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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

環境こそが経済を最適化する〜公共財と限定合理性

2008年2月12日

(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら

 ここのところずっと宇沢弘文の提唱する「社会的共通資本の理論」をいろいろな角度から紹介して来た。今回は、その仕上げをしようと思う。

 宇沢のいう「社会的共通資本」とは、通常の消費財のように市民が好き勝手に価格取引をすることが許されないような財のことである。それは、その財が人間の生存権や基本的人権などに深くかかわるものだからである。自然環境や社会インフラ、また、教育制度や医療制度などが該当する。このような財の生産と消費は、社会によって適切に管理されなければならない、と宇沢は主張する。

宇沢は、この「社会的共通資本」と、いわゆる「公共財」との違いを強調している。ここでいう「公共財」とは、サミュエルソンによって最初に定義が与えられたものであり、公共財と通常の財の経済学的な違いは以下のようにまとめることができる。

 通常の財は、その総量が分割して消費され、それぞれの「分割部分」が消費者に効用を与える。例えば、市場に100キロのコメが供給され、それをAさんが70キロ、Bさんが30キロ消費したとしよう。このとき、Aさんには「70キロのコメの消費から得るAさんの個人的喜び」が、Bさんには「30キロのコメの消費から得るBさんの個人的喜び」が与えられることになる。それに対して、「公共財」というのは、存在総量がそのまま各自に効用を与える。例えば、サミュエルソンの与えた「国防サービス」を例に取るなら、100単位の国防サービスが供給された場合、Aさんには「100単位の国防サービスの消費から得るAさんの個人的喜び」、Bさんには「100単位の国防サービスの消費から得るBさんの個人的喜び」等々が与えられることになるのである。つまり、「公共財」は分割されずに全員が同じ量だけ消費する、ということなのだ。

 ぶっちゃけていうなら、通常の財の消費は「個人的」であり、公共財の消費は「集合的」である、といえばわかりやすいだろう。この違いは、経済学的には非常に大きなものである。通常の財に関する最適消費の均衡は競争均衡(ワルラス均衡)というもので、それが「個人的」であるがゆえ、価格を仲立ちにした自由な市場取引で実現されるのに対し、公共財に関する最適な消費は別の均衡(リンダール均衡) によって与えられ、それが「集合的」であるがゆえ、自由な価格取引では実現されないのである。なぜなら、誰か他人が公共財のために金を出してくれれば自分の効用が得られてしまうので、消費者は自分の欲求を正直に表明しない誘因が働くからだ。(このことのより数理的な理解は、「人を正直にするのは高くつくのだ〜メカニズムデザインの考え方」の回) 。このために、公共財の存在する経済は、「市場の失敗」と呼ばれるのである。

 宇沢は、「社会的共通資本」を、通常の財と異なるばかりでなく、このような公共財とも異なる性格のものであると論じている。端的にいうと、社会的共通資本には「混雑現象」が発生するが公共財にはそれがない、ということだ。例えば、河川をたくさんの人が利用すれば河川は汚染され水質が悪化するし、病院をたくさんの人が利用すれば、待ち時間が長くなったり一人あたりの診療時間が短くなったりして効能が低下する。これは「国防」にはない性質である。

 宇沢は、このような社会的共通資本に特有の性質を、次のような方法で描写している。例えば、医療サービスが100単位供給され、市場に存在しているとしよう。それをAさんが40単位、Bさんが30単位利用しているとする。このとき、Aさんには「医療サービスが100単位中計70単位利用されている混雑のもとで40単位利用したAさんの個人的喜び」が、Bさんには「医療サービスが100単位中計70単位利用されている混雑のもとで30単位利用したBさんの個人的喜び」が与えられるのである。利用者は分割部分から効用を得るのだが、そこに総計何単位(この場合100単位中70単位)の利用がなされているかが影響するので、これは「集合的」でもあり、そういう意味で公共財的な性格を持っている。

 宇沢は、社会的共通資本をこのように定式化した上で、このような財の存在する経済にも最適な均衡としてのリンダール均衡が存在することを証明している。

 さて、ここからはぼくの研究である。
 上記のような、公共財の存在する経済や、社会的共通資本の存在する経済は、ともすると「市場の失敗」としてネガティブに捉えられる傾向がある。つまり、「環境というのはやっかいなものだ」的な捉え方である。しかし、このような捉え方は、経済学特有の「全知全能の仮定」から生じているようにぼくは思うのだ。すなわち、人々はすべての財の自分にとっての価値を正確に知っていて、自分の内面的な選好(選り好みのこと)を完全に掌握している、という仮定である。経済学では、この仮定のもとで、人々は完璧な最適消費計画を立てるとして、均衡を解いている。だから、全知全能の集団なのに、公共財の存在のせいで、「個人の自由行動」が「社会的最適性」を導かないのは困りもの、という風に論じられる。

