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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

学校は何のための装置か〜教育をめぐる経済学

2008年2月 4日

(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら

 このところずっと、経済学者・宇沢弘文が提唱する「社会的共通資本の理論」のことを解説している。社会的共通資本とは、社会の共通の財産であるが故、決して私的所有と個人の嗜好のみに依拠した利用が許されず、社会が慎重に管理運営すべきような財・サービスのことだ。(詳しくはここ数回の記事を読んで欲しい)。宇沢は、社会的共通資本の生産と消費を、社会的な基準によって適切にコントロールすることで、単なる「自由市場社会」よりもずっと人間的な生活の場を築くことができる、そう論じている。

 今回は、「学校教育」という社会的共通資本についての宇沢の考えを紹介することとしよう。

 まずは、なぜ宇沢が学校教育を問題にするのか、そこからお話する。
 これには二つの論点があるといっていい。第一は、いうまでもなく、「教育」を生産されるサービスの一種と考えた場合、これは人間の基本的人権に関わる財であり、最も重要な社会的共通資本だということ。しかし、そればかりではない。宇沢は次の論点も合わせて問題にしている。それは、さきほど述べた「私的所有と個人の嗜好のみに依拠した利用が許されず、社会が慎重に管理運営すべき」という文言に関することだ。ここで当然問題として浮上するは、「では、誰が、どのような資格で、いかなる基準で」社会的共通資本を管理すべきか、ということである。一般に自由主義社会では、社会的共通資本の管理は政府・官僚によって執り行なわれている。しかし宇沢は、それを是認しない。個人的自由に委ねることを認めないだけでなく、官僚的裁量をも排除するのである。この点は、ケインズが、「賢い政府」に経済のコントロールの裁量権を信任したのと対照的である[*1]。宇沢の念頭にあるのは、「ケインズ理論は、やっぱり「変」だった。」の回に書いた通り、日本の環境破壊の源泉が悪しき「官僚専権」にある、ということなのだ。

そんな宇沢の主張する「社会的共通資本の管理主体」が誰か、といえば、それは「専門家集団」、とりわけ大学人を中心とした知識人だ。そうであるから、その「専門家集団」を育成するばかりでなく、専門知識の自由な実践の現場であるべき大学という機関というのが、宇沢の理論の根幹を成す社会的共通資本に他ならないのである。以下、主に『日本の教育を考える』(岩波新書) を参考にして、宇沢の教育理論を概観していくことにしよう。

 宇沢がシンパシーを抱くのは、シカゴ大学のリベラリズムの2人の思想家ジョン・デューイとソースティン・ヴェブレンである。とりわけヴェブレンは、宇沢の経済理論や経済思想の形成に多大な影響を与えた人だった。

 デューイは、学校教育制度は3つの役割を果たす、と主張する。第一は若者がりっぱな社会人として人間的成長をする助けをする「社会的統合機能」。第二は、経済体制が必然的に生み出す不平等を是正する「平等主義的機能」。そして第三は、子どもたちの固有性に応じて、その身体的、知的、情緒的、審美的な能力を発達させる「人格的発達機能」。デューイは、この3つの機能を備えた学校教育制度が、資本主義および民主主義と相補的な関係を築くことで、公正な社会を構築できると考えた。

 これと対照的な視点を持っていたのが、ソースティン・ヴェブレンであった。ヴェブレンは教育の意義を主に「大学の存在」に置いた。そして大学における活動を「エソテリック(esoteric)な知識の探求」と規定した。「エソテリックな知識」というのは聞き慣れないことばだが、宇沢の説明によれば、「真理としての知識」ということらしい。つまり、物質的・現実的価値を持つ必要はなく、言い換えるなら、実利的である必要のない「本来的な知識」のことである。人間には基本的にこのような知識への欲求がある、とヴェブレンは考える。その上で、「自由な知識欲(Idle Curiosity)」と「職人気質(Instinct of Workmanship)」という二つの人間の特質に注目する。これらは、人が知識を得たりモノを生産したりする際に、世俗的な有用性ではなく、本能的に「知識そのもの」を求める性向であり、「誇り高い完成度」を求める性向である、と理解できる。このような性向は、見るからに、利潤追求の資本主義の論理とは鋭く対立する。だからこそ、このような人間本来の崇高な特性を実現する場としての「大学」という機関が、市場制度や利潤動機から独立でいることを、ヴェブレンは最重要視するのである。

 宇沢は、20世紀前半までのアメリカの教育制度は、おおむねデューイやヴェブレンの理想する形で運営されていた、と考えている。ところがそれが、20世紀の後半、とりわけヴェトナム戦争を契機として崩れ去ってしまった、というのだ。

