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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

『恋空』を読む(3):果たしてそれは「脊髄反射」的なのか――「操作ログ的リアリズム」の読解

2008年2月14日

(これまでの濱野智史の情報環境研究ノート」はこちら)

■1. 「脊髄反射」という形容句に注意してみる

前回筆者は、『恋空』のストーリー展開について次のように説明しました。この作品の中の登場人物たちは、しばしば突如として鳴り響くケータイに「脊髄反射」的に反応することによって、いわゆる「内面」を描くような状態――ここで「内面」とは、さしあたり《自分で自分に語りかけ、思考し、問いかけるようなモード》といった意味合いで使っていますが――を中断させられてしまっている、と。つまりこの作品は、「内面主導型」ではなく「ケータイ主導型」の展開を見せているというわけです。

さて、ここで「脊髄反射」という語句を筆者は用いましたが、それは故なきことではありません。周知のとおり、この「脊髄反射」という語句は、90年代以降のメディア環境、特に若年層のケータイ・コミュニケーションのあり方を形容するにあたって頻繁に用いられてきました。その典型的な例はこういうものです:若者たちは四六時中ケータイをさわり、メールを一日何十通も絶え間なく交し合う。そのコミュニケーションには特に「内容」はなく、ただ繋がっていることをだけを確認するための「コンサマトリー(自己充足的)」なものに過ぎない。それはあたかも「脊髄反射」的で「毛繕い」のようなものに堕しているのだ、と。第6回でも指摘したように、その風景は時として霊長類研究者からは『ケータイを持ったサル』(正高信男)と形容され、また一方では社会学的な抽象度を高めて「繋がりの社会性」(北田暁大)と概念化されてきましたが、これらの言説は、前回筆者が『恋空』に対し提示した解釈と完全に共振しています。つまり『恋空』は文学的にいえば「内面」がない、コミュニケーション論的にいえば「内容」がないというわけです。

しかし、「脊髄反射」という言葉には注意を払う必要があります。この言葉はややもすると、『恋空』の登場人物たちが一切の「判断」や「選択」をすることなく、無意識のうちにケータイ《操作している》――というよりも、ケータイ《操作されている》――という印象を与えます。しかし、それはあくまで「一面的」な読み方であることに注意する必要があります。筆者の好む言い方を使えば、そこにはあくまで「客観的に見れば」という留保をつけるべきです。すなわち彼/女らは、《主観的》には無数のケータイを介した「選択」を積み重ねている結果、《客観的》にはあたかも「脊髄反射」をしているかのように見えてしまうということ。この作品の「ケータイ」にまつわる記述を注意深く追っていくならば、そう読み解くこともできるのです。

■2. なぜ「Pメール」と「PメールDX」の違いが説明されるのか――ケータイを介した選択と判断の連続

結論を出すのはまだ尚早でした。再び『恋空』の内容分析を行ってみたいと思います。ケータイにまつわる選択と判断の連続。それは、主人公である二人の男女が出会うくだりから始まります。

あ~!!超お腹減ったしっ♪♪」というあまりにも有名になってしまった一言から始まる、この作品の冒頭のシーンで、美嘉は女友達数人とお弁当を食べている最中に、まず「ノゾム」という男子生徒と出会うことになります。彼はいきなり「俺と友達になってよ♪ 番号交換しようぜ!」といって馴れ馴れしく美嘉に接触してくるのですが、ノゾムは学校の中でもいわゆるチャラ男の遊び人として知られていて、その警戒心から美嘉は無視を決め込みます。しかし、友達のアヤはノゾムといきなり親しげに会話をはじめてしまい、しかも電話番号を交換してしまいます。これを美嘉は「信じ難い光景」と形容します(上巻p.14/前編p.4)。

その後、放課後に自宅でブラブラしていた美嘉の元に、「(電話帳に)登録してない知らない番号から」の着信が入ります(上巻p.15/前編p.5)。美嘉は、「しかも登録してない知らない番号から…。誰だろう??」と思いつつも、「相手を探るように」その電話に出るのですが、その相手はノゾムでした。あろうことか、どうやらアヤは勝手に美嘉のケータイ番号をノゾムに教えてしまっていたのです。ノゾムは、突然の電話を侘びたその二の次には、「友達なって!」と頼んでくる。美嘉はもちろん当惑し、そして友達のアヤの行動を憎むのですが、一応電話を切ったあとに、ノゾムの電話番号を「一応」電話帳に登録することになります(上巻p.17/前編p.6)。

