して5ヶ月間MINI-Eを日常的に使うことになったので、便乗して乗せてもらったのである。

 第三京浜を経由した東京-横浜間のドライブに同乗させてもらったのだが、その感想はといえば「これは普通の自動車だ」というものだった。エンジン車に比べて、まったく違和感がない。市街地から高速まで、まったく普通の車同様に走る。違和感があったとすれば、左ハンドルだということやら、ミニ特有の大型メーターやら――つまり動力装置とは関係ない部分ばかりだった。あえて言えば、回生ブレーキが強力にかかるので、アクセルペダルから脚を放すと一気に減速するところがエンジン車と大きく異なる。が、これは「1日も乗っていれば慣れる」とのことだ。

 一方で、「たしかにこれは電動モーターで動いている」と実感する部分もある。なにより低速トルクが、エンジン車では考えられないぐらい太い。停止状態からの加速の良さには目を見張る。そしてスムーズだ。ちょっとアクセルペダルを踏むだけでエンジン車のような振動なしに一気に加速する。静粛性は、車体設計にもよるのだろうが、車内にいる限りは一般的な高級車並みで、びっくりするほど静かというわけではない。タイヤからのロードノイズはしっかり聞こえる。最近の高級車は車内の遮音がしっかりなされていて、ほとんどエンジン音が聞こえないが、トータルの騒音はそんな高級車と大して変わらない印象だ。

 もちろん、「まだまだだなあ」という部分もある。MINI-Eは後部座席がない2人乗りだ。後部座席に相当する部位には巨大なバッテリーが搭載されている。当然車体は重く、通常のMINIが1.2トン程度なのに対して1.5トンもある。強力なモーターで重たい車体を加速する走りは、3リッター以上のV6やV8エンジンを搭載したGTカーを思い起こさせる。電気自動車専用の車体ではなく、既存のMINIの設計を流用したわけだから、色々な不満は残っていて当たり前だ。

 なによりも最大の問題点は、航続距離が足りないということだろう。カタログデータでは満充電で最大250km、実用的に180kmということになっているが、モニターとなった友人K君によると、満充電時でも実用的な走行距離は100kmちょっとということだ。

 もっとも彼はカーマニアならではの一気に加速・減速する走りをするので、普通の人が運転するともっと伸びるだろう。それでも、よほど注意して走らないと180kmには届かないのではないだろうか。東京と横浜を往復すると、帰りは充電メーターとにらめっこしながらの運転となる。そして充電スタンドは現状では皆無に近く、また充電にかかる時間も長い。帰りの不安感を考えると、航続距離の限界を試すような遠出をする気にはにはならないだろう。自動車の実際の利用形態としては、100km以上の遠出の比重が多い人というのは、そんなにはいないだろうが、「電気がなくなったらどうしよう」という不安感は根拠がないだけに払拭することは難しい。

 とはいえ、現状でもまったく違和感なく使えて通常の車の流れに乗って走れるのだから、電気自動車の可能性は大きいと思う。

 とまあ、こんなことを考えつつ、K君に最寄りの駅まで送ってもらった。「それじゃ」と彼の運転するMINI-Eが走り出す。そこで私は大きな衝撃を受けた。なんて静かなんだ。ほとんど音がしないじゃないか。

 乗っていた時には分からなかった静粛性を見せつけ、MINI-Eは去っていった。

 ひょっとすると、電気自動車を単なるガソリンエンジンやディーゼルエンジンの自動車の代替と思っていたら大間違いかも知れない。石油系燃料から電気へのシフトは、もっと大きな社会的な変化を引き起こす可能性があるのではないか。去りゆくMINI-Eを見て、私はそう感じた。

 ではどんな変化が考え得るのか、と思索を進めてみる。

 おそらく電気自動車が普及すると、音の風景は一変するのだろう。幹線道路周囲をはじめとして街は今よりずっと静かになるはずだ。1960年代、モータリゼーションが始まる前、日本の街は当たり前に静かだった。喧噪があるとしても、それは自動車の騒音ではなかった。太古から1950年代までは、一部の都市を除いて日本のどこにでも当たり前にあった静寂が、モータリゼーションと共に失われた。その静寂が復活することになる。

