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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

『恋空』を読む(番外編):宮台真司を読む ― 繋がりの《恒常性》と《偶発性》について

2008年9月12日

(これまでの濱野智史の情報環境研究ノート」はこちら

久々の更新です。最後に更新したのが今年の2月なので、実に半年以上もサボってしまったことになります……申し訳ありません。今後もマイペースで「情報環境研究ノート」の更新を続けていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

まず、連載再開にあたって、2点ほどご連絡を。

1. 久々の更新ということで、心機一転、バナー画像をリニューアルして頂きました。久々の更新で、いきなりこんな個人的な話題というのも恐縮ですが、一年前に撮影した写真に比べると、かなりヤセました。20kg以上も減量しています。

きっかけは、このブログで去年の10月に論じた、岡田斗司夫氏の『いつまでもデブと思うなよ』でした(「岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』から、情報社会について考える(1)」)。筆者が同書を読んだときの感想は、「まるでゲームの攻略本みたいだな」というものでした。実際に試してみたところ、まさにこの本に書かれているとおりのことが自分の身にも起きていったので、岡田氏の記述の再現度というか、「攻略の正確さ」には実に驚かされました。

上の一連のエントリでも少し触れていますが、米国を中心とした「Health 2.0」の動向にせよ、この4月から日本で始まったいわゆる「メタボ健診」や「taspo」にせよ、健康関連とIT分野意の連携という観点が注目を集めています。そのとき、岡田氏の方法論(レコーディング・ダイエット)はきわめて強力なツールになるのではないか、などと思ったりしています。

2. 途中で中断したままになっていた『恋空』論ですが、その続きにあたる内容は、今秋にNTT出版より刊行される拙著、『アーキテクチャの生態系』に収められることになりました。こちらのブログ上でもきちんと完結させたいのですが、書籍版では文章の構成上が若干変わってしまっていることもあり、しばらくこちらでは尻切れトンボの状態となってしまうことをお許しください。

そこで今回は、『恋空』論の続きをアップする代わりに、ちょうど先週金曜に開催された『ケータイ小説的。』(原書房、2008年)の出版記念イベント(著者速水健朗さんと東浩紀さんのトークショー)を聴きながら考えたことを、以下に記してみたいと思います。

『恋空』論を書いたきっかけ

そもそも、なぜ筆者は『恋空』論を書いたのか。それは社会学者の宮台真司氏が、去年の暮れに、映画版の『恋空』を次のように評していたのがきっかけでした。

■この映画は本当に凄い。輪姦されても好きな男が「守ってやれなくてご免」と抱き締めれば直ちに回復。図書館で性交すれば直ちに妊娠。それをやっかむ女に突き転ばされれば直ちに流産。スキな男が去れば直ちに「近い男」と結合。スキな男が去った理由を知れば直ちに戻る。
■極め付けはラストシーンだ。映画の冒頭と末尾は、成人となった主人公が電車で旅する場面だ。それらに挟まれた本編は旅する主人公の回想だということになる。車窓からのどかな田園風景が見える。「そうか、主人公は死んだ男を悼んで一人旅をしているのか」と思いきや…。
■駅で降車するや家族がお帰りなさいと出迎え、主人公が笑みで応える。中森明夫氏の言う通りあたかも何も起らなかったが如し。「遠い男が勝つ」どころでない。そこでは時間が一切堆積しない。時間の堆積が与える関係性がない。代わりに「殴れば痛い」的な脊髄反射がある。
■1991年に少女漫画研究家として初めてNHKテレビに出た私には感慨深い。それまでの波乱万丈ものや大河ものに代わって少女漫画が「これってあたし!」と自分を重ねられる関係性モデルを主軸としたものに変わったのが1973年。以降は関係性モデルが少女文化を駆動した。
■その伝統が終ったのだ。関係性から脊髄反射へ(ケータイ系)。関係性から萠えへ(アキバ系)。『恋空』を「死にオチ」の駄作映画として片づけられない。そこには昨今のケータイ小説に見られる関係性の短絡化、或いは反意味的な浮き沈みを、摸倣しようとする実験がある。