 しかし、職業経済学者でないほとんどのかたには、このような「全知全能の仮定」はとんでもなく荒唐無稽なものに映ることであろう。ひとたび自分のことを省みれば、自分は決してすべての財についてその選り好みの順序など正確には知らないし、知っていても常に揺らぐし、また知っていることもおうおうにして間違っていて、単なる「思いこみ」に過ぎないからだ。ところが、ひとたびこのような「不完全知」の人間像を受け入れるなら、公共財や社会的共通資本に関する見方を180度裏返すことが可能なのだ。それは、社会的共通資本の存在こそが人々の消費生活に最適性をもたらす、という反転であり、宇沢の主張への援護射撃となりうる議論である。

 今、人々の財に関する知識を「限定的」なものだとしてみよう。つまり、人は自分の選好を正確には把握しておらず、財に関する好ましさの認識はおうおうにして間違っており、とりわけ、消費経験の少ない財に対しては根拠のない「思いこみ」にはまってしまいがち、と仮定するのである。このような仮定は、標準的な経済学からは大きく逸脱しているが、最前線の経済学の中では徐々に研究が積み重ねられているものだ。このような設定は、「限定合理性(bounded rationality)」と呼ばれ、ハーバート・サイモンが先駆者であり、その後、主にゲーム理論のなかで発展してきている分野である[*1]。

 人々のこのような「選好に関する知識の不完全性」のもとでは、人々は最適でない消費状態に陥っている可能性が高い。例えば、あるAさんは、消費経験の少ない財に対しては、いわゆる「食わず嫌い」のために、過少消費をしているかもしれない。このとき、すべての財が通常の財であれば、ひょっとするとAさんはそのような「思いこみ」に気がつくことがなく、ずっと「食わず嫌い」のままで最適消費を実現できない可能性がある。それは、通常の財の消費が「個人的」であり、自分の自由が完全に保証されるからだ。ところが、もしも、財の中に公共財や社会的共通資本があれば、Aさんは自分の「思いこみ」に気がつくことができるかもしれない。なぜなら、これらの財の消費が「集合的」であるため、他人の消費行動の変化がAさんの効用にも直接影響を与えるからである[*2]。

 例えば、加湿器など不要だと思いこんでいたAさんは、職場の誰かが自腹で購入した加湿器の恩恵にあずかって、自分の認識の誤りに気づき、もう一台を職場のために購入する気になるかもしれない[*3]。あるいは、年に一度、公立美術館で絵を鑑賞していたAさんは、あるときたまたま空いている日に遭遇し、じっくりと絵を鑑賞したことで、自分の絵画鑑賞の効用についての認識の誤りに気がつき、それからは毎月行くようになるかもしれない。そんなようなことだ[*4]。

 つまり、人々の知識が全知全能などとはほど遠く、いろいろな思いこみや誤謬にはまりこんでいるならば、公共財や社会的共通資本の存在がそれに気がつかせ、人々の行動を変化させ、社会をより良い環境に導く可能性があるのだ。そのような効果を考えるとき、「お金より環境でしょ〜社会的共通資本とミニマム・インカム」の回で解説した、「市民の最低生活水準の保障は、金銭の給付ではなく、社会的共通資本の充実によって行うべき」という宇沢の主張は、より強く支持されることになるはずである。

* * * * *
[*1] 詳しくは以下の本を参照せよ。
Rubinstein, A.  Modeling Bounded Rationality (1998)
[*2] 実は、これが、ぼくの修士論文のテーマであった。その概要は、
 「フィナンシャル・レビュー」第44号 大蔵省財政金融研究所編
に収められている。
[*3] この議論を、これより少しだけミクロ理論的に説明しているのは以下。
小島寛之『エコロジストのための経済学』東洋経済新報社
[*4] 実はこのような「思いこみの改訂」は、単なる「価格の変化」によっても引き起こされる可能性が十分あり、その場合は市場取引でまかなえることになる。しかし、市場取引での価格変化は全体において微小すぎて「思いこみの改訂」を生じさせないが、社会的共通資本の利用の変化は全利用者にいっぺんに影響を与えるのでそれを生じさせうる、そういうモデルが存在する、というのがぼくの予感である。まだちゃんと数理モデル化できていないので、これはぼくの当面の課題である。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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