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yomoyomoの「情報共有の未来」

内外の最新動向をチェックしながら、情報共有によるコンテンツの未来を探る。

iPadを待ちながら:我々はどれくらい自由であるべきなのか

2010年2月12日

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先月末に Apple により発表されたタブレット型コンピュータ iPad についての賛否も一通り出尽くした感があります。

Apple がタブレットを出すという話は昨年末の段階で噂というより既成事実化しており、また個人的にはちょうど3年前の iPhone の発表が最も衝撃を受けた製品発表だったため、どうしてもそのときと比べてしまうのもあり、大方予想通りというか、むしろいささか肩透かしですらありました。

ワタシは何も iPad がダメだとか成功しないと言いたいのではありません。実際 iPad は(控えめに言って)それなり以上に売れるでしょうし、少なくとも電子書籍、電子出版の分野に多大なインパクトを与えるでしょう。

しかし、単なる機能面の満足/不満足に留まらないもやもや感は何だろうと思っているところでアーロン・シュワルツ"Is Apple Evil?" という文章を読み、少し分かった気がしました。

この若き俊英も iPad には失望したようですが、だからといって iPad が売れないとか、欲しくないとか言うつもりはないと書きます。彼が問題視しているのは、iPad により Apple の製品ラインの未来が iPhone OS にあることが明確化したこと、そして何より iPhone OS が Apple の完全な管理の元にあることです。

ここでの「iPhone OS」には AppStore とそのエコシステムまで含まれることに注意すべきで、Apple の認可なしにはアプリケーション一つ登録できない管理体制が携帯電話の世界に留まらず、パーソナルコンピュータ分野まで拡張されることこそ Apple の「計画」なのだとシュワルツは説き、それに悪い予感を感じ取ります。

ここまできて思い出すのは、ジョナサン・ジットレインの『The Future of the Internet and How to Stop It』です(邦訳は『インターネットが死ぬ日』)。iPad については Amazon の Kindle との比較が多く語られますが、そんなレベルに留まらず、長期的に見れば Apple (というかスティーブ・ジョブズ)自身がおよそ30年前に Apple II によって本格的に市場開拓した「パーソナルコンピュータ」という generative なプラットフォームに引導を渡すのかもしれません。

ワタシはジットレインの原書を取り上げたとき、「アップルは iPhone SDK を公開しており、コントロールの手綱とエコシステムのバランスを取ろうとするなど、一部現実が本の内容を追い抜いているのかもしれません」と書いていますが、AppStore における Apple の管理体制を巡って伝えられる開発者の不満話を聞く限り、ワタシの「一部現実が本の内容を追い抜いている」という評は間違いだったと認めざるをえません。

さて、そのジョナサン・ジットレインは iPad についてどう思っているか調べてみたら、案の定 "A fight over freedom at Apple’s core" という文章で、Apple II と iPhone の比較、そして Apple によるアプリ認可制が自由とイノベーションにとって脅威であることを踏まえた上で iPad を論じています。

ジットレインもシュワルツと同様に、iPad の OS がパーソナルコンピュータである Mac OS でなく iPhone OS であり、Apple が機器利用の監視者(gatekeeper)であろうとしていることに注目しています。ジットレインの文章は以下のように終わります。

ジョブズ氏はパーソナルコンピュータ時代の先駆者だったが、今、彼はパーソナルコンピュータ時代を終わらせようとしている。我々が手にする機器が魅力的で使いやすいとしても、我々は自由を守ることに注力すべきなのだ。

しかし──ここでワタシはまた立ち止まります。そんなに自由は重要なのだろうか? 我々は自由を守ることに注力すべきなのだろうか? どれくらい自由であれば十分なのか?

ワタシ自身は iPhone を所有しており、しかも利用者として iPhone に概ね満足しています。今のところ iPad が出ても買うつもりはありませんが、絶対買わないと言うつもりはありません。それなら iPad がもたらすであろう「利便」は、「自由」の価値を凌駕するのか──ワタシは口ごもってしまいます。

この問題に関して「iPadの場合は、もしかしたらApp Storeのような管理権限をもつことが、最終的には生成性をむしろもたらすことにつながるのではないか」という池田純一氏の見方は面白いですが、それでもジットレインの元の文脈から離れるように思います。この行き止まり感は、八田真行が今から4年前にオープンソース/フリーソフトウェアについて書いていた文章の最後に近いものを感じるのです。

私たちは今や十分に自由だ。少なくともそんな気はする。喜ばしいことである。しかし、それは持続可能なものなのだろうか? 私たちは本当に自由になったのか?

我々は本当に自由になったのでしょうか?

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プロフィール

1973年生まれ。 ウェブサイトにおいて雑文書き、翻訳者として活動中。その鋭い視点での良質な論評に定評がある。訳書に『デジタル音楽の行方』、『Wiki Way』、『ウェブログ・ハンドブック』がある。

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