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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

貨幣のいたずら〜その多機能性が悲劇を生む

2008年3月14日

(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら

 今、世界中で連鎖的な株の暴落が起きている。
 発端は、サブプライムローンというアメリカの住宅ローンによって生じた住宅バブルとその崩壊といわれているが、それが投資、消費、貿易などのさまざまな部門にまで波及し、経済は世界規模の景気後退の入り口まで来ている、といっていいだろう。

 このような金融を経由する不況や恐慌を分析した最も有名な研究が、ケインズ『一般理論』である。この理論のおおまかな解説は、「ケインズ理論は、やっぱり変だった。」に書いたので参照して欲しい。ケインズの不況理論の発想の中心は、「貨幣」である。おおまかにいうなら、「人が貨幣を保有することに執着し、モノを買わなくなるから、不況になる」ということだ。このことは、 「『不況のメカニズム』は、いかにすごい本か」で紹介した小野善康の不況理論にも通底する発想である。

 今回は、このような「貨幣」を要とした不況の分析を、ケインズ理論や小野理論とモチベーションは同じであるが、いくぶんちがった視点から解説することにしよう。それは、このような不況は、貨幣が「多機能性」を持っている、というまさにその便利さがもたらす災いだ、という視点である。

 貨幣は、古くから用いられて来ているが、現在ではさまざまな便利機能を備える利器となっている。まず、貨幣は「交換の仲立ち」に使うことができる。わたしたちが、消費生活の中で結局欲しいものは、「財」であり、自分の持っている「財」(労働力も「財」の一種と考えよう)と自分が欲しい「財」を交換したいわけだが、自分が欲する「財」を持っている人が、自分の持っている「財」を偶然欲しがっていることはほとんどない。だから、貨幣を仲立ちにすることで、交換をスムースに実行するわけなのだ。(このことは、 「「環境にやさしい」は、めぐりめぐって自分の損になる」の回に書いた。そして、今回の話は、それとものすごく関係しているので、もう一度読み直していただくことをお薦めする)。

 次に「貨幣」は、「購買力の保蔵」にも用いることができる。自分が(労働などによって) 生み出した「価値」を、例えば、魚などに交換しておくと、すぐ腐ってしまうので、その「価値」は失われてしまうが、「貨幣」で保有すれば、半永久的にその「価値」は保存されることになる。そして、このことこそが、もっと様々な「貨幣」の用途を生む源泉になる。

 第一に、「貨幣」は、「決断の留保」に用いることができる。例えば、新型DVDプレーヤーどちらのタイプを買おうか迷っている場合、その決断を留保して、「勝敗がはっきり決まってから」購入しようと思うだろう。「貨幣」を保有しておけばそれが可能になる。

 また第二に、「貨幣」は、「投機的な保有」も可能にする。デフレ(物価の下降)が起きている経済のもとでは、自分の生み出した「価値」をいったん「貨幣」で保有しておけば、物価の下落にともなって同じ量の「貨幣」の、財に対する相対的価値は上昇する。つまり、貨幣保有は利子獲得と同じ効果をもたらすことになるのだ。

 このような豊富な多機能性を有する「貨幣」は、人類にとって大発明であると同時に、深刻な災いをもたらす可能性があるから興味深い。このことを簡単なモデルによる思考実験で説明することとしよう。

 今、AさんとBさんの二人から成る2期間(今期と来期) の経済を考える。Aさんは魚を今期も来期も2単位ずつ生産し、Bさんは2期間をかけて靴を1足生産する。靴はAさんに欲せられており、Aさんは靴1足が魚2単位分の価値だと思っている。また、Bさんのほうも靴と魚に同じ交換価値を見出している。Aさんは魚を1単位食べれば十分満足で、それ以上食べるよりむしろ靴が欲しい。また、魚は1期間のうちに腐ってしまって、時期には持ち越せない、と仮定する。

