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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

競争はそれ自体に価値がある〜「競争」と「自由」

2008年2月20日

(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら

経済社会について語られるとき、必ず登場するのが「競争」である。その多くは、「競争は社会を良くする」、という文脈で語られる。しかし、「なぜ競争は良いことなのか」、ということの答えは一枚岩ではなく、さまざまな答え方がある。そこで今回と次回では、このことについて、改めて愚直に問い直してみたいと思う。とりわけ、経済学者・鈴村興太郎が主張している「競争はそれ自体に価値がある」という斬新な説について解説しよう[*1]。

 競争の利点としてよく言われるのは、以下のようなものである。
 第一は、競争には「無駄を嫌う」と性質がある、ということだ。もしもどこかに経済効率の意味での無駄があるなら、そこには利益獲得のチャンスが生じている。競争は、市場参加者にそのチャンスをものにしようという動機付けをし、彼らの利益獲得行動によって無駄は払拭され、経済は効率化される。例えば、あるワインがAさんに1万円で販売されているとしよう。そして、そのワインに4万円ちょうどの価値を見出しているBさんの存在を、Cさんがたまたま見つけ出したとしよう。このときCさんは、このワインをAさんから2万円で買い取り、Bさんに3万円で転売することだろう。そうすれば、AさんもBさんもCさんも、おのおの1万円の利益を得られる。ここで生まれた合計3万円の価値は、「同じワインがそれに1万円という低い価値をつけている人から4万円という高い価値を見出している人の手に渡ること」から生じたものだ。つまり経済が効率化されたわけである。

 競争の第二の利点は、競争によってイノベーションがもたらされる、ということだ。企業は、市場における自分の立場をライバルたちから隔絶したものにするため、常にイノベーションを模索する。このことは、経済に長期的な進歩をもたらすことになる。

 最後の第三の利点は、競争が、(ハイエクの主張するように)、分権的なシステムの中に散在している私的情報を効率的に活用する「発見手続き」となりうる、ということである。分権的な経済システムの中では、どういう風にすれば最も効率的な経済運営になるかを誰も知らない。それを自動的に計算し、そこに導いてくれるのが競争だ、というわけである。例えば、多くの人がある銘柄のワインを欲しているなら、そのワインの小売価格が上がるだろう。その小売価格上昇を知った輸入業者は、海外の生産者に今までよりも高い価格での買い付けを申し出て、もっと多く注文することだろう。それを聞いた生産者は、その銘柄のワインの増産を試みることになる。これによって、そのワインの需要の高まりは、消費者からの直接の連絡がなくとも、すぐさま生産者に伝わるのである。これこそがハイエクのいう「発見手続き」だ。

 これらの競争の利点は、ひとくくりにして「市場原理」と呼ばれるものであり、経済学に接触すれば耳にタコができるほど聞かされるものである[*2]。それに対して鈴村は、全く別の視点を持ち込んだ。それは、「競争はそれ自体に価値がある」、という視点である。もう少しだけ丁寧にいえば、競争の価値はそれがもたらす「帰結」にあるのではなく、競争という「機会」や「手続き」そのものにある、ということだ。

 これを説得する鈴村の例を挙げよう。
 まずは、「ケーキ分割問題」と呼ばれる次のような例である。
 今、父親が3人の子どもにケーキを公平に切り分けようとしていることを考える。それには2つの方法がある。方法1は、ケーキを3等分し、各1ピースずつをそれぞれの子どもに与えることである。そして方法2は、子どもたちに「どうやったら公平にケーキを分けることができるか」について議論する機会を与え、全員が同意した結論でケーキを分割すること。このとき、偶然、方法1の結論(3等分するという結論)になった場合、結果だけを見るなら、方法1と方法2はなんら変わらない。しかし、と鈴村はいう。しかし、この2つの方法は全く異なっている。方法1には、子どもたちが取り分を決める手続きに参加する権利を与えられていないが、後者にはそれがあるからだ。

 そして鈴村は、この例である種の「納得」を形成した上で、以下の例につなげるのだ。
 今、社会にはある量の財があるとせよ。その財を人々が十分に話し合い、自発的に交換して、コアと呼ばれる「協力解」にあたる配分に達したとせよ。(コアについては、「ライアーゲームっていうのは、要するに協力ゲームなのだ」を参照していただきたいが、要するに、どんな部分的な集団も離脱せず、誰も損をしない、ある意味で合理的な配分のことである)。このとき、次のように社会的な決定手続きが変更されたとしよう。それは、この「コア」の配分になるように、最初から中央当局が財を人々に分配するような決定手続きである。結果的にみれば、この方法でも配分は同じになる。しかし、個人の「自由」と「権利」という観点から見れば、前者と後者の方法はまるで違うのである。

 これらの例で鈴村が主張したいのは、競争の価値が、それがもたらす帰結にあるのではなく、「競争という手続き」が人々に与えるその「機会」にこそあるのだ、ということである。もっと象徴的にいうなら、競争は「自由」や「権利」を担保するもの、ということなのだ。

 さらに突っ込んで考えるなら、次のようなパラドキシカルな結論にも到達することになる。つまり、わたしたちに「参加の機会」や「行動の自由」や「欲望実現の権利」を保証するためには、競争が是認されなければならない。ところがそれは、「最適でない結末」や「効率的でない帰結」をも選択肢として容認する、ということに他ならない。そして、容認したからには、そういう帰結が生じる社会的な誤謬も覚悟し決して不平をいわない、ということになる。大胆に端的なまとめをするなら、こうなる。つまり、「競争」を「自由」や「機会」の代用品として利用するということは、「最適な帰結に到達できないリスク」を受け入れる、ということなのである。
 次回は、このことを、鈴村&清野の「過剰参入定理」を使って深めることとしよう。

* * * * *
[*1] Suzumura,K., 1999, ”Consequences, Opportunities, and Procedures”, Social Choice and Welfare 16.
を参考に書いている。
[*2] 「競争が、企業の戦略的な優位性を消滅させることで最適性が得られる」という「完全競争」の理屈については、「「ワリカン」システムのいたずら〜独占は「悪事」なのか」の回で解説したので、これで復習して欲しい。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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