 宇沢は、そのような学校教育制度の激変を詳しく分析したものとして、サミュエル・ボールスとハーバート・ギンタスという二人の経済学者の研究を高く評価している[*2]。彼らは、アメリカの教育について実証研究を積み上げることで、ぶっちゃけていえば、「学校制度は、平等化機能を果たすどころか、不平等を助長してさえいる」、という実に過激な主張をしたのである。つまり、「子どもの学歴や成人後の成功は、親の社会的地位に最も大きな正の相関を持ち、IQテストの成績や子どもの実質的能力とはほとんど無相関である」、ということを言ってのけたのだ。その上で彼らは、「対応原理」というものを打ち出している。それは、学校教育が、企業社会的な関係性と1対1に対応し、いわば「社会の縮図」になっている、という原理である。例えば、統計的な検証によって、「学校において数学や語学の成績がいい、ということは、創造性や積極性や独立心とは負の相関を持ち、反対に、従順であることや帰属意識の強さと正の相関を持っている」ということが示される。つまり、学校における「成績の良さ」は、決して、クリエイティブな性向を意味するものではなく、むしろ、企業に就職したときに「いかに従順に忠誠を誓い企業戦士となれるか」を表すものだ、ということである。この「対応原理」は、かなり衝撃的な指摘であるといえよう。学校は、「エソテリックな知識」を培うどころか、単なる「企業のしもべ」に堕していることが明らかにされたのだから。

 ボウルス&ギンタスは、このような「対応原理」を客観的な統計によってあぶり出すことによって、アメリカの学校教育制度が、リベラル派の理念とは全く正反対の方向性にあることを論証したわけだ。

 以上のような「教育の経済理論」を現在の日本にあてはめてみるとどうなるだろう。日本の現状に対するあまりに直撃的な批判になっていることに読者もお気づきだろう。多くの私立大学が、少子化時代での学生獲得のため、「実利的な知識」や「世俗的な有用性」を「教育商品」に仕立て、また、「資格獲得」や「就職活動の奨励と助成」を売り物にしようと躍起になっている。あまりにみごとにボウルス&ギンタスのいう「対応原理」が体現されているわけである。国立大学とて、独立法人化の流れの中で、対岸にはいられまい。このような方向付けは、文科省の管理強化路線と大学企業化路線のみごとな「成功」だといっていい。日本の教育は、宇沢の理想からどんどん遠のいているのである。

 最後に宇沢自身の教育論を取り上げよう。実は、それはぼくが最近出版した本と関係が深いので、宣伝をかねる魂胆もあるからだ。

 宇沢は、ヴェブレンの教育論から演繹する形で、独特の教育論を形成している。それは、「インネイト」という概念を中心に据えるものである。宇沢は、言語認識や数学認識は、子どもたちの中に本来的に備わっているものであるとし、それを「インネイト(innate)」と表現している。そして、「数学を教えるということは結局、子どもたちが持っている数、空間、時間にかんする直観的ないしはインネイトな知識を大事にしながら、論理的、数学的な方法を使って、数、空間、時間に対する理解を深めること」と言っている。一読すれば、この考えの背後に、ヴェブレンのいう「エソテリックな知識」があり、また、ボウルス&ギンタスのいう「対応原理」への強い拒絶があることが見て取れるだろう。

 この宇沢の「インネイト」という考え方は、長年、塾で数学を教えた経験を持つぼくにとっては、まさに溜飲の下がる発想であった。子どもを実際に教えながら思い知らされたのは、数学を学ぶのは、「将来、何かの役に立つから」ではなく、「経済的な成功を得るため」でもなく、人間に生まれ、インネイトな知識を持ち、それを発現させる権利を持つからだ、ということだった。そして、「大人になったら役に立つから、今はいうことを聞け」という詭弁で子どもをねじふせるのではなく、彼らの「自由な知識欲(Idle Curiosity)」に上手に訴えかけたときにこそ、教育がうまく行く、という経験を多く持った。今回、講談社現代新書の一冊として『数学でつまずくのはなぜか』という本を刊行したのだが、その中で、自分の数学教育の中に宇沢の思想を再構築した考えを思う存分書いた。本稿で興味を持ってくださったかた、とりわけ教師としてあるいは親として、子どもの知的成育に関わっているかたは是非、合わせて読んでいただきたいと思う。

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ちなみに、この本の自己推薦文は個人ブログの中のこれに書いてある。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
[*1] 俗にこれを「ハーベイロードの前提」と呼ぶ。要するに、「ケインズさんは、イギリスの政治経済を牛耳るハーベイロードというハイソな場所で生まれ育ったから、政治家や官僚をそんなに信頼するんでしょ」、というやっかみ半分の揶揄のことばである。
[*2] S.ボウルス, H.ギンタス『アメリカ資本主義と学校教育』岩波書店 宇沢弘文訳 1986
この本は、刊行直後に宇沢先生本人から頂戴し、これをもとにして市民講座でのレポートを書いて、宇沢先生にも読んでいただいた。そういう意味で、ぼくの経済学・処女論文の元ネタとなった本なので、思い出深いものである。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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