――余談ですが、ここまでのくだりを読んだ方の中には、「美嘉」と「ノゾム」がこの後付き合いはじめるのではないかと思う方もいるかもしれません(少なくとも筆者はそう思った)。ちょっと古いかもしれませんが、ここまでの流れは、いわゆる少女マンガの王道パターンであれば、「はじめはガサツでなれなれしかった男子が、実はけっこういい側面もあって…」といったストーリー展開を想像させます。

しかし、『恋空』はここでいささか意表を突く(?)展開を見せます。ノゾムはその後も、何度も美嘉に電話やメールを投げてくるのですが、それはいつも同じ内容で、《ゲンキ?》《イマナニシテル?》という単調なものばかり。これに美嘉は次第にうんざりし、返事をしなくなり、ノゾムを避けるようになってしまうのですが、この一連のくだりは、下のようにケータイ(PHS)に関する詳細な説明を伴って描かれています。筆者の見立てでは、これは『恋空』の特徴的なシーンの一つですので、長くなりますがすべて引用しておきましょう:

初めて電話で話した日以来、
ノゾムからは毎日のように電話やメールが来る。

当時はまだ“携帯電話”を持ってる人が少なく
ほとんどの人が“PHS”を使っていた。

“PHS”にはPメールとPメールDXという機能がある
Pメールとはカタカナを15字前後送ることが出来る機能で、
PメールDXとは今の携帯電話のように長いメールを送ることが出来る機能だ。

重要な内容ではない限りPメールDXは使わない。
ほとんどはPメールを使用していた。

ノゾムからのメールはいつも同じ内容。

《ゲンキ?》
《イマナニシテル?》

決まってこの二通。

次第に返事をするのが面倒になり、
返事をしなくなってしまったうえに
電話にも出なくなった。

(上巻p.17-18/前編p.7。引用は「魔法のiらんど」版から)

この一連の「Pメール」の文字制限仕様に関する説明は、実に「唐突」で「浮いた」ものに見えるかもしれません。いわゆる恋愛小説である『恋空』の中で、なぜこのようなケータイのスペックに関する説明的記述を挟む必要があったのか。単に「ノゾムがウザイから」なのではないのか。そう思われるからです。しかも、上に引用した文章の直後では、ノゾムのことを避けるようになったもう一つの理由として、もともとノゾムに積極的にアプローチしていた親友のアヤが、美嘉の事を「“親友の男を平気でとる女“」と陰口を言い出したから、というものが付け加えられています(上巻p.18/前編p.7)。だとするならば、「親友のことを裏切りたくないから」という理由でノゾムを避けたのだと説明すれば事足りるのではないか? ――その理由は後ほどすぐに明らかにしますが、筆者が注目したいのは、こうした「ケータイ」に関する記述の「過剰さ」「詳細さ」なのです。

ストーリーの続きに戻りましょう。ノゾムを避けるようになってからしばらく月日がたって、学校は夏休みに入ります。ある日のこと、友達のマナミと部屋で過ごしていた美嘉のPHSに、今度は「知らない家の電話」から着信がかかってきます(上巻p.19/前編p.8)。これに美嘉は「…やめとく。知らない番号とか嫌だしっ!!」といって電話を切ろうとするのですが、傍らにいたマナミは美嘉のPHSを奪い取り、その電話に出てしまいます。

すると、それは酔っ払って実にテンションの高いノゾムでした。これに美嘉は「ゲッッ!!」と面喰らうのですが、ノゾムはすぐにこういいます。『俺PHS止められちゃって~参った!今~弘樹って奴の家から電話かけてんだよね!頭良くない?今からそいつに変わりま~す!』 ここでようやく、美嘉の恋人となる「ヒロ」が登場するのですが、それは次のような「出会い」になっています。