 音が小さくなれば遮音壁の必要性も薄れる。一部道路に付いている遮音壁も、撤去されることはないにしても、新たなに設置されることはなくなるのだろう。

 あるいは、電気自動車には巨大な容量のバッテリーが搭載されている。これを非常時の家庭用電源として使うというアイデアがある。現在、家庭用のバッテリー非常電源はポータブル型の数百Whのものが主流だ。据え置きの大型電源は数kWh程度の容量があるが、価格は数十万円から100万円程度とかなり高価である。

 電気自動車はこれとは桁違いの容量のバッテリーを搭載している。MINI-Eならば35kWhだし、リーフなら24kWh。i-MiEVでも16kWhの容量がある。この大容量を家庭用の電源として使えば、非常時には大変便利に使えるだろう。また、電気自動車が普及する状況になれば、当然バッテリーも量産されて安くなっていると考えられるから、自動車搭載バッテリーを家庭の非常用電源と兼用するようなことはしなくとも、各家庭が標準的に装備できるぐらいに家庭用非常電源も安くなっていることが期待できる。そうなれば、各家庭に電力を貯める小さなバッファが存在することになるので、電力消費地が相互に通信し合ってインテリジェントに電力供給量を制御する、スマートグリッドも俄然現実味を帯びることとなる。

 現在の送電網は、「消費する電力をその瞬間に生産しなくてはならない」という宿命を持っている。だからこそ、ピーク時電力消費量に合わせた発電設備が必要になる。ところが、電力消費のピークはそんなに長くは続かない。夏なら一日のうちでもっとも気温が高くなる午後2時を中心とした数時間だし、冬なら人々が帰宅して、暖房器具のスイッチを入れる夕方6時〜8時にかけてだ。まして、巨大なピークが発生することはめったにない。猛暑の夏の午後、皆が冷房を使ってテレビ番組に熱中すると巨大ピークが発生する。そんなピークの数時間だけでも、末端の蓄電設備を使えば発電所の能力はずっと小さくても済むことになる。ピーク時に使用する電力を、あらかじめ夜間などに充電しておけばいいのだ。

 さらに、電気自動車は社会を活性化させる特質がある。製造にノウハウがあまり必要なく、参入が容易なのだ。現在の自動車のエンジンは内燃機関であり、その基礎に燃焼という物理現象がある。エンジンは燃焼という化学反応から、気体の膨張という熱力学的過程を作り出し、さらに回転運動への変換を行っている。この複雑な過程をきちんとコントロールして高効率のエンジンを作るには、多種多様なノウハウが必要だ。自動車のエンジンは独自の高度なノウハウの上に立脚しており、おいそれと新たな企業が参入できるものではない。

 しかし、電気自動車は電流のエネルギーをモーターで回転運動に変えている。モーターも機械である以上ノウハウは存在するが、基本的な過程はすべて電磁気学による計算で理解できる。つまり今の自動車に比べると参入が容易だ。

 人によっては、このことをもって「中国やインドのメーカーが自動車業界にどっと参入してくるので、日本の自動車産業の危機だ」といったりもする。これまで積み上げてきた自動車用内燃機関のノウハウが不要になり、日本の自動車産業は国際的な有意を保てないというわけだ。

 しかし、これは自動車産業としてはとらえ方が逆なのではないだろうか。多数の参入があるということは、それだけ多種多様なアイデアが製品に投入され、業界が活性化するということだ。既得権を失うことを恐れるよりも、今行うべきは積極的に内燃機関から電動モーターへの変化の先頭を走ろうというアグレッシブな経営なのではないだろうか。端から見ている限りでも、トヨタを筆頭に日本の自動車メーカーは皆、積極的に電気自動車時代への投資と技術開発を行っているようだ。必要なのは、既存のアドバンテージを失うことへの恐れではなく、新しい技術がもたらす新しい時代への積極的な姿勢なのだろう。

