Wikipediaがプラットフォームになるのを妨げているもの
2011年2月10日
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先日、特集「ソーシャルネットワークの現在」が目当てで久しぶりに雑誌『ユリイカ』(2011年2月号)を購入しました。面白い文章がいろいろありましたが、ここでは池田純一氏の映画『ソーシャル・ネットワーク』評「第n次カリフォルニア南北戦争」を取り上げます。
『ソーシャル・ネットワーク』については日本公開前に書いた「マルコム・グラッドウェルの苦言と岡田斗司夫の予言」でも触れていますが、ワタシ的には期待通りの見応えのある映画でした。
しかし、この映画においてハリウッドはシリコンバレーの創造性を取り違えていると池田氏は書きます。ハリウッドにとって創造性とは、特定の個人(多くの場合、破天荒な性癖の持ち主や芸術家肌の天才)の才能に基づく creativity のことですが、シリコンバレーではそれは違うというのです。
シリコンバレーが考える創造性とは、ジョナサン・ジットレインいうところのgenerativityのことだ。つまり、ある場所に集う人々が自発的に何かを行うような舞台をいかにして用意するか、そこに費やされる知恵こそが創造性だ。簡単にいえば、プラットフォームを作ることだ。加えて、generativityとは場の設定に関わるものであり、本質的に集団作業だ。(96ページ)
ジョナサン・ジットレインの主張については「インターネットの好ましからざる未来を止め、生成力を保つことはできるのか」を読んでいただくとして、池田氏の文章はローレンス・レッシグの「ソーキンVSザッカーバーグ」と並んであの映画の批判として納得いくものです。
さて、実は Facebook の話はここまでで終わりです(正直 Facebook 論は食傷気味なのです......)。上に引用した文章を読んだとき、ワタシは先月 ReadWriteWeb で公開された Something's Keeping Wikipedia from Becoming a Platform というエントリを思い出しました。この文章はWikipedia10周年に合わせて書かれたものですが、その成果を祝うものが多かった他の記事とは一線を画するものでした。
Wikipedia にしても問題はいろいろ抱えており、昨年末からその資金不足が「ウィキペディア創設者ジミー・ウェールズからのお願い」のバナー画像におけるジミー・ウェールズの顔のでかさにより否が応でも認知されましたが、ReadWriteWeb のエントリはそれとも違い、意思決定エンジン Hunch が Wikipedia のデータ使用を止めた話題から始まり(Hunch にはジミー・ウェールズも参画してたはずですが......)、Wikipedia は destination website の位置に留まったままで、ウェブサービスの時代に適した「プラットフォーム」となる可能性を実現できていないと論じるものです。
現在、位置データベースが多くの位置ベースのテクノロジーに利用されているように、Wikipedia はほとんどあらゆる項目について豊富な情報をアプリケーションに加えるプラットフォームになれるはずだとマーシャル・カークパトリックは主張します。それが可能になれば、ソフトウェア企業は情報の付加は Wikipedia に任せてユーザ体験に注力できるのに、と。
ジミー・ウェールズは、Wikipedia には一応機械可読な構造化データが既に相当量あり、そうした情報を Wikipedia から取り出して面白いことに利用することに協力すると語っていますが、単なるウェブベースの百科事典に留まらず、再利用に適した「データプラットフォームとしての Wikipedia」が未解決の問題であることは Wikimedia 財団の特別研究員も認めています。
Wikipedia の構造化データに関しては、セマンティックウェブとの絡みで以前から研究がなされていることはワタシも承知していて、日本では例えばセマンティックウェブとオントロジー研究会の発表を注意して追ってきましたが、今ひとつピンとこないというのが正直なところです。
実際には Wikipedia をプラットフォームとして利用する試みはいくつもあり、TechCrunch が主催するスタートアップコンテスト TechCrunch Disrupt で最優秀賞に選ばれた Qwiki が最も注目を集めているサービスでしょうか。
Qwiki は情報検索の未来体験と激賞され、エドゥアルド・サベリン(そう、映画『ソーシャル・ネットワーク』で Facebook から追い出されちゃった共同創業者のあの人)などから800万ドルを調達するなどなかなか快調です。
先月末に一般公開されたのを受けてワタシも Qwiki を少し使って見ましたが、シンプルかつダイナミックなインタフェースに最初衝撃を受けました。が、しばらく使っていると慣れもしますし粗も見えてきます。今後出る予定の iPad アプリの出来次第で爆発的に普及する可能性もありますが、「プラットフォームとしてのWikipedia」という命題を考える場合、もしかしたら Qwiki のような派手なものよりも Wikipedia をまさにデータベースとして扱う DBpedia のような試みのほうが重要なのかもしれません。
ただ、Wikipedia がプラットフォームになるのを妨げているのは、いつでもその中身を編集できる不定性を性とする Wiki そのものではないか、とかつて「これから Wikipedia コミュニティは Wiki と pedia の間を揺れ動くことになるかもしれません」と書いたワタシは思ったりもします。
言うまでもありませんが、ワタシは Wikipedia(コミュニティ)を批判したいのではありません。ただ Wiki としての特性が裏切ってしまうものもあるのではないかとふと思うわけです。
前回「Wikiについて語るときに我々の語ること」において、厳密には Wiki ではないのにそれを名前に冠する Wikileaks について触れました。ちょうどその後 Wiki の父であるウォード・カニンガムの最新インタビューが公開されたのですが、Wikileaks について尋ねられたカニンガムは、Wikileaks に Wiki 的(wiki-ish)な何かがあることは認めつつも、透明性(transparency)が欠如していると指摘しています。Wiki にとってキーとなるのは信頼であり、透明性と正確性の両方が揃うことが信頼につながるというのです。
注意しなければならないのは、カニンガムは Wiki という観点から Wikileaks に足らないものを指摘していることで、Wikileaks そのものをダメとは言っていません(多分)。カニンガムが透明性の欠如を指摘しているのは、自分たちの活動により透明性が増し、透明性がすべての人々にとってより良い社会を創造する、と Wikileaks 自身が主張していることと合わせる皮肉に思えるかもしれませんが、それは正しくありません。
カニンガムが指摘する編集の透明性の欠如は、Wikileaks が目的とする透明性を実現するのに欠かせないものだからです(この編集プロセスが透明になったら内部告発者を護れないし、協力者も一網打尽になる危険性が増してしまう)。Wikileaks が技術的にこの点にいかに腐心したか、またその思想的背景については、今週刊行されたばかりの『日本人が知らないウィキリークス』の第4章「ウィキリークスを支えた技術と思想」が抜群に面白いので一読をお勧めします。
この章を執筆した八田真行は、Wikileaks という存在の理由をジュリアン・アサンジという人物の性格だけに求めることを戒め、サイファーパンクという文化的土壌について言及していますが、それは本文の冒頭に引用した池田純一氏の creativity についての文章と似た構図が見てとれます。同じく「プラットフォームとしてのWikipedia」という未解決の問題は、その特質を維持するために犠牲になるものがあるという意味で、上に書いた Wikileaks と透明性についての問題と似たものを感じる、と書くとこじつけと言われるでしょうか。
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