Miyadai.com Blog
宮台:今年の映画を語るときにはずせないのは『恋空』です。年長世代である私たちにしてみると、のけぞる映画です。結論からいうと、携帯小説を映画で意識的にシミュミレートしようとして、わざと短絡的に作った映画でしょう。さもなければ、とてもじゃないが理解できません(笑)。
輪姦されても彼氏が抱きしめれば一瞬で回復するし、セックスすれば一瞬で妊娠するし、妬んだ女が突き飛ばせば一瞬で流産するし、次の男があらわれれば一瞬でくっつくし、という短絡ぶり(笑)。別れた彼氏が癌だったとなれば元のさやに納まり、最後には何事もなかったかのように家族の元へ帰る。
携帯小説の編集者によれば、情景描写や関係性描写を省かないと、若い読者が「自分が拒絶された」と感じるらしいんです。情緒的な機微が描かれていない作品、単なるプロットやあらすじの如き作品が望まれる。「文脈に依存するもの」を語らず、「脊髄反射的なもの」だけを描く作品です。
是非はともかく、携帯小説を元にこういう映画が作られ、驚いたことに館内の女子高生らが全員号泣する。大変なことになったなと思いました(笑)。

Miyadai.com Blog

宮台真司氏といえば、90年代の中頃に、ブルセラ・コギャル論争で名を馳せたことで知られています。当時、宮台氏はコギャルたちの存在を擁護し、彼女たちを批判するオヤジの側こそを批判していました。その一環として、「援助交際」的なリアルな現実を描いた(とされていた)、桜井亜美の小説に解説を寄せたりもしていたのです。

しかし、その宮台氏が、文字通りの意味で「リアル」な――と、わざわざ強調することの意味は、分かる人には分かると思うのですが――女子高生の姿が描かれているとされる『恋空』は、さっぱり理解できないという。そこで筆者は、昨年の暮れに、「どれどれ」と思って読んでみたわけです。

するとどうしたことか、筆者の目には、驚くほどこの作品が理解できるように思われました。宮台氏は、『恋空』(の映画版のほうですが)について、「時間の堆積が与える関係性がない」と評しています。しかし、以前に「操作ログ的リアリズム」という言葉で分析したように、この作品には「操作ログの堆積が与える関係性がある」。登場人物たちは、一見すれば脊髄反射的そのものに振舞っているように見えるけれども、そこには瞬時に判断される「偶発性」(××かもしれない)への感受性に満ちている。少なくとも筆者には、《「殴れば痛い」的な脊髄反射》の物語にはとても読めませんでした。正直なところ、筆者にとっては——これは宮台真司氏の熱心な読者にしか分からない表現になってしまうと思いますが—―「援交から天皇へ」よりも、よっぽど「転向的」だと感じてしまったほどです。

ここで筆者は、決して宮台氏を批判するつもりは毛頭ないのですが、それでもかつては熱心な宮台読者の一人だったこともあり、なぜ宮台氏は『恋空』をリアルに感じられなかったのか、そのことがずっと気にかかっていました。さて、その答えを読み解く鍵は、10年たって文庫化された『制服少女たちの選択―After 10 Years』(朝日文庫、2006年)のなかにありました。

そこで宮台氏は、なぜ援助交際問題を語らなくなったのかについて、その理由を率直に語っています。しかし筆者が興味深いと感じたのは、宮台氏がこの本のなかで直接語っている「内容」ではありません。むしろ、宮台氏が何を語っていなかったのか、にあります。

というのも、宮台氏は同書のなかで、「ポケベル」や「ケータイ」について論じていないのです。同書の単行本が出版されたのは、1996年のこと。まだケータイ(やPHS)はそれほど一般的な存在ではありませんでしたが、それでもすでに当時からして、「コギャルといえばポケベル・ケータイ」というイメージは強固に存在していましたし、実際にコギャルたちはそれを使いこなしていました。しかし、宮台氏はその新しいメディアが登場した点について、ほとんど言及や分析を加えていない。これはいまから振り返ると、意外な印象を与えます。

