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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

公平とは何か〜「選択の自由」と「公平性」

2008年3月 6日

(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら

  前回前々回は、鈴村興太郎の論を借りて、「競争」というものの意義を「チャンス」や「自由」ということから考えた。今回は、それから派生する問題を扱うことにしよう。それは「公平」の問題である。

 世の中で公平を生み出す方法は、大きくいって二種類ある。一つは、完全な確率的対称性を利用することであり、もう一つは「選択の自由」を保証することである。同じ公平性の創出の手段であるにしても、この二つの方法は似て非なるものといっていい。

 例えば、「ピッチャー1杯分のビールをAさんとBさんの二人で公平に飲むにはどうすればいいか」、という問題を考えてみよう。もちろん、正確なメジャーがあって、それで完全に等量を分けることができるのなら何も問題はないので、そうできない場合を考える。

 完全な確率的対称性を利用するなら、こうすればいい。つまり、「コインを投げて表が出たらAさんが、裏が出たらBさんが全部のビールを飲む」。この方法なら、確かにどちらかが優遇されている、ということもないので、全く公平である。

 もう一つの方法、「選択の自由」を使う方法、とは次のようなものだ。「まず、Aさんが公平だと思う分量にビールを2つのコップに分ける。次にBさんがどちらか好きなほうを取る」。これも公平な分け方だとすぐわかるだろう。(実は、これの応用として、3人以上でも公平にピッチャーのビールを分けることができる。興味ある人はどうやるかを考えてみよ。解答は、最後の註にあるので、ここで読むのを止めて思案せよ)。この方法に公平性を保証しているのは、「選択の自由」である。Aさんには「ビールを分ける際の自由」があり、Bさんには「分けられたビールを選ぶときの自由」があるからである。

 ここで前者でも後者でも、実際の帰結においては決して公平でないのに注意しよう。前者の場合は、ビールを飲むのが片方だけであるし、後者のほうでは実際に分けられたビールは分量が異なっているであろうことが一般的だからである。

 ここで読者諸氏は、どちらの方法のほうがより好ましいかを考えてみてほしい。たぶん、多くの人は後者であると指摘するに違いないと思う。なぜなら、第一に、後者では両者が「自由意志」を行使しているし、その上、少なくとも正確な分量を測ってみない限りにおいては、双方が帰結に対して満足を持っているからである。何より、この方法を使う場合、Aさんに「なるべく公平に分けようとする」誘因が働くのが良い、といえるだろう。

 「自由意志の行使」と公平性の問題に関しては、有名な例がある。
 何かをくじ引きで決める場合、「クジを引く順番」というのがときどき問題にされることがそれだ。例えば、大昔のプロ野球のドラフト会議では、新人選手をどの球団が指名するかをクジで決めていたのだが、その際に、まず「クジを引く順番を決めるクジ」が行われていた。これは数学的にはとてもナンセンスで笑えることだといっていい。なぜなら、「クジの結果は引く順番には無関係」ということが、完全に数学的に証明できるからである[*1]。しかし、「自由意志の行使」の問題を導入するなら、見方は変わるかもしれない。最後にクジを引く人は、残った1本のクジを引くしかなく、そこには「自分の運命を自分で決める」という「自由意志の行使」が存在しないからだ。

 実は、このような「公平性」に対する2つのアプローチの違いが、経済学のある分野では本質的な問題となりうるので、最後にそれを紹介してみたい。

 経済学には「社会選択」という分野がある。これは、「どんな社会がより良い社会か」というような(超越的な)ことを形式論理(数学)によって議論する分野だ。(経済学が、「儲かりまっか」の学問だとばかり思っている人は、この分野を知るととても驚くことだろう)。この分野における有名な議論として、「原初状態」を利用するものがある。原初状態というのは、「人が生まれる前の状態」というものを仮想的に考え、そこでの意志決定を分析するものである。