『俺ノゾムのダチの桜井弘樹。あいつ今かなり酔ってるみたいでごめんな』
ノゾムとは正反対の、低く落ち着いた声。
『大丈夫だけど…ってか弘樹君だっけ??家の電話からかけてて大丈夫なの??』
美嘉の問いに弘樹は電話ごしで笑って答えた。
『ヒロでいいから!番号聞いていいか?俺からかけ直す』
そして番号を交換した。これがヒロとの出会いだ

(上巻p.20/前編p.9。引用は「魔法のiらんど」版から)

こうして二人は、まだ直接顔を見たこともない状態から、電話という声と声だけの間で「出会い」を果たす。そして美嘉は「ヒロとは会ったことがないけど話が合う」(「魔法のiらんど版」前編p.10(*1))と感じ、毎日暇さえあればケータイ上での親交を深めていくことになります。

――以上の美嘉とヒロが出会うまでのくだりは、書籍版にしてわずか10数ページしかありません。しかしその中には、実に様々なケータイに関する記述が登場しています。それがアドレス帳に登録された番号かどうか。アドレス帳に登録したかどうか。メールか通話か。PメールかPメールDXか。そして、こうしたケータイの操作に関する記述だけに着目して読み通せば、なぜ前段の部分で「Pメール」の字数制限について触れられていたのかが明らかになります。

それはどういうことでしょうか。ノゾムのメールは、いつも決まって《ゲンキ?》《イマナニシテル?》という「簡単」なものでした。それはなぜか? 端的にいえば、「Pメール」には「15文字まで」という字数制限があるからです。つまり「Pメール」では、その程度の「簡単」な内容しか「物理的」に――本ブログの主眼に沿った表現を使えば「アーキテクチャの性質上」――書くことができない。しかし同じ箇所では、当時PHSには、より多くの字数を送ることができる「PメールDX」も存在していたと説明されています。そして「重要な内容」であればそちらを使う習慣もあった。だからもっと「簡単」ではない「重要」なメールを、ノゾムは美嘉に送ることも可能だったはずです。それなのに、ノゾムは決まりきったメールを送ってくるばかり。つまり、ノゾムは「可能な選択肢があるのに、それを選択しない」という《選択》をした存在として、美嘉の側からは見えていたわけです。

これに対し、偶然のきっかけから電話上で出会ったヒロは、ノゾムとは違うタイプの落ち着いた声の持ち主で、趣味の話も合う。少なくとも、《ゲンキ?》としか言ってこないノゾムに比べれば、ヒロとのほうが相対的に見れば「内容」のある話をすることができる(*2)。その上で美嘉は、「顔」を知っているノゾムよりも、「顔」も見たことがないヒロのほうが「話が合う」という選択を行っている。ここで社会学の言葉を使うならば、ヒロは当初美嘉にとって「インティメイト・ストレンジャー」――匿名的なのに親しみを感じる異人――として現われていた、ということです。冒頭の10数ページを「ケータイ」の操作に着目して読み進めるならば、主人公の美嘉がこのようなケータイを介した選択や判断を暗に行っているということが浮かび上がってきます。少なくとも『恋空』の始まり方は、美嘉は単に「イケメン」であるからヒロに「脊髄反射」的に惚れた、といったものではないということです。

『恋空』の中には、前節で取り上げた冒頭のシーン以外にも、至るところでこうしたケータイにまつわる「選択」や「判断」に関する記述が出てきます。例えば、それは着信が「非通知」かどうか(上巻p.107/前編p.88)、ヒロからの返信が「ソッコー」かどうか(上巻p.151/前編p.136)といったようなものです。大抵それらは一行程度の簡潔な記述となっており、読み飛ばしてしまうとほとんど気づかない程度に「ミクロ」なものではありますが、よくよく読むならば、その記述は実に「丹念」に――こういってよければ「律儀に」という形容があてはまるほど――行われていることに気付かれるでしょう。つまり『恋空』という作品は、そのときケータイをどのような「判断」や「選択」に基づいて使ったのかに関する「操作ログ」の集積としてみなせるのではないか。そして読者の側は、そうした「操作ログ」を追跡(トレース)することを通じて、その場その場での登場人物たちの心理や行動を「リアル」だと感じることができるのではないか。筆者はそう考えます。

