Wikiについて語るときに我々の語ること
2011年1月13日
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昨年の秋、日本でも評判となったドン・タプスコット、アンソニー・D・ウィリアムズ『ウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ』のコンビによる続編『Macrowikinomics: Rebooting Business and the World』が刊行されました。この本の情報は公式サイトをあたっていただくとして、タイトルに「マクロ」が付いているだけあって前作よりも大きな枠組みで経済をとらえることを目指した本との触れ込みですが、基本的に『ウィキノミクス』の最新事例版と考えてよいでしょう(今年、日経BPから邦訳が出るのかな?)。
実はこの新刊を知ったとき、すぐに『ウィキノミクス』と結びつきませんでした。書名が長くなって分かりにくいというのがありますし、特に書名の中で Wiki が埋没しているように見えたのが個人的には大きかったように思います。
Wiki とは、1995年にウォード・カニンガムが開発した WikiWikiWeb に端を発するウェブ上の情報共有システムであり、現時点で最も有名な Wiki サイトはオンライン百科事典 Wikipedia です。『ウィキノミクス』にしても書名に Wiki の文字が入っていますが、Wiki 一般というより Wikipedia の成功に依っています。
先月『Wikibrands: Reinventing Your Company in a Customer-Driven Marketplace』という本が出ましたが、ドン・タプスコットが序文を書いていることからも分かる通り、この本に底流する「Wiki観」も『ウィキノミクス』に通じるものがあります。
『Wikibrands』の公式サイト(Twitter や Facebook などソーシャルサービスのアカウントが一通り並んでいるところが今風ですね)では書名に掲げる Wikibrands を「消費者の参加、影響、そして協力を活用して価値を押し上げる製品、サービス、組織、理念、主義の斬新的な集合」と定義しています。
「ウィキブランド」という言葉だけ見ると奇異に思えますが、実はこの言葉はこの本で初めて提唱されたものではなく、本ブログの「Wiki Wayレトロスペクティブズ」でも取り上げています。詳しくは当時のメディア・パブのエントリを参照いただくとして、2007年頃から使われ始めたような言葉にしては「企業が消費者に一方的にブランドイメージを押し付けるのでなく、消費者とコラボレーションしながらブランドを再構築すべき」というメッセージ自体、当時にしても新奇なものではありませんが、そこに Wiki という単語をもってきたところが目新しかったわけです。
ワタシが面白いと思うのは、Wiki という言葉から人が受けるイメージ/言葉に託すイメージの相違やその変化です。ウォード・カニンガムが旅行で訪れたホノルルの Wiki Wiki シャトルバスにちなんで自身のソフトウェアを WikiWikiWeb と名付けたことに始まるわけですが、元々 Wiki とはハワイ語で「素早い(quick)」にあたる単語です。それだけでコラボレーションツールを想像するのは難しいものがあります。
ワタシは『Wiki Way コラボレーションツールWiki』の翻訳を契機にこれに関わるようになるわけですが、実はずっと「Wikiとは何か?」という疑問を考え続けてきたように思います。一般的にはブラウザ上で共同で編集可能なサイトを指しますが、その条件を満たす情報共有サイト、コラボレーションツールでも Wiki と呼ばれないものはありますし、一方で上に書いた定義からはみ出す Wiki も存在します。
しかし、確かに自分の中で「Wikiらしさ(Wiki-ness)」というべきブログや掲示板システムと Wiki を分かつ確固たる性質があり、そしてそれをうまく定義できないもどかしさを抱えてきました。江渡浩一郎氏の『パターン、Wiki、XP――時を超えた創造の原則』は、同じ疑問から始まって Wiki 誕生の背景を探り、建築家クリストファー・アレグザンダーのパターンランゲージという水源に遡る本です。
『思想地図β vol.1』に収録された座談会「パターンの可能性 ――人文知とサイエンスの交差点」における江渡氏の発言を引用します。
例えば、いろいろな人がコラボレートしてウェブサイトをつくったり、ツイッターのように集合的な意見を集めていくツールや手法はいろいろあるわけですが、その中でWikiだけは特別な存在だと考えざるをえないところがあります。なぜかというと、Wikiは他のツールと違って、パターン・ランゲージの理論に裏打ちされた構造を有しているために、自己組織化を促して普遍的に生き残りうるものだと思うからです。(159ページ)
以前ワタシが『パターン、Wiki、XP』を取り上げたときは「生成的」という言葉に注目しましたが、ここでは「自己組織化を促して普遍的に生き残りうる」という表現が使われています。
ただ一般的なネットユーザにとっての「Wiki観」は、前述の通り最も成功した Wiki である Wikipedia に依るところが大きかったと思います。Wikipedia をそのまま Wiki と呼ぶ人も多く、それに対して「WikipediaをWikiと略すな」と物言いをつけるのももはや定番のネタでしたが、昨年機密情報公開サイト Wikileaks が大きな話題、論争を巻き起こしてから様相が変わりつつあります。
Wikileaks の評価については本文の趣旨から外れるので深追いしません。確かに Wikileaks はその初期には、Wikipedia と同じく Wikimedia 財団が開発元である MediaWiki を使っていたものの、現在はサイトを共同で編集する機能は提供していません(Wikileaks の About ページには、「(Wikileaks と Wikimedia 財団の)二つの組織は特に関係はないが、我々のニュース記事は Wikipedia の見栄えの良い表示形式を採用している。Wikipedia と異なり、任意の読者が我々の元文書を編集することはできない」という記述があります)。
つまり現在の Wikileaks を Wiki と呼ぶのは、Wikipedia を Wiki と略す以上に問題があるわけですが、現に古参ブロガーにして RSS やポッドキャストなどの誕生と発展に大きく関わったデイヴ・ワイナーが、Wikileaks に関する記事を集約するニュースアグリゲータを Wikiriver と名付けた事例があります。
この話を知ったときは、何でワイナーともあろう人がわざわざ Wiki を名前に含める愚を犯すのか......と不思議に思ったものですが、もしかしたら彼はあえてこの言葉を選んだのかもしれません。
要因として想像したのは二点。まず一点目は、とても原始的な感覚で「Wiki」という言葉の語感の良さです。これはある Togetter まとめを見たときに思い当たったのですが、この単語は日本人にも発音しやすくどこかチャーミングな響きがあります。もしかしたらアメリカ人にとってもこれは(大げさに書けば)一種の魔力のある単語なのかもしれません。
そして二点目は、Wiki という言葉が内包する思想です。確かに Wikileaks はもはや Wiki ではありませんが、情報を公開共有し、より良いものに世界を書き換えてやろうというハックの意志は共通するのかもしれません。
ここで思い出したのは、江渡浩一郎氏の Wiki についての論文「なぜそんなにもWikiは重要なのか」における以下のくだりです。
そう、Wikiの本当の目的は「新しい社会構造を作る」ことにあり、その試みは今まさしく成功しつつあるのだ。
......ここまでくると「俺の文章を勝手に違う文脈にあてはめるな」と江渡さんに怒られそうなのですが、いずれにしても我々が未だ飽きることなく向かいあう Wiki という言葉を選んだウォード・カニンガムの直感は素晴らしかったと唸らされますし、Wikileaks の存在によって Wiki という言葉のイメージがどう変化するかに興味があります。そして、できればこれからも Wiki が自己組織化を促して普遍的に生き残りうる存在であることを願います。
yomoyomoの「情報共有の未来」
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