 ...と、ここまでは、すでにあちこちで言われていることだ。まとめると、自動車の動力が内燃機関から電動モーターに置き換え可能になるほどに技術が進歩すれば、単に自動車のみならず社会のエネルギー利用に大きな変化が起きるということである。

 では、その変化を乗り切り、社会をより良いものにしていくために、今一番必要なのは何か。

 それはおそらく規制緩和だろう。誰もが自分で自動車を作り、公道を乗り回すことのできる自由の回復だ。現在の日本では、公道を走れる自動車を自作するのは容易なことではない。様々な安全基準を満さなければ、国土交通省の型式認定を取得できず、開発した自動車を市販することはできない。それは、「自動車はトラブルがあれば大きな事故になる。だから安全確保のためには厳しい基準が必要」ということなのだが、同時に自動車産業への参入障壁ともなっている。1990年代に光岡自動車が自動車開発と販売に乗り出した時の苦労は、例えばこちらで読むことができる。

 ここで重要なのは、トヨタや日産、ホンダなどが世界有数の自動車メーカーへと駆け上がっていった1950年代から60年代にかけては、光岡自動車がぶつかったような制度の壁は存在しなかったということだ。現在のような厳しい制度下では、将来の日本経済を支えるメーカーは育たない可能性がある。そして、エンジンから電動モーターへという大きな技術革新が目前に迫っている今、現在の大メーカーがいつまでもその地位を維持できるとも限らない。もう一度、多数のプレイヤーの参入による「希望に満ちた混沌」が必要になりつつある。

 このような状況下では、安全性の確保は必要ではあるものの、一律であるべきではない。ベンチャー的な企業の参入を促すためには、少量生産の自動車は、より簡易な型式認定で公道を走れるようにすべきなのである。

 海外にはキットカーというものがある。プラモデルのようにばらばらの部品で販売される自動車で、購入者は自分で組み立てて完成させる。多くの場合、キットカーは小さなメーカーが年間数百台規模で生産しているが、制度的には一般の市販車よりも簡易な審査で公道を走れるようになっている。自動車に限らず、電動モーターを使用する乗り物全般には、このキットカーと類似の制度を適用すべきではないだろうか。

 それは、ある程度の危険を社会全体の利益のために容認するということでもある。リスクはある。しかしリスクをとってこそ、新たな産業も新たな市場プレイヤーも育つのだ。

 規制緩和の必要性は電気自動車に限ったことではない。本連載の"自転車2.0"をめざして(その1)"自転車2.0"をめざして(その2)で説明した、電動モーターを用いた新しい乗り物についても言えることだ。

 その意味では、昨今流行の政治スローガンである「安心・安全社会」ほど、今の日本にとって危険な言葉はないのではないか――私はそのように考えている。安心も安全も社会には必要だ。しかし、だからといって安全で安心のために厳密な規制をかけてしまえば、人々に進取の気性は失われ、社会は後ろ向きになってしまう。後ろ向きになった社会を待っているのは衰退と没落である。

 盛者必衰が世の理ならば、私たちは次の盛者を計画的に育てていく必要があるのだ。

 さて、この連載は今回で終了する。私の目論見としては、歩行者から始めて、徐々に高速の乗り物に焦点を移していき、最後は宇宙船、それも超光速宇宙船を扱うつもりだったのだが、そこまで行き着くことはできなかった。どこかで続きを書きたいと考えている。それでは皆様、しばしの別れです。ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。

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プロフィール

ノンフィクションライター。1962年、東京都出身。日経BP社記者を経て、現在は主に航空宇宙分野で執筆活動を行っている。著書に火星探査機『のぞみ』の開発と運用を追った『恐るべき旅路』(朝日新聞社)、スペースシャトルの設計が抱える問題点を指摘した『スペースシャトルの落日』(エクスナレッジ)、桁外れの趣味人たちをレポートした『コダワリ人のおもちゃ箱』(エクスナレッジ)などがある。

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