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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第23回【同期性考察編(4)】「欲望」型のマスメディア、「欲求」型のインターネット

2007年12月13日

(これまでの濱野智史の情報環境研究ノート」はこちら)

■23-1. なぜYahooやmixiのバナー広告は「安い」のか。

前回からの続きです。前回はマイケル・S-Y・チウェの「共通知識」という概念を参照しながら、「テレビ」というマスメディア(とマス広告)の強力さについて理解しました。そしてそこから引き出されたのは、非同期型よりも、同期型のコミュニケーション・メディアのほうが「共通知識」を生みやすいのではないか、という仮説です。今回はこの仮説を踏まえることで、いわゆるマスメディア(広告)とインターネット(広告)の違いについて整理してみたいと思います。

一つ、具体的な問題に落として考えてみましょう。これまで一般にインターネット広告の価値は、マスメディア広告のそれよりも「安い」(広告媒体としての価値が「低い」)と見積もられてきたわけですが、それはなぜでしょうか。具体的な例を挙げれば、Yahooやmixiのバナー広告の価格は、――それらは、ある種「国民的」な規模で利用されているといっても差し支えないほど巨大に成長し、数多くのユーザーにリーチしているはずなのに――なぜテレビや新聞といったマス媒体の広告枠に比べて割安なのでしょうか。

もちろん、その理由にはさまざまなものが考えられるのですが(一般的には、「まだまだネットはテレビに比べればマイナーな存在だから」「ネットメディアは十分に成熟していないから」といった程度に理解されていますが)、前回までの考察に基づけば、その答えは明らかでしょう。なぜなら、それは非同期型のメディアだからです。Yahooやmixiがどれだけ数多くのユーザーにリーチしていたとしても、それが非同期型メディアである以上、「共通知識」は形成されにくい。つまり、それは「誰もが同じ時間に同じ情報を閲覧している」というメディア体験のシンクロナイゼーションを提供していないがゆえに、「ほかの人も『それ』を見ているはずだ」という「共通知識」的な予期が成立しにくい、ということです。

さらに補足しておけば、昔からバナー広告は「ほとんどクリックされずに無視されてしまう」などとよくいわれています(ちなみに筆者の個人的な経験からいっても、バナー広告をクリックしたことはほとんどありません)。では、なぜバナー広告はそれほどまでに「無視」されてしまうのでしょうか。その原因の一つとして、一般的なバナー広告の多くが採用している、「ローテーション」と呼ばれる仕組みが考えられます。これはユーザーがサイトを訪問するたびに、ランダムに(あるいは何らかの法則に従って)バナー広告の表示を切り替えるというもので、基本的には、広告表示回数の「在庫」を効率的に拡張するための仕組みです。しかし、こうした「ローテーション」の仕組みは、「他のユーザーも同じように『このバナー』を見ているはずだ」という「共通知識」を形成しづらくしてしまうという点において、むしろ阻害的だということです。

そして、「バナー広告」の後に次々と生み出されてきたネット広告の手法の数々は、こうしたインターネット・メディアの「非同期性=『共通知識』を生み出しづらい」という特性を踏まえた上で、「共通知識」の形成とは異なる方向に向かって進化してきたと捉えることができます。

たとえば、Google AdWordsのような「検索連動型広告」、Google AdSenseのような「コンテンツマッチ型広告」、ユーザーの行動履歴を追跡して最適なバナーを表示する「行動ターゲティング型広告」……。これらの「革新的」と呼ばれてきたネット広告の特徴は、1)ウェブ上のユーザーたちにぴったりと張り付き、「検索」や「コンテンツの閲覧」といった行動を《監視》しながら、2)個々のユーザーにとって「関係性」の高いと思われる広告情報をデータベースから自動的(機械的)にマッチングし、瞬時にユーザーの眼前に滑り込ませることで、ユーザーの興味・関心を引こうとする点にあります。それはしばしば指摘されるように、個別のユーザーの状態や状況に最適化された広告情報を提示しているという点で、ある種の「パーソナライゼーション」技術として捉えることもできるのですが、ここで重要なのは、個々のユーザーに最適化されればされるほど、「共通知識」は形成されにくくなるという点です。なぜなら、個々のユーザーに細分化して最適化が進めば進むほど、「他のユーザーたちもまったく同じように『その広告』を見ている」とは想像しにくくなるからです。

