「自由の真の代償」と「自由の真価」 〜 サイバースペース独立宣言を越えて
2008年4月16日
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ブルース・シュナイアーが、Nature に『Access Denied: The Practice and Policy of Global Internet Filtering』という、OpenNet Initiative の研究員がインターネット検閲の世界的な現状をまとめた本の書評を書いています。
書評は、1993年のジョン・ギルモアの「ネットは検閲をダメージと解釈し、それを回避する」、そして1996年のジョン・ペリー・バーロウの A Declaration of the Independence of Cyberspace(サイバースペース独立宣言)における「諸君には私たちを支配する道徳的な権利はないし、諸君は私たちが心から恐れるようないかなる強制手段も持ち合わせてはいない」という、電子フロンティア財団を立ち上げた二大巨頭の有名な文章の引用から始まります。
バーロウの「サイバースペース独立宣言」は、通信品位法が上院を通過し、クリントン大統領が署名したことへの抗議として書かれたものですが、シュナイアーは当時多くの人たちがこの宣言に共感したことと、10年以上経ってサイバースペースは独立どころか、インターネットへのアクセスを選択的にブロックするフィルタリングが中国を筆頭に少なくとも26の国に広がっていることを対比させています。
書評は国家によるインターネット検閲の主な三つの動機、手法や粒度で変わりうるフィルタリングの有効性に触れていて興味深いのですがここでは割愛します。シュナイアーは、最後に再び「サイバースペース独立宣言」から「諸君はサイバースペースの最前線に前哨所を立ち上げることで、自由というウィルスを寄せつけまいと試みている。ちょっとの間なら、感染を退けておくことはできるだろう。しかし、すぐにディジタル・メディアで覆い尽くされるはずの世界では、役には立たない」という文章を引用して、「勇ましい言葉だが、未熟」と断じています。
確かに今では1996年当時よりもずっと多くの人たちが、ずっと多くの情報にアクセスできるようになった。しかし、インターネットは物理的なコンピュータにより構成されており、その接続には国家の境界も問題になる。今日のインターネットにもやはり国境は存在し、国家はますます通過する情報をコントロールしたがっている——
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アメリカの通信品位法から12年経って、同じく未成年者をインターネットの有害情報から護ることを目的とするインターネット規制法案が与野党の内部で審議されていることが、今月に入ってニュースサイトで報じられ、また当方がよく読むブログの多くがこの問題を取り上げています。
最初に当方の考えを書いておくならば、有害コンテンツを規制するという方向性自体反対であり、この法案が国会を通り、そのまま施行されるなら、その日は日本のインターネット産業に大きな節目、というより(未成年者に限らず)日本人にとって「インターネットが死んだ日」と後に語られることになると考えます。これからますますインターネットが我々の生活で密に利用されることが分かりきっているのに、この法案が時の検証を耐えうるとは思えません。
MIAU から「青少年ネット規制法案についてのプレスリリース」が出され、その内容については批判もありましたが、このプレスリリースで挙げられる7つの問題点が、ネットユーザの多くが共有する疑問なのも確かです。当方にはこの法律の必要性自体に疑問を覚えますし、これがまた利権化されるのが予想できるのも気に食わない——
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さて、以上は WIRED VISION の読者層の多数派と大方合致する意見だと思います。規制賛成より規制反対を叫ぶほうがネット的には受けが良いのは間違いありません。しかし……それだけでよいのでしょうか?
規制は嫌だ、自由を守れとだけこれまで通りに(ネット上で)繰り返していても状況は好転しません。今回のインターネット規制法案にしても、ネットユーザの怠惰の結果と言われても当方には反論できません。実効的な対案が必要ですし、池田信夫氏が書くように「いずれにしてもインターネットは、もはや自由放任で機能するユートピアではない。国家権力が出てくる前に対案を示せるかどうか、ネットコミュニティーの自治能力が問われている」と思います。もはや我々には、「サイバースペース独立宣言」を叫んで悦に入ることは許されないのです。
ただ好き勝手に振舞えるのが自由ではない。規制されければ自由なのでもない。それなら自由とは何か? ……という話を突き詰めるととても当方の手には負えないので、最近この言葉について考えさせられた文章を紹介しておきます。
それは Econimist に掲載された The real price of freedom です(山形浩生による翻訳と解説)。この文章は民主国家の国民の自由を制約すれば安全につながるとしても、自由を犠牲にしてはいけない、と決然と訴える論説です。
とてもではないが、当方はこの文章のように "So be it" と言い切ることはできません。意見を求められたら、やはり「人権と安全の適正なバランスがとりながら——」と口ごもるでしょう。しかし、「片手を背中に縛られた状態」こそが民主国家がテロと戦うべきやり方であり、そしてそれを貫けば多くの人命が失われかねないことを認め、逃げ道を断ったこの論説は、自由は口をあけて待ってれば与えられるものではなく、闘いの上で勝ち取るものであり、そこで必然的に生じる自由の真の代償こそが、自由の真価(The real price of freedom)につながることを思い起こさせてくれます。
国民の権利とテロリズムとの闘いの話をインターネット規制法案の話にそのままつなげるのはいくらなんでも無茶というものです。しかし、我々は規制への嫌悪、あと言い訳や方便ばかり弄して逃げるのではなく、インターネットの負の部分を認めた上で、それでも譲れない一線があることを政治に対して(できればネットを最大限使って!)納得させ、ネットをより良き場にするために、その負の部分に対して自らの手を汚す地道な努力を続けなければならないのではないでしょうか。
最後に、ブルース・シュナイアーが『セキュリティはなぜやぶられたのか』で引用していたベンジャミン・フランクリンの言葉を再び引いて本文を終わりにします。
ほんの少しの安心と引き換えにいちばん大切な自由を手放す人は、自由も安全も享受する資格がない。
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