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松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」

今後、テクノロジーの発達に伴い大きく変化していく”乗り物”をちょっと違った角度から考え、体験する。

折り畳み自転車を買おう

2011年4月28日

(これまでの 松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」はこちら

 しばらく、多忙で連載を休ませてもらっていた。その最中の2011年3月11日に東日本大震災という大災害が起きた。主に津波による死者・行方不明者は合計3万人近くにまでのぼり、福島第一原子力発電所では電源喪失による冷却機能停止により、大量の放射性物質が漏れ出す事態となった。
 この連載は、第一回で書いたように「便利さの影にかくれて、我々の社会交通システムにはいくつもの穴が空いている」という問題意識から始まっている。だから震災についても、交通の穴について書いていくことにする。首都圏で大量発生した帰宅困難者についてだ。

 東日本大震災では、首都圏の鉄道網が軒並み停止し、大量の帰宅困難者が発生した。おそらく、震災当日にもっとも賢明な判断は「動かないこと」だっただろう。一晩経てば状況ははっきりする。状況がはっきりすれば、より少ない労力で帰宅できる。「家族が心配だ」と思ったとしても、首都圏の震度5程度であったら命に関わる状況にあることはまずない。まして首都圏は東北の沿岸のように未曾有の大津波に襲われたわけでもなかった。家族の安否も時間が経って通信が回復すれば、自ずと確認できることだったのだ。

 私の知り合い関係では、地震発生となった途端に若手社員が外に飛び出して、食べ物と大量のビールを買いこんできて、そのまま徹夜の宴会に突入した職場もあったという。
 しかし、「家族が心配だ」という一心で帰った人もいただろうし、帰らねばならない用事があった人もいただろう。特に単親家庭や共働きなどで「子供が待っている」となると、なにがなんでも帰らないわけにはいかない。

 鉄道が動かなくなると、道に自動車が溢れることになる。実際、3月11日の首都圏では激しい渋滞が発生した。電車も自動車も動かないとなると、自分の足で歩くしかない。地震発生直後から深夜に至るまで、東京の幹線道路は歩いて帰宅しようとする人で埋め尽くされた。
 震災発生時に自動車が役に立たないということは、1995年の阪神・淡路大震災で明らかになっていた。震災後、被害がほとんどなかった大阪と、被害甚大だった神戸との間を結ぶ道路は大渋滞となり交通は麻痺した。その時、役立ったのはまずバイク、それも比較的排気量が小さくて小回りの利く車種。そして自転車だった。

 3月11日、日頃から自転車通勤をしていた人は不幸中の幸いだったと言えるだろう。車道は自動車が一杯で渋滞し、歩道は歩行者で充満する状況の中で、自転車は路側帯を走ることで自由に移動することができた。「3月11日 自転車通勤」で検索すると、多くの自転車通勤者がスムーズに帰宅できた体験を書いているのが見つかる。

 今回の震災は、決して最後の震災ではない。地震列島日本に住む限り、地震災害から逃れる事は出来ない。ただし、地震が起きた時のための備えをすることはできる。今回、帰宅困難者が多数出たことから教訓を引き出し、新たな備えを行うとするならば、何をすればいいだろうか。

 私は、「郊外に居住し、首都圏に勤務しており、なおかつ地震の際にどうしても帰宅したいと思う人は、折り畳み自転車を買おう」と提案する。折り畳み自転車を職場に常備しておくのだ。
 「そんなことをしたら、道が自転車であふれて、また渋滞になってしまう」と考える人もいるだろう。しかし、乗車一人あたりの道路の専有面積は、自動車よりも明らかに自転車のほうが少ない。震災時には自動車を使用しない、なるべく自転車を使うということを徹底すれば、より多くの人がずっとスムーズに帰宅できるはずなのである。

 折り畳み自転車を個人で購入する場合、2つの方法が考えられる。まず、数万円程度の安い折り畳み自転車を購入して、職場に置きっぱなしにしておくやりかただ。地震が起きた時にのみ使う、と割り切るのである。この方法は職場の室内、例えば自分の机の下あたりの、雨風が当たらず、自転車が痛まないところに自転車を置いておくことができるなら悪い方法ではないと思う。それでも機械は放置するだけで劣化するので、最低限のメンテナンスを欠かすことはできない。特にタイヤの空気は徐々に抜けていくから、ポンプも一緒に置いておくべきだろう。
 ただし、この方法は日常的に自転車に乗っていない人にはあまり勧められない。常日頃とは異なる震災時に、慣れない自転車に乗って、いつもは通らない道を長距離走って帰宅することにはそれなりの危険が伴うと考えるべきだ。少なくとも日常的に自転車に乗って、自転車の安全な乗り方を熟知し、なおかつある程度の長距離走の経験を積んでいないと難しいのではないだろうか。

