競争が効率を妨げることもある〜過剰参入定理のふしぎ
2008年2月28日
(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら)
前回は、経済学者・鈴村興太郎の論を借りて、「競争の本当の意義は何だろうか」ということをまとめた。とりわけ、「競争が大事なのは、それがもたらす何らかの帰結のためではなく、競争それ自体が与えるチャンスや自由である」という見解を紹介した。今回は、鈴村&清野の「過剰参入定理」を利用して、その論を深めることとしよう。
本稿では、「過剰参入定理」を、ある程度の水準までは数理的に紹介するつもりだが、そういうことに関心がない人の便宜のために、定理の内容のダイジェスト版を先に提示してしまうこととする。
「過剰参入定理」というのは、「企業の市場への自由な参入を認めた場合、正の利潤がある限り新たな企業が参入し、やがてすべての企業の利潤がゼロ(ないし微小量) となるが、この状態での社会の厚生は、自由な参入を規制することによっていくぶん企業数を減らした場合の社会の厚生より低くなっている」というものである[*1]。一言でいえば、自由な参入を許すと、社会厚生がかえって低まる、ということなのである。
具体的には、とある需要曲線が与えられた経済で、数社の企業が寡占の競争をしながら、各生産量を決めたとしよう。このとき、利潤がゼロになるのが、仮に、ちょうど3社が参入した場合で、そのときの商品の市場価格が4万円、各社の生産量が3単位ずつで、総供給量が9単位となるとする。そして、このとき、市民は9単位の商品を4万円の価格で総額36万円を支払って購入し、消費することで、90.5単位の喜びを得ているとしよう。ところが、企業の自由な参入を規制して、2社だけに参入を認め、寡占の競争をさせてみる。すると、各社の生産量は各4単位と増えるが、総供給量は8単位と減少し、それによって商品価格は5万円と高騰する。当然、企業の利潤はゼロから増えて1社あたり7万円となり、総利潤の14万円が市民の(株を通じた)所得となる。このことによって、市民の喜びはかえって上昇し96単位となる。そんな感じである。
以上はあらすじで、以下、詳細を書く。実は、この定理はほとんど一般的設定のもとで成り立つ[*2]が、読者の苦痛をぎりぎりまで緩和するために、具体的な数値例に落として解説することにする[*3]。それでも結構面倒なので、(経済学部上級生程度になると思う)、ぼく自身は経済学者だからこういうのはウハウハ喜んで書いてしまうのだが、一般読者には迷惑千万に違いないだろうから、斜め読みしたり、または、秘境に踏み込まないのも一策である。(その場合は、最後の段落にスキップしてほしい)。
(では心の準備をして、いざ出陣)。
今、市場に参加する資格のある企業はすべて同種であるとし、商品をx単位生産するのに(x+9)万円のコストがかかるとする。また、すべての市場参入企業の生産量を合計した総供給量がS単位のときの市場価格p万円は、p=(13−S)、で与えられるとする。これがいわゆる需要曲線であるが、需要曲線というのは、消費者の商品の消費から得られる効用に依存して決まるのは常識である。今の場合、消費者は社会に1人しかいないと単純化して、S単位の商品を消費したときその人の得る効用を、(0≦S≦13に対して)、
V=13×S−0.5×(Sの2乗)+Y
と置く。ただし、Y万円は商品購入後に手元に残る資金額である。ここで「消費者が得られた所得Mと外部から与えられた商品価格pのもとで、効用Vを最大化させるように総消費量Sを決める」という標準的な仮定すると、先ほどの需要p=(13−S)が得られるのである。(可能なら自分で計算して確認せよ。できないなら信じよ)。この消費者の所得Mとは、企業の株を所有していることから得られる総利潤Π万円と銀行預金の利子所得50万円の合計とする[*4]。つまり、M=Π+50。
さて、市場に参入した企業は、「寡占の均衡」を実現すると仮定しよう[*5]。
まず、参入企業が2社として、結果だけを先に与える。この2社の企業は、均衡においては、ともに4単位ずつ生産し、総供給量が8単位となるのである。決定された他の数値も合わせて表すると、以下である。
1社の生産量 | 総生産量 | 商品価格 | 1社の利潤 | 総利潤Π | 所得M | 効用V |