しかし、ネット広告のこうした「共通知識」を形成しづらいという特性は、マス広告に対する「弱点」ではなく、むしろ時代の変化が必然的に要請しているものであり、もはやインターネット(広告)は、既存のマスメディア(広告)とは異なる方向性に向かって進化している、と論じられてきました。現代のネット広告は、かつてのマス広告のように、あまねく大量の人々に情報を伝達することで、ある商品やサービスに関する「共通知識」を形成することは志向していない。それは、個々のユーザーに最適化された、いうなれば「個別知識 personalized knowledge」を形成することに主眼を置いている。だとするならば、Google AdWordsやGoogle AdSenseといったネット広告手法は、もはやマス広告と同じ意味で「広告」と呼ぶべきですらなく、「狭告」(池田信夫)とでもいうべき技術である、というように。いわゆる「ロングテール」論をはじめとして、「マスメディア VS インターネット」的な構図のもとで語られた議論のほとんどは、こうした図式を共有してきたといえるでしょう。

■23-2. 「欲望」型のマスメディア(広告)と、「欲求」型のインターネット(広告)

ここでその図式を、人文社会系の言葉――東浩紀氏が『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年)の中で参照している、アレクサンドル・コジェーヴという哲学者による区別的概念――を用いて改めて整理するならば、「欲望」型のマスメディアと「欲求」型のインターネット、と表現することができます:

繰り返せば、「テレビ」というマスメディアがこれまで最大にして最強のメディアたりえたのは、それが「共通知識」の強力にして希少な(*1)源泉だったからです。「放送」というメディア技術は、コンテンツを一斉に多くのユーザーに伝達する「一斉同報性」という特性を持つ。その技術的特性ゆえに、人々は、「いま・この瞬間に、他の多くの人も同じものを見た」という「共通知識」を抱くことができる。それがなぜ重要だったのかといえば、人間の「欲望」は、いわゆる「三角関係」的な、「他人もそれを欲しがっている」という他者の欲望の模倣を通じて生み出され、喚起され、増幅される性質を持つからである。だからこそテレビは、人々の「欲望≒共通知識」を効率的に喚起する、「儀式装置」としての地位を確立し、その媒体価値は高く見積もられてきたということができます。

しかし、インターネットの普及しつつある現代社会においては、もはやテレビの最強のメディアとしての地位は磐石ではないとあちこちでいわれるようになった。その根拠として挙げられるのが、「現代の消費者たちの興味・関心・価値観・ライフスタイルは、ばらばらに多様化しているから」というものです(*2)。こうした状況下においては、人々はもはや社会全体の「共通知識」に関心を示すことはなく、それゆえ人々は「テレビ」という同期型メディアに心惹かれることはなくなる。そのかわりに人々は、個々人の生理的で動物的な「欲求」に従うようになり、自由なタイミングでばらばらに情報を発信・受信することのできる、BBSやブログやSNSといった非同期型のインターネット・メディアを志向するようになる。そのとき有効な広告手段となるのは、従来のマス広告が果たしてきたような「欲望」喚起型のアプローチではなく、Googleの広告技術やAmazonのレコメンデーション技術に代表されるような、個々人の「欲求」を的確に察知し、その「欲求」に適した広告を個別に届ける類のアプローチなのである、と。

同期型のマスメディアから、非同期型のインターネットへ。欲望型のマス広告から、欲求型のネット広告へ。こうした図式は、一定の説得力を持っています(そしてその典型例の一つが、同期性考察編の初回にあたる第20回で言及した、佐々木俊尚氏の論考です)。ここにきて、ようやく一連の同期性をめぐる考察はぐるっと一週循環したことになるのですが――それでは果たしてインターネットの普及する現代社会においては、すべての(広告を含む)コミュニケーションは非同期型へと移行し、それこそ「エントロピーの法則」のように拡散していってしまうのでしょうか? 人間的な「欲望」は動物的な「欲求」へと移行し、あらゆるメディアや広告技術の「動物化」が進むのでしょうか?