 もう一つの方法は、少々張り込んで10万円前後、あるいはそれ以上の価格のきちんとした折り畳み自転車を買うという方法だ。この場合、ただ職場に置きっぱなしにするのは割に合わない。自転車用ヘルメットやクローブ、輪行バッグなどを買って、より機動的に折り畳み自転車を使いこなすべきである。
 きちんとした品質の折り畳み自転車は、それなりの走行性能を持っているから、日々の自転車通勤にも十分使える。輪行バッグがあれば、疲れたり雨が降ってきたりしたとき、そこから電車やバスに乗り換えることもできる。会社の帰りに酒を飲んだ場合も、法律違反である飲酒運転(そう、自転車でも飲酒運転は禁止されている)をせずに自転車を持ち帰ることができる。次の日に自転車通勤をしないならば、折り畳んで輪行バッグに収納した状態で職場に置いておくこともできる。

 そしてなによりも、日頃から自転車通勤をしていれば、震災時でもまごつくことなく安全に帰宅することができる。走り慣れた道をいつも通りに走るだけでいい。
 私としては、安い折り畳み自転車を職場に置きっぱなしにするよりも、初期投資コストはかさんでもきちんとした折り畳み自転車を日頃から使いこなすというほうがよいと考える。

 このような個人による備えとは別に、職場で行う備えも考えられる。会社の側で社員人数分の折り畳み自転車を常備するというのはどうだろう。人数の多い職場では初期投資が大きくなるが、この場合は安価な折り畳み自転車を購入する代わりに会社が自転車店と契約し、一括して定期的な整備を行うという手法が考えられる。時折、防災訓練として全社員の自転車帰宅と翌日の自転車出社を実施すれば完璧だろう。

 会社が防災対策の一環として帰宅用自転車を整備すると、自転車通勤にとって微妙な問題である労災(労働者災害補償保険)の問題もクリアすることができるだろう。通勤時の事故は通勤災害と総称される。厚生労働省・東京労働局の通勤災害についてによると、通勤災害が認定されるためには「合理的経路であること」「通勤が中断されていないこと」という条件が付いていて、自転車通勤の場合「合理的経路か」ということが問われることになる。

 東京労働局は、「合理的な経路については、通勤のために通常利用する経路であれば、複数あったとしてもそれらの経路はいずれも合理的な経路となります。」としていて、例えば「晴れの日は自転車通勤、雨の日は電車」というような通勤形態でも、労災の対象になるとしている。しかし、「会社から支給された定期券で通常は通勤し、たまに自転車通勤」となると、事故が起きた際の労災適用の判断は微妙になる。

 震災時の自転車帰宅には、そうしなければならない合理性があるので、事故があれば通勤災害と認定される。が、例えば「職場に置きっぱなしにするつもりで個人で折り畳み自転車を買ったが、経路確認のために試しに自宅まで乗って帰った」という場合には、労災対象となりにくいだろう。

 会社が震災時の防災手段として折り畳み自転車を導入し、制度を整備していけば、おのずと自転車通勤は労災対象に入るようになるだろう。もちろん「自転車通勤に切り替えて、会社支給の定期券は払い戻して着服」などというのは論外である。

 おそらく私が主張するまでもなく、今回の震災を契機に自転車通勤を真剣に検討するようになった人は少なくないだろう。その場合、一番の障壁となるのは「どんな自転車を買うかどうか」とか「会社が認めてくれるかどうか」といったところではない。「多くの人が自転車に乗る際の交通安全規則とマナーを理解していない」ということ、そして「路上における自転車の位置付けがあいまい」ということだ。

 規則とマナーについては本連載の「やってしまいがちな危険行為と、その根底にあるもの」で、自転車の位置付けについては「日本でママチャリが発達した理由」で解説した。

 自転車が路上で守るべきルールは、これから地道に普及啓発していくしかないだろう。そして、今回の震災から都市計画の面で学ぶことがあるとすると、まずは道路交通の中に自転車をきちんと位置付けることだと私は考える。具体的には、「"自転車2.0"を巡る社会状況」で指摘した、自転車にとって走りやすい構造の自転車専用レーンを増やしていくべきではないだろうか。

 震災時の帰宅困難者の存在は、解決不可能ではない。自転車という乗り物を有効活用し、それに合わせた都市計画を実施することで解決可能な問題だと私は考える。

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プロフィール

ノンフィクションライター。1962年、東京都出身。日経BP社記者を経て、現在は主に航空宇宙分野で執筆活動を行っている。著書に火星探査機『のぞみ』の開発と運用を追った『恐るべき旅路』(朝日新聞社)、スペースシャトルの設計が抱える問題点を指摘した『スペースシャトルの落日』(エクスナレッジ)、桁外れの趣味人たちをレポートした『コダワリ人のおもちゃ箱』(エクスナレッジ)などがある。

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