■補. 『恋空』の「行間」を読む

さて、ケータイの「操作ログ」に関する記述は、単に一行程度で頻繁に現われるだけではなく、効果的に省略されている場合もあります。少し寄り道になりますが、ここではその一例を挙げておきましょう。ヒロと電話上で親密になった美嘉は、夏休みが終わった後、学校でヒロと出会うことになるのですが、その場ですぐに二人は付き合うようになるわけではありませんでした。美嘉はだんだんとヒロに惹かれていくのですが、同時にノゾムから「ヒロには彼女がいる」という情報を聞かされることで、ヒロに対する一抹の不信感を抱いてしまうからです(それゆえ美嘉はヒロからのメールをシカトしたりもする)。そこで美嘉は、親友のアヤとミカに相談を持ちかけ、その場で《ヒロが彼女と別れる気が本当にあるのかを聞いて、もし別れる気がないならあきらめる》という方針を決めます。

そしてアヤとミカの二人が見守る中、美嘉はヒロに、《カノジョトワカレルキアル?》《ナイナラアエナイ》とメールを送ります(上巻p.28/前編p.16)。これに対するヒロの答えは、次のようなものでした:

♪ピロリン ピロリン♪
メールを送ってからまだ一分も経っていない。
ヒロからの返事は即答でしかもたった一言だった
《モウワカレタカラ》
「美嘉やったじゃん♪」
メールの返事を見てぴょんぴょん飛び跳ね
まるで自分のことのように喜んくれているアヤ。

(上巻p.28/前編p.17)。引用は「魔法のiらんど」版から)

これは何気ない文章――そしてやはりケータイによる「脊髄反射」が描かれているシーン――のように見えますが、ここに筆者は『恋空』に特有の「行間」を読み込むべきだと考えます。ヒロからの《モウワカレタカラ》という即答メールに、まず最初に「反応」するのは、ほかならぬメールを送った当事者である美嘉ではなく、傍らにいた親友のアヤだったということ。これは普通に考えれば「ありえない」ことです。一般にケータイは、画面も小さく、自分しか読むことができない「パーソナル」なメディアであるなどといわれます。つまりヒロからのメールにまず「反応」するのは、ほかならぬメールを送った美嘉であるはず。にも関わらず、ここでは、むしろ親友のアヤのほうが「脊髄反射」的な反応を示している。《モウワカレタカラ》→(行間)→「美嘉やったじゃん♪」という一連の文章のあいだには、こうした事柄の説明が省略されているわけです。

そして当の美嘉は、アヤたちが「まるで自分のことのように」喜んでくれたにも関わらず、次のような悩みを抱えます。

好きな人が彼女と別れたら嬉しいはずなのに…なんでだろう。
素直に喜べない。
だって、また嘘をついてるような気がするから。
まだ心のどこかに不安が残っている。
まだ100%…信じてない気持ちがある。

(上巻p.29/前編p.17)。引用は「魔法のiらんど」版から)

筆者から見れば、この一連のシーンには、「ヒロのことを信じたいがまだ信じることができないでいる」という美嘉の揺れ動く心理が、単にその「内面」の動きをそのまま描写するのではなく、メールに対する「反応」の落差を挟み込むことによって、実に効果的に描かれているように思われます。

これも余談になりますが、一般的に『恋空』という作品の文体については、「口語的でひたすらスピード感のある短文がガンガン続く」などと形容されることが多いようです。その文体的特徴は、一方ではこの作品を否定的に「はちゃめちゃな文章」などと嘲笑する際の根拠として、また一方では肯定的に「新しいネット/ケータイ時代の文体(言文一致体)の誕生」などと言祝ぐ(*3)際の根拠にもなっています。ただいずれにせよ、この作品には「行間」のような繊細な表現は一切存在していないと考えられているフシがあります。しかし、上のような考察を踏まえるならば、それはいささか「表面的」な読解だといえるのではないでしょうか(*4)。むしろケータイの「操作ログ」の描かれ方に着目してこの作品を読んでいくならば、そこには「ケータイ」の存在があってはじめて成立しうる「行間」的表現が散りばめられているからです。