4単位 | 8単位 | 5万円 | 7万円 | 14万円 | 64万円 | 96単位 |
ここでは、これが「寡占の均衡」になっていることだけ確認しておこう[*6]。「寡占の均衡」というのは、「ライバル企業たちが今と同じ生産量を生産している限りにおいて、自分の今とっている生産量が最適である」というものである。これを確かめるには、今4単位生産している片方の企業だけが生産量を増やしても減らしても、その企業の利潤は少なくなってしまうことを見ればいい。4単位を5単位増やすと、総供給量は(ライバルが変更しないと仮定していることから)9単位となるので、価格は13−9=4万円と下落する。このときのこの企業の利潤は、
4×5−(5+9)=6万円、となるので、現在の利潤7万円より減ってしまう。逆に、生産量を4単位から3単位に減らした場合は、総供給量は7単位となることから、価格は13−7=6万円と高騰する。このときのこの企業の利潤は、6×3−(3+9)=6万円となるので、やはり現在の利潤7万円より減ってしまう。つまり、2社がいったんこの生産量にたどりつくと、その生産量にはりついたまま変更できなくなり、その意味で均衡(つりあい)なのである。
さて、今の場合、各企業の生産量が7万円と正であることに注意しよう。なんら規制がないならば、この利潤を目当てに別の企業が参入してくることが想定されるだろう。そこで、もう1社の(同質の)企業が参入して3社になったとして同じように「寡占の均衡」を出してみる。やはり結果だけ書くと、
1社の生産量 | 総生産量 | 商品価格 | 1社の利潤 | 総利潤Π | 所得M | 効用V |
3単位 | 9単位 | 4万円 | 0万円 | 0万円 | 50万円 | 90.5単位 |
すべての企業の利潤がゼロとなったので、参入はここでストップすると考えていい。つまり、これが長期的な均衡状態となるはずである。ところで、消費者の効用の数字を見て欲しい。2社しか参入していなかったときの効用96単位よりも減少して90.5単位となっている。つまり、この経済では、企業の参入の自由を認めれば、正の利潤が存在する限り企業が参入して来て、その結果で実現されるゼロ利潤のつり合い状態では消費者の厚生はかえって低くなってしまう、ということになっている。市民の厚生を考えるならば、むしろ、自由経済より統制経済のほうが良い、という経済学の常識とは相反する結果が出たのである。
もちろん、この定理で鈴村が論証したいのは、「だから、統制経済のほうがいいのだ」ということでは断じてない。前回から論じているように、鈴村の主張は、「このように、競争というのがいつも社会にとっていい帰結をもたらすわけではない。そうであっても、競争は尊重されるべきである」、ということなのだ。なぜなら、それは、競争それ自体が、社会のすべての人にチャンスと自由を与える唯一の方法だからである。(最後まで読んだ人は、ご苦労さまでした。あるいは、ご愁傷さま、かな)。
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[*1] この定理は、次の2つの論文で独立に発表された。
Suzumura,K. and K. Kiyono, 1987, ”Entry Barriers and Economic Welfar”, Review of Economic Studies 54.
Mankiw , N.G. and M.D.Winston, 1986, ”Free Entry and Social Efficiency”, Rand Journal of Economics 17.
[*2] ほぼstrategic substitutabilityという条件しかいらない。
[*3] たぶん、この定理を再現する具体例の中で、最も簡単な数値例だと思う。
[*4] 利子所得を設定するのは、所得を負にしないためだけであって、本質的なものではない。
[*5] クールノー・ナッシュ均衡のこと
[*6] 念のため所得Mと効用Vの計算も示しておく。
所得M=Π+50=14+50=64、Y=64−5×8=24、 効用V=13×8−0.5×8×8+24=96
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