これに対し、宮台氏が当時一貫して言及していたのが、「テレクラ」の存在でした。どこの誰とも知らない者同士が、お互いに顔も知らぬまま、声だけを通じてコミュニケーションを交わし、オフで出会う(援助交際をする)ための場所。そんなテレクラという場所=メディアにおいてこそ、人々は、窮屈で退屈な学校/郊外/会社といった役割期待に満ちた空間を脱け出し、「誰でもない存在」(匿名的存在)となることで、「まったり」と生きることができる。そう宮台氏は論じていました。その匿名性を、当時の宮台氏は、「都市的リアリティ」や「第四空間」(1=家、2=学校、3=地域共同体のいずれでもない、という意味で)といった言葉とともにプッシュしていたのです。

こうした宮台氏の当時の議論を、メディア論的に整理してみましょう。宮台氏にとって重要だったのは、ポケベルやケータイといった、「繋がりの社会性」(北田暁大)を強化するメディアではなく、テレクラのような「匿名的な繋がり」を可能にする場所=メディアだった。前者は、そのメディアの性質上、基本的には「すでに見知っている間柄同士」でのコミュニケーション(繋がり)を強化するものであり、後者のように、「偶発的」な(この言葉もまた、宮台氏が好んで用いていたタームですが)コミュニケーションを支援するものではない。

つまり宮台氏は、繋がりの《恒常性》と《偶発性》という2つがあったとき、前者ではなく後者にコミットする(してきた)。そして宮台氏が『恋空』をリアルなものとして読むことができなかったのは、そこでは《恒常的つながり》が圧倒的であり、《偶発的つながり》の存在は極めて希薄だったからではないか。――このように整理することができます。

ただし、筆者に関していえば、『恋空』には《恒常的つながり》ばかりで《偶発的つながり》がない、という読みは必ずしも採用していません。むしろ『恋空』という作品は、ケータイによって維持される《恒常的》なつながりの中に、無数の判断の《偶発性》(XXだったかもしれない感覚)を挟み込んでいるのであって、そう簡単に《恒常性》と《偶発性》を区別することはできないのではないか。これが筆者の考えです。

『恋空』再読――なぜ援助交際のエピソードは削除されたのか

とはいえ、『恋空』という作品が、あえて《偶発的つながり》をカットしているのもまた事実です。ここでは、書籍版の『恋空』ではカットされている、『魔法のiらんど』版における援助交際のエピソードについて簡単に検討してみましょう。そのシーンは、次のように描かれています。

━夕方
携帯を開くとノゾムからの大量の着信通知。

帰りたくないな…。

近くのコンビニのトイレで制服に着替え、
列車で街に向かった。

人混みの中
意味もなくベンチでボーッとしていた時…

「一人?何してるの?泣いてたの?」

落ち込む美嘉に声を掛けてきたのは、
おそらく40代後半くらいの黒いスーツを着た少し太ったおじさん。

主人公の美嘉は、このシーンの直前で、恋人のヒロと別れた後、友人のノゾムから「付き合わないか」といわれ、そのことがきっかけで友人関係にトラブルが生じていました。その心理的な重みが、「携帯を開くとノゾムからの大量の着信通知。」というたった一行の描写に込められているという点で、このシーンもまた、『恋空』特有の「操作ログ的リアリズム」の優れた一例になっていると筆者は考えます。

しかし、ここで着目したいのは、1)ケータイに友人からの「大量の着信通知」があったのを確認したほぼ直後に、2)街中で援助交際を持ちかけられているという一連の流れです。つまり、ケータイによる日常的な繋がりの《恒常性》が途切れたところに、即座に援助交際という《偶発的》なコミュニケーションが侵入しているわけです。

しかし結局のところ、このシーンは書籍版からはカットされてしまっている。この事実は、些細なこととはいえ、非常に象徴的なことのように思われます。

繋がりの《恒常性》と《偶発性》

最後に、もう一つだけ触れておきたい論点があります。

『ケータイ小説的。』のなかで、速水氏は、上京を志向せず、地元に留まり続ける若者たちとしての「ヤンキー」像を鮮やかに描き出していますが、そこでもケータイが重要な役割を果たしていると指摘しています。速水氏は、社会学者の土井隆義氏の議論を引きながら、近年の若者は、ケータイメールを通じて、地元を離れて進学・就職した後も、「地元つながり」を恒常的に維持していく傾向にあるといいます。