■3.まとめ:『恋空』の「操作ログ的リアリズム」

今回の内容分析を通じて、筆者は『恋空』という作品の中に、「ケータイ」にまつわる「操作ログ」的な記述が積み重ねられていることを明らかにしてきました。もしかすると、これはあたかも筆者が提示した前回の結論――「ケータイは内面を剥奪する」――に矛盾しているのではないか、と思われた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここがポイントになるのですが、筆者は『恋空』に描かれているようなミクロな「判断」や「選択」の存在を証拠にして、『恋空』の登場人物たちにも(近代文学に描かれてきたような)「内面」があるのだ、といったようなことを主張したいわけではありません。

もし仮に、この小説がケータイに対して「文学的≒内面的」に向かい合っているというのなら、そこにはおよそ次のような――かなりベタで恐縮ですが――描写が見られるはずでしょう:「なぜ私はこんなケータイという存在に振り回されていつも苦しい思いをしているんだろう。幸せになれないんだろう。そうだ、こんなものは放り捨ててヒロと直接向かい合うべきなんだ。いや、しかしそれでも……」といった《葛藤》めいたものが。しかし、この作品の中では、残念ながらそうしたケータイについて「ちょっと距離を置いて考えてみる」といったような、いわば《メタ的な操作ログ》が記述されることはなく、徹頭徹尾、ケータイをどう操作したのかに関する《一次的》な水準の記述しか現れない。これは以前にも触れた鈴木謙介氏の言葉遣いを借りれば、『恋空』の中には、ケータイに対する「反省」ではなく「再帰」だけが描かれている、と表現することもできるでしょう(岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』から、情報社会について考える(2) | WIRED VISION)。確かにこの作品には「内面≒反省」はロクに描かれていない。その読解は文字通り正しいということができる。

その一方で、筆者が今回提示したのは、『恋空』という作品は、膨大なケータイに関する「操作ログ」の集積としても読むことができるということです。そして、それをトレースするようにこの作品を読み進めていくことで、実は《客観的》に見れば――すなわち「第三者=読者」の目から、あるいはサルの生態を観察するような「観察者」の目から見れば――トンデモで「脊髄反射」的に見える登場人物たちの行動が、実は《主観的》に見ればそれなりに妥当で繊細な「選択」や「判断」の連続によって決定付けられていることが分かる。少なくとも、ケータイの存在が当たり前になった世代(それは筆者自身も含まれるのですが)における、ケータイ利用に関するリテラシーや慣習と照らし合わせてみるならば、この作品に描かれているケータイに関する操作・選択・判断・反応のあり方は、それほど支離滅裂でもなければ脊髄反射的でもありません。いってみればこの作品は、「レイプ」だ「中絶」だといった「ストーリー」(事件内容)の水準とはまた別に、ケータイ利用の「リテラシー」の水準で「リアル」を担保しているといえるのではないか。

以上の考察をまとめましょう。『恋空』においては、「内面」の《深さ》のようなものは描かれていないけれども、「操作ログ」の《緻密さ》のようなものが刻まれているということ。その特徴を、あえて第1回でも参照した「自然主義的リアリズム」や「ゲーム的リアリズム」といった概念をもじって表現しておくならば、「操作ログ的リアリズム」とでもいうべきなのかもしれません。それは内面の/という風景をありのままに描写するのでもなく(「自然主義的リアリズム」)、ゲームのプレイ体験の構造を感情移入のためのフックとして物語内に導入するのでもなく(「ゲーム的リアリズム」)、ひたすらにケータイというメディアにどう接触し、操作し、判断し、選択したのかに関する「操作ログ」を描くものである、というように。

とはいえ筆者は、ここで「リアリズム」という用語を持ち出すことで、何か「ケータイ小説は文学なのかどうか」といった議論を展開したいわけではありません(いうまでもありませんが、以上の議論はあくまで『恋空』の内容分析に基づくもので、その他膨大に存在するケータイ小説が、上のような「操作ログ的リアリズム」によって書かれていると指摘しているわけではない)。あくまで筆者がここで「操作ログ的リアリズム」という言葉を出すのは、上に見てきたようなこの作品に対する解釈の「二面性」を強調したいからです:(1)一見すると、この作品には「内面」が描かれていないとしか読めないにも関わらず、(2)その「操作ログ」をトレースすれば、膨大かつミクロな「選択」に満ちているように読めるということ。いいかえれば、(1')《客観的》に見れば「脊髄反射」的にしか見えないが、(2')《主観的》に見れば「選択」的に見えるということ。筆者は第2回で前者の側面、そして今回の第3回で後者の側面を論じてきたわけですが、こうした読解の「二面性」が成立してしまう点について、次回は社会学/コミュニケーション論の文脈に接続しながら整理してみたいと思います。