 さて、Bさんは今期も来期も魚を1単位ずつ消費したいのだが、靴は来期にならないと完成しない。そこでうまい手を考案した。「来期になったら右靴と交換できる券」というのを今期発行し、それと魚1単位を交換するのである。このとき、何が起きるかを考えてみよう。今期、Aさんの生産した魚2単位のうち1単位とそのBさんの発行した「来期になったら右靴と交換できる券」とを交換する。Bさんはそれで今期魚を食べ、靴の生産に従事することができる。そして、来期になったら、Aさんは「来期になったら右靴と交換できる券」と実際の右靴を交換し、生産した魚1単位と交換に左靴を手に入れれば、靴一足を入手することができる。他方Bさんも今期、来期と1単位ずつ魚を消費することができるようになった。(いうまでもないことだが、ここでの「来期になったら右靴と交換できる券」とは、実際の経済でいえば「株」にあたると考えればいい) 。この方法の巧妙なところは、来期にならないと価値を生み出せないBさんも、今期の魚の消費にあずかることができ、また、それこそが魚を腐らせない効率性の実現でもあるという点だ。

 このような2人2期間の経済は、「貨幣」が存在し、「貨幣」でしか取引ができないような場合にもうまく行く。(というか、人数が多くなったときを考えると、貨幣があってこそうまく行くのだ)。例えば、Aさんが1単位の「貨幣」を持っているとしよう。1単位の魚は1単位の「貨幣」の価値を持ち、また、1足の靴は2単位の「貨幣」の価値を持つとする。(したがって、魚と靴の価値の比はさっきと同じである)。このとき、Aさんは「貨幣」を1単位使って、「来期になったら右靴と交換できる券」を購入する。次にBさんは、手に入れた貨幣1単位を使って、Aさんから1単位の魚を購入する。こうすれば、結局は、AさんとBさんの間で、魚1単位と「券」の交換が成されたのと同じになり、さきほどと同じ帰結をもたらすのだ。つまり、来期になったら、Aさんは「券」と右靴を交換し、保有する貨幣1単位を使って左靴を入手する。次にBさんは受けとった貨幣1単位でAさんから魚を1単位購入するのである。

 問題はここからだ。

 もしも、Aさんが、「貨幣」の持つ別の機能に誘惑されてしまったら、何が起きるだろうか。何の機能か、というと、先ほど説明した中の「決断の留保」の機能である。Aさんはふとこう考えるかもしれない。「貨幣を持つことは、来期になったら右靴と交換できる券を持つことと同じじゃないか。だったら決断を先延ばしにするために貨幣を持っておこう」と。つまり、温存した貨幣と交換に右靴を手に入れ、左靴は魚1単位を売って手に入れた貨幣で買えばいい、ということである。

 しかし、この一見「名案」に見えるものが、とんでもない災いをもたらすのだ。その災いとは何であろうか。

 Aさんがこのアイデアを実行した場合、「券」を発行したBさんは、おそるべき事態に遭遇する。それは、その「券」が全く売れない、という事態である。(いってみれば、株価暴落である)。ところが、この悲劇は、Bさんだけではすまないのである。Aさんは、生産した魚2単位のうち1単位を自ら消費し、残る1単位をBさんが買いに来るのを待っているのだが、待てど暮らせどBさんはやってこない。それもそのはずだ、Bさんは魚の購入のための貨幣を持っていないのだから。(今は、交換は貨幣でしか行われない、と仮定していることに注意しよう)。しかも、この災いは来期にまで及ぶのだ。「券」の売れなかったBさんは、靴の生産をやめてしまうのが一般的だろう。なぜなら、魚の消費ができないので靴を生産するどころではないし、「券」が売れなかったことを「靴の需要の消失」だと推論するのが普通だからである。すると来期には、靴が生産されていないことから、また、魚が1単位腐ることになってしまうのである。いうまでもなく、Aさんが魚2単位の生産に費やした労力も水の泡となる。そして、経済規模は大きく縮小することとなった。

 以上が、ぼく流の「貨幣による不況の説明」だ。つまり、その多機能性こそが「貨幣」の魅力なのであるが、その機能の使い方を一歩間違えると、社会に災いをもたらす「疫病」のような存在にもなりかねない、ということなのである。これぞ経済のまか不思議だね。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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