ここでは、その役割を果たす装置として、「mixi」を付け加えることができるでしょう。mixi上には、小学校・中学校・高校と、地元の出身校のコミュニティに所属するユーザーが多く存在しています(しかも、ただその出身校のコミュニティに入るだけではなく、XX年卒業コミュに入るのが基本)。実際、若い人に話を聞いてみると、高校卒業時にmixiの利用を始めて、本来ならばらばらに離散するはずの高校の友人関係が、大学に入ってからも、mixi上でゆるやかに継続していくケースも多いようです。

このことは、次のようなことを意味しています。荒っぽい話になってしまいますが、かつて文学の世界では、近代的(私小説的)な自我なるものは、「地元」(故郷/自然)から切り離された、「都市」における孤独によって生み出されると論じられてきました。しかし、ケータイやmixiといった繋がりの《恒常性》を維持するメディアの台頭は、そうした《上京的孤独》の発生条件をかき消してしまう。筆者は過去に、ケータイによって内面的な自省モードがキャンセルされてしまっていると指摘しましたが(『恋空』論 第2回)、先ごろ巷を賑わしていた「ケータイ小説は文学か否か」をめぐる論争は、このような視点からも捉えることができるのではないでしょうか。

さらにいえば、先に起きた秋葉原連続殺傷事件を、こうした地理的文脈の問題から捉えることができます。速水氏は、東氏との対談のなかで次のように指摘しています。

速水 たしかに加藤容疑者のいた静岡の工場にしてもそうですが、派遣労働者が転々とする場所は、いわゆる何もない郊外のイメージですね。
 今回の事件で僕がちょっと気になっているのは、最初に述べたように、「地方と東京」の問題です。もしくは「上京」というキーワードで考えられるんじゃないだろうかって。たとえば先ほど出てきた永山則夫の時代、1960年代の半ばは中卒の地方青年が「金の卵」と言われ、上京列車でたくさんの人が東京に出てきた。永山則夫もそのひとりだった。彼の場合は、何もない青森に嫌気がさして、東京に希望を見出した。
 しかし、加藤容疑者がそうであるように、今は地方から出てきて派遣に登録されても、地方の工場に行かされて、しかも、必要なくなったら次の工場へと移動させられる。そうなると、彼女どころか仲間もできない。そして、目の前には常に同じような何もない風景が広がっていただろうなと予想できます。

講談社 現代新書カフェ~031~ 東浩紀×速水健朗 スペシャル対談『オタク/ヤンキーのゆくえ』第1回

速水氏が挙げている永山則夫のケースは、社会学者の見田宗介がかつて論じたように、先述した《上京的孤独》に近い。なぜなら、東京という場所に希望≒理想を抱きながらも(「理想の時代」)、東京という都市空間における《まなざしの地獄》(容姿・外見等で容赦なく判断されてしまうこと)に苛まれていたという意味で、「都市」という空間に身を置くことが苦悩の源泉となっていたからです。

これに対し、加藤容疑者は「地元」でも「都市」でもない場所を転々としていた。つまり加藤容疑者は、ケータイ・mixi的な「地元つながり」から切り離されていただけではなく、都市的・テレクラ的な「つながり」を求めながらも、疎外されていた(彼が書き込んだとされる掲示板のログには、「出会いサイトに書き込んで失敗した云々」という記述が見受けられたのは周知のとおりです)。先の図式でいいかえれば、《恒常的》な繋がりからも、《偶発的》な繋がりからも切断されてしまったということ。そのdis-connectivityの二重性こそが、加藤容疑者の「問題」だったのではないかと思われます。

(上と類似した観点に基づいた論考を、今月下旬に刊行予定の『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』(大澤真幸編、岩波書店)に寄せています。興味のある方はぜひ手にとって見てください。)

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。