(もう少しだけ続きます)

* * *

*1. この箇所は、書籍版(上巻p.20)では「趣味が一緒だったり好きな音楽が似てたりですぐに打ち解けあった」と若干加筆修正されています。

*2. 「どうせスイーツ(笑)な趣味の話だろwww」などと嘲笑したくなる方もいるかもしれませんが、ここでその趣味の「内容」が具体的にどのようなものだったかは、さして重要ではありません。そもそもこのシーンでは、美嘉とヒロがどのような「趣味」について話が合ったのかについて、具体的な「固有名」が一切言及されていないため、その中身についてあれやこれやと忖度することはできないのです。
 実はこれは『恋空』の特徴でもあります。恋空読解編第1回でも触れたように、この小説は「実話(をもとにしたフィクション)」と銘打ち、ノンフィクション的に書かれているというわりには、実際に物語の舞台となった「地名」や、登場人物たちが消費・利用する「商品名」や「コンテンツ名」といったものがほとんど出てきません(この小説の中で特権的に(?)言及されているのは「浜崎あゆみ」の『Who...』くらいのものです)。この作品の中には、学校やカラオケといった「どこにでもある場所」の描写がたんたんと描かれるだけで、具体的な「手触り」のようなものを欠いており、一見するとかなり「希薄」な印象を与えます(これは少なくないアニメ作品が、さしあたりその内容とはまったく関係なく、現実にある場所や風景に対する詳細なロケハンを行って制作されているのとは対照的といえるでしょう)。ちなみに宮台真司氏のブログでは、「携帯小説の編集者によれば、情景描写や関係性描写を省かないと、若い読者が「自分が拒絶された」と感じるらしい」と指摘されていますが、そのルールはおそらく「固有名」についても当てはまるのでしょう。しかしここにも、何に「リアル」を感じるのかに関する興味深い傾向が表れているといえます。

*3. たとえば「恋空が本当に面白い、冗談ではなく - Discommunicative」では、《「ことばの意味をできるだけ軽く」。AutoPagerizeにより、大量の希薄な言葉が超高速で流れてくる、この快楽。本当にこれこそがインターネット世代の文学と呼ぶにふさわしいものだ。》と肯定的に評価されています。そこでは、『恋空』のぶっきらぼうで希薄な「文体」(コンテンツ)と、FirefoxのGreasemonkeyスクリプトである「AutoPagerize」を使ってスクロールして高速に読むという「読み方」(アーキテクチャ)の相性が指摘されているのですが、このような『恋空』に対するアプローチを、当然ながら筆者は否定するつもりはありません(筆者ははじめ書籍版で『恋空』を読みましたが、この読み方をしてみると、全く違った読後感がありましたし、感覚的にはよくわかります)。ただ、そうした読み方ではこぼれてしまうような「リアル」がこの作品には刻まれているのではないか、と筆者は別の読み方を提示しているわけです。

*4. その一方で、筆者の「操作ログ」に着目する読解があまりにも「深読み」なのではないか、と思われた方もいるかもしれませんが、実際問題として、筆者はそう指摘されることは否定しません。おそらく、当の『恋空』の著者や読者たちに、「ケータイの操作ログに着目してリアルを感じた?」などと問い質しても、「いや別に特には」という答えが返ってくるか、せいぜい「そういわれればそうかも」という答えが返ってくるだけでしょう。なぜならそこに記述されている「操作ログ」なるものは、彼/女たちにとって日常的に(無意識的に)判断し選択されているような類のものであって、それを特に「自然」だとも「不自然」だとも思わないはずだからです。むしろ今回筆者が行ったのは、『恋空』におけるケータイ利用の操作ログをあえて「過剰に」読み込んでいく作業であり、それを当事者たちも「意識」しているかどうかは別の問題です。

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。