『1Q84』はBOOK2で完結したのか
2009年5月31日
予想はおおむね外れた、が
村上春樹氏の新作『1Q84』を読んだ。先週の2回のエントリでタイトルなどを頼りにストーリーを予想したが、「オウム真理教をモデルにした教団が登場する」という点は合っていたものの、カルト教団は内部から語られるのではなく、主人公たちを通して外部から描かれた。ネズミは出てくるが思っていたほど重要な「役」ではなかった。砂漠は心象としてちらっと出てくるだけで、幻視する空間としては出現しない。変性意識は、教団の信者が薬物や装置の助けを借りて到達するのではなく、主人公2人がそれぞれ職業的な訓練の賜物として、テレビのチャンネルを変えるみたいにカチッと切り替えて――「ナチュラルハイ」とも言える状態に――行き来できるものだった。
四半世紀にわたり史実と1年ずれて重大な事件が起きると予想したとき、パラレルワールドという考えはあったが、1984年の代替としてある「1Q84年」の半年間にピークが来るような設定とは考えなかった。小説の構成は、奇数章が(青豆)が主役の章で偶数章が(天吾)が主役の章、BOOK1とBOOK2それぞれ24章から成る計48章で、形式としてはバッハの『平均律クラヴィーア曲集』と同じ「完全なサイクル」のようにも見える。でも、本当にすべてが終わったのだろうか?
天吾と青豆
偶数章の主人公である「天吾」は予備校で数学を教えるかたわら小説も書く29歳の男性で、わかりやすい作家の分身だ。文芸誌の編集者・小松の依頼により、17歳の美少女・深田絵里子(通称ふかえり)の新人賞応募作『空気さなぎ』をリライトすることで、奇妙なトラブルに巻き込まれていく。
奇数章の主人公「青豆」は、おそらく村上作品史上最もユニークなキャラ設定のヒロインで、簡単に言えば『必殺仕掛人』の現代女性バージョン。表の顔はストレッチと女性向け護身術のインストラクターで、「走る作家」としても知られる村上氏のもうひとりの分身だ。
2人は小学校時代のクラスメイトで、10歳のときにある強烈な体験を共有する。直後に青豆の転校で離れ離れになり1984年の現在に至るが、今でも互いに相手を想っている。そしてそれぞれ、運命に導かれるようにカルト教団「さきがけ」とそれを影で操る「リトル・ピープル」に対峙することになる。
膨大な「知」と「芸術」の凝縮、意外な変化
文学では『平家物語』からチェーホフの『サハリン島』、そしてもちろんオーウェルの『1984年』まで、音楽ではバッハからローリング・ストーンズ、映画も『渚にて』『ミクロの決死圏』など、過去の膨大な作品群への絶妙な言及・引用は今作でも健在。さらに1920年代の欧州から60年代以降の日本における学生運動、過激派による事件、そしてオウムを思わせる教団など、史実と虚構を織り交ぜて改変された歴史も加わった。凝縮された濃密な小説世界でありながら、ソリッドさを増したテンポの良い文体でぐいぐい読ませる。
三人称文体の採用は発売前から噂になっていたが、たとえば天吾を指し示す語をよく見ると、地の文では「天吾」「彼」のほか、内声として「おれ」「自分」も使われ、一方で発話では「僕」になっている。天吾の自意識の揺らぎ、さらに作家と天吾の距離感の揺らぎが表れているようで興味深い。
少し意外に感じられたのは大衆小説への接近とも思える変化で、過去作よりも猥雑な要素や表現が確実に増えた。「汁気たっぷりのスキャンダル」という表現が出てくるが、この小説自体がスキャンダルに満ちている。特に青豆による性的な体験と過激な言動のバラエティーの豊かさは村上作品のヒロインの中でも異例だろう。
天吾と青豆それぞれが主体的に関わる、性的または暴力的で、インモラルな行為が実に生々しく描かれる。感情移入する読者の心の負担を軽減するエクスキューズは用意されているものの、手放しで面白がれない複雑な気分も味わう。スピリチュアルな善の儀式や正義の私的制裁が法律や倫理より優先されてよいのか、という難しい文学的命題がそこにはある。
語られない映画たち
明示的に言及された作品のほかにも数多くの参照があるはずで、一読して気づいたもののうち映画について取り上げてみたい。最も関連性が高そうなのはデイビッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』で、共通点や類似点を挙げるとこんな感じだ([ ]内は『1Q84』の要素)。
・映画を作ることに関する映画[小説を作ることに関する小説]
・異界[1Q84年世界]への移動と、「鍵」になるパッケージ
・リトル・ピープルの出現
・ヒロインによるレズ行為と、最後の決断
ほかに、以下の映画も部分的にモデルにしている可能性がある。
- 『2010年宇宙の旅』:月面基地、2つの太陽[2つの月]、1984年米国公開。
- 『アダプテーション』:作者を投影した主人公と、その分身のような双子[天吾と青豆の分身関係]、原作本を脚色する脚本家[原稿をリライトする小説家]、メタ構造の「クラインの壺」的展開(後述)。
- 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』:仕事回りに子供を連れ歩く「親」、宗教家の殺害。
- 『(ハル)』:主演・深津絵里[深田絵里子]。パソコン通信のチャット[抑揚のない発話]、想い合いながら出会わない男女。(ついでに、映画では本棚に並んだ村上作品も登場する)
- 『ナチュラル・ウーマン』:出演・緒川たまき[大塚環(おおつかたまき)]。学生時代のヒロインとクラブ仲間、旅行先でレズ行為。後に自殺。
パーソナルな問題への回収、でいいのか
左翼思想の過激派による事件やオウム真理教・エホバの証人をそれぞれモデルにした出来事・団体を重要な要素として壮大な物語を構築しながらも、BOOK2の中盤で「対決」はほぼ終わる。そして終盤では、作中作『空気さなぎ』が1Q84年世界に影響を及ぼす――メタ構造がクラインの壺のように逆転し、内部が外部を含んでしまう――のをどうやって登場人物に解決させるかというストーリーテリングの問題と、村上氏が過去作でほぼ避けてきた父との関係をめぐる問題という、作家にとってのパーソナルなテーマに回収されてしまった印象がある。もちろん、『神の子どもたちはみな踊る』あたりから語られてきた「失われた中身」、空虚な自我への解決として、過去の受容と、家族をはじめとする身近な人間関係の再構築が提示されているのはわかる。ただ、デタッチメントからコミットメントへというこれまでの村上氏の流れから、もっと大きくて力強い解を期待しながら読み進んでいたのも偽らざる心境だ。
とはいえ、作中に残された未解決の謎や、置き忘れられたかのような伏線があることからも、『1Q84』BOOK3か、『1Q95』などと題されるような第3巻が刊行される可能性も十分にありそうだ。発売前のインタビューでは『ねじまき鳥クロニクル』より長くなるという話もあったし、その『ねじまき鳥~』も第1部・第2部の刊行から1年以上たって第3部が発表された。
神戸連続児童殺傷事件がモチーフのひとつになったと思われる『海辺のカフカ』では、解離性同一性障害とおぼしき主人公に自己の回復の可能性が示されていた。『アンダーグラウンド』で地下鉄サリン事件の被害者と、『約束された場所で』でオウムの信者・元信者と真摯に向き合った村上氏だからこそ、被害者とカルト関係者(そして彼らと同じ社会で一緒に生きる読者)が切実に求めている大きくて力強い解を第3巻で示してくれることを、今から期待してしまうのだ。
6/9追記:この記事が縁で『週刊朝日』から取材されたことを、新しいエントリに書いた。
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