「それは大局的には正しいものの、何もかもがすべて非同期へと移行することはおそらくない」というのが筆者の考えです。その詳細は次回に譲りたいと思いますが、なぜそう考えるのかといえば、現実に「同期型」のアーキテクチャが次々と出現しつつあるからです。第20回でも示唆したように、昨今では、ニコニコ動画にせよ、Twitterにせよ、セカンドライフにせよ、(比較的大規模な)「同期型」サービスが台頭しつつあり、特にニコニコ動画においては、「時報」という真性同期型の広告手段までをも備えている。これらは、「価値観の多様化する現代において、すべてのメディアは非同期型優位になる」という大局的動向に対する、(あくまで局所的とはいえ、)逆行的で反証的な事例であるようにも見える。果たしてこの事態を、どのように捉えればよいのでしょうか。次回は、この一巡した議論をまとめにかかりたいと思います。

(次回に続く)

* * *

*1.現代社会において、テレビが「共通知識」の提供者としての地位を確立してきたのはなぜか。経済学的には、「放送事業が独占事業だから」――「希少性」を持つから――と説明されます。経済学の考えでは、有限で希少な資源を有効に配分するために「市場」があるとされるわけですが、メディア産業は国家による法的保護を受けていたこともあり、とりわけ「市場」の競争にさらされてこなかった、としばしば批判されてきた所以です。
 一方、その理由を社会学的に考えることもできます:そもそも人間の可処分時間は有限ですから、ある一定の人間が集まった集団が体験しうる「同期的コミュニケーション=『いま・ここ』性の共有」の規模と機会もまた有限です。つまり、ある社会において確保しうる「共通知識」という社会的資源は、(非同期型コミュニケーションによる知識の伝達機会はほとんど《無限》に生産できるのに対して、)希少だということです。その希少な「同期性≒共通知識」という資源を配分・管理するために、経済学では「市場」を措くのに対し、社会学では「宗教」(儀式)や「メディア」といったシステムが発展してきたと説明します。
 たとえば社会学者真木悠介の『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)の整理に基づけば、いわゆる「ゲマインシャフト」的な原始共同体的な社会段階においては、人々の集合体は「顔の見える」(Face to Faceな)範囲に限定されていたため、ムラの広場などで行う「儀式」という真性同期イベントによって、「共通知識」を生み出すことができた。あるいは、その共同体の宗教が採用する「暦」によって、その集団における時間感覚は各身体を貫き、人々は同じ「いま・ここ」を共有していた。しかし、いわゆる社会の近代化、つまり複雑化と分業化が進むに連れて――特に共同体と共同体の間を渡る「市場」の活動が活発になると――時間感覚の異なる諸システムが「非同期的」に接触・協働する機会が増大する。そこで重要な役割を果たすのが、Aという共同体から見ても、Bという共同体から見ても等しく参照する(=同期する)ための客観的な「物差し」として、いわゆる直線的に流れ去っていく近代的な時間意識が登場する。つまり、個々の共同体から「脱埋め込み化」された抽象的指標として、近代的な時間意識が出現するわけです。
 しかし、近代化にはまた別の側面もあります。近代化に伴い、複雑でばらばらな機能モジュールに分裂したはずの人々や組織が、国民国家(ナショナリズム)という名の「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)の下に統合されるようになった、という側面です。アンダーソンは、本来は顔も見たこともないような、そして一度も接触することもないまま終わるはずの大量の人々どうしが、あたかも同じ「共同体」の一員として共感を抱くことができるのは、「新聞」というメディアが決定的な役割を果たしているからだと論じています。これは、現代社会においてテレビが共通知識を生み出す「儀式」としての役割を果たすと考える、チウェの議論と同型的です。というのも、新聞はテレビと違って紙媒体なので、基本的には「非同期的」なメディアなのですが、それは発行されたその日のうちにほぼ同時に大量の人々に読まれるという点で、アンダーソンのいう「一日だけのベストセラー」としての性格を持っている。つまり、新聞は紙媒体の中でも、とりわけテレビに近い「一斉同報性(同期性)」をもつメディアだということです。それゆえ、それは顔の見えるローカルな範囲を超えて、広範に「共通知識」を形成することができる。このように、かつて地域共同体(と宗教的装置)によって形成されていた「共通知識」は、国民国家社会においては、テレビや新聞といったマスメディアの存在に代替されることで、さらにその成立範囲を拡張した、というわけです。