 例えば、アバ・ラーナーやジョン・ハルサーニは、このような原初状態にいる人が意志決定をするなら、「平等な社会に生まれること」を望むだろう、という結論を出した[*2]。また、ジョン・ロールズは、「最も不利な状態にいる人の厚生が最も大きくなるような社会に生まれること」を望むだろう、と考えた[*3]。ぶっちゃけていえば、その根拠は、「生まれる前の状態」で考えるなら、いかなる人にも生まれる可能性もあるのだから、平等な社会が好ましいし、最悪の場合が一番マシであるような社会が好ましい、というようなことである。

 しかし、このような議論に対して、ピーター・ダイアモンドが強烈な反論を提出したのである。それを理解するためには、次のような喩え話が適切だ。

 今、二人の子どもを持つ親を考えよう。親は二人の子どもの将来の職業を良いものにしたいと思っている。しかし、親の資産の状態から、一方の子どもを医学部に進ませ医師にすることはできるが、そのとき、他方は事務員にすることしかできない。ここで、親の選択肢の二つを比較しよう。第一は、子どもが生まれた後、一方の子どもがコインを好きな面を上にして置き手の平で隠し、他方の子どもがどちらの面が上かを当てるようなクジを行い、どちらが医学部に行くかを決めること[*4]。第二は、子どもが生まれる前に、上の子が医学部に行くと予め決めておくことである。

 ダイアモンドは、ラーナーやハルサーニやロールズのような原初状態を使った議論においては、この二つの選択方法は同じものになる、と指摘した。どちらの子どもに生まれる可能性もあるのだから、はじめから上の子が医者になる、と決めておいても公平なはずであろう、と。しかし、彼は、自分は後者より前者を好む、と述べ、原初状態を使う方法論を批判したのである。

 このダイアモンドの批判は、大きな議論を呼び、その後の多くの論文を生み出す呼び水となった。ここでは、これ以上深入りはしないが、次のことだけは確認しておこう。もう一度、ビールの問題に戻るなら、ここでの第二の選択肢(予め上の子が医者になることを決めておく選択肢)が、「コイン投げでビールを飲むほうを決める」に相当するもので、第一の選択肢が「自由意志の行使」に当たるものだ、ということである。このように、この二つの公平性の見方は、「より良い社会」を考えるときなどには、とても深刻な問題となるのである。

 また、このダイアモンドの批判が、鈴村が「競争」を「自由」の問題にした点と、根は同じものであることもおわかりのことと思う。

****** 
[*1] 証明を知りたい人は、拙著『確率的発想法』NHKブックス参照のこと。
[*2] 詳しくいうと、「効用の和が最大となる社会を望む」ことを経由して、この結論に至る。ラーナーの方法については、[*1]の本を参照のこと。ハルサーニについては、ぼくの次の新書で扱う予定である。
[*3] やはり[*1]の本を参照のこと。
[*4] ビールを分ける問題と本質的に同じである。
[*5] 3人以上でビールを公平に分けるには、次のようにすればいい。まず、第一の人がコップに自分の分を満足な量だけ注ぐ。残りの誰も、これが多すぎるから不満だ、と主張しないなら、それが第一の人の取り分となる。あとは一人少ない場合に帰着される。(もし、残りが2名なら、本文の方法に帰着する)。もしも誰かが不満を表明したら、その人が、第一の人のコップからビールをピッチャーに自分の納得する量を注ぎ返す。ここでまたコップのビールの量に不満な人がいるかどうかを尋ねる。もしいなければ、今の人(ビールを返した人)がそのコップを取る。(これで一人少ない場合に帰着する) 。以下同様の作業を繰り返す。運悪く、全員が不満を言った場合は、最後に不満を言ってビールを返した人がそのコップをもらうことになる。(だから必ず有限回で一人少ない場合に帰着できる)。 
[出典:ドナルド・J・ニューマン『数学問題ゼミナール』]

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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