*2.現代の人々の興味や関心や価値観やライフスタイルは多様化している。そうよく言われます。これはインターネットが普及する以前から、いわゆる「高度消費社会」といわれる70年代後半から80年代にかけて、さんざんいわれてきたことなのですが、その言葉が意味する事態は、インターネット以前と以後では決定的に異なる点に留意しておく必要があるでしょう。かつての「消費社会論」(「ポスト産業社会論」)によれば、それは次のように説明されます:
 産業社会化が進み、ひとまず家電や車といった工業製品が大衆的にいきわたると、そのモノ自体が持つ機能をどれだけ高性能化しても、人々の購買動機を効率的に訴求することは難しくなる。そこで、「ファッショナブル」であるといったデザイン性や、「マイナスイオンが出る」であるといったトンデモ科学や、「地球に優しい」であるといったロハス的物語といった「情報=付加価値」を付け加えることで、新製品を絶えず「新しいもの=これまでとは違うもの」として差異化する必要が出てくる。そもそも資本制経済は、なんらかの差異(価値の落差)に基づいて利潤を拡大するという「自己増殖的」傾向を持つけれども、その差異の生み出す方法論が、かつては「地域間交易」という地理的差異(インドからヨーロッパに胡椒を持ってくる)、産業社会においては「技術革新」という時間的差異(いち早く未来を現代に先取りして実現する)、そして現代の情報社会(ポスト産業社会)においては「付加価値」という情報的差異へと、時代を追って変遷してきたというわけです。こうした消費社会論の定説を踏まえるならば、人々の価値観やライフスタイルが多様化しつつある(ように見える)のは、要するに、消費社会の段階に入ると、人々の購買意欲を掻き立てるために、「差異」が情報的に生み出されるようになったからだということができます。すなわち、人々が「これはほかの人が持っているモノとは違うんだ」「わたしはほかの人とは違うライフスタイルを生きているんだ」という錯覚を抱いてくれるからこそ、情報的差異は効率的に機能するわけです。
 こうした議論を踏まえると、かつて宮台真司氏が『まぼろしの郊外』(朝日新聞社、1997年)などの著作でいみじくも指摘したように、インターネットという巨大な非同期的で分散的なメディアは、むしろ人々の「多様性」に関する錯覚の成立基盤を崩してしまう――「私は他人と違う」といいうるための比較対象が雲散霧消し(「島宇宙化」)、何がどう他人と違うのかが自明ではなくなってしまう――といえます。つまり、インターネットの出現によって、価値観やライフスタイルの多様性なるものは、「そう思うことができる」という《錯覚》の上に成立していた状態から、単に文字通りばらばらに多様化しているという《現実》的事態へと移り変わってしまった。それゆえ人々は個々人の「快/不快」原則に従って消費活動を行うようになる。本文中でも触れた人間的な「欲望」から動物的な「欲求」へという変化は、これとパラレルに対応させることができます。

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。