このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

『恋空』を読む(1):ケータイ小説の「限定されたリアル」

2008年1月15日

(これまでの濱野智史の情報環境研究ノート」はこちら)

■1. 分析を始める前に――『恋空』に対する2つの立場

ずいぶんと旬は過ぎてしまった感はあるのですが、今回は少し趣向を変えて、2007年に話題を集めたケータイ小説作品、『恋空』(スターツ出版、2006年)について分析してみたいと思います。

さて、分析を始める前に、いくつか確認しておきたいことがあります。昨年から(おそらく映画が公開されヒットを記録したのを境に)、ネット上では――ケータイ小説のメイン読者層ではなかった人々の間で――、この作品をどのように位置づけるのかをめぐって議論がなされていました。筆者もそのすべてをきちんとフォローしているわけではありませんが、ある程度概観しておくならば、それは大きく二つの立場に分けることができます。

第一の立場は、その小説の内容について、「『恋空』クソすぎワロタwww」などと嘲笑するというものです。『恋空』のあらすじは、高校生のカップルの間に、「レイプ」「妊娠」「駆け落ち」「中絶」「自殺未遂」「難病」といった事件が次々と連続するというもので、嘲笑の矛先は、ますその「短絡的」かつ「典型的」なストーリー展開に向けられました(たとえばその例として、「F速VIP(・ω・)y-~ 「恋空」があまりにも酷い件について」の要約テンプレを参照のこと)。

こうした嘲笑的な言説の多くは、2ch系ニュースサイトやAmazonレビューなどの場所を中心に、ある種の「炎上」や「コメントスクラム」に近い形で散見されましたが(たとえば切込隊長氏によるまとめ)、この作品に向けられた嘲笑は、単にその「内容」のクオリティに向けられたというよりも、それほどまでに短絡的で典型的なストーリーであるにもかかわらず、「感動した」「泣いた」という絶賛レビューを書き連ねる、『恋空』のファン読者層に向けられたものでした。これは裏を返せば、「書籍化」や「映画化」をきっかけに、「炎上可能性」が――「炎ジョイアビリティ」(?)とでもいうべきでしょうか――準備されたということを意味しています。あえて指摘するまでもないことですが、もしこの作品の流通範囲が、当初掲載され人気を集めていた「魔法のiらんど」(ケータイ小説サイト)の「内側」に留まっていれば、そもそもその存在が「外側」に知られることもなかったでしょうし、おそらく上のような嘲笑を向けられる機会もずっと少なかったでしょう。しかし、Amazonや映画レビューサイトといった(ある程度)「公共の場」に、同作品を愛好する人々の「ナマ」のコメントが大量に寄せられたことによって、その作品はある種の人々にとっての格好の獲物(ネタ)として「発見」されてしまった、というわけです。

これに対し、第二の立場は、『恋空』を嘲笑する立場からは一定の距離を置きつつ、「中立的」な態度を取るというものです。そしてこの立場の特徴は、「『恋空』をはじめとするケータイ小説には、そのジャンルを愛好する人々の間にだけ分かり合える『リアル』があるのだろう」といった共通見解を示している点にあります。たとえば佐々木俊尚氏は、この「リアル」というキーワードについて、次のように説明しています。

そもそも「援助交際」や「レイプ」「妊娠」の話をなぜティーンエージャーの女の子たちは読みたがるのか。その答はひとつしかない――彼女たちは、これらのキーワードに「リアル」を感じているからだ。(中略)ここで私が使った「リアル」というのは、実際に起きたかどうかではなく、その圏域に属している人たちが「本当にありそうだ」と感じられるかどうかという意味である。その意味で、ケータイ小説の読者という圏域に属している人たちは、ケータイ小説の要素群に対して「リアル」を感じている。
ソーシャルメディアとしてのケータイ小説 - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan

ケータイ小説には、ある限定された範囲においてのみ通用する「リアル」が描かれている。これは裏を返せば、本来であれば「小説」が描くことができると考えられていたはずの「普遍的なリアル」が、ケータイ小説にはぽっかりと抜け落ちてしまっている、ということでもあるのですが、この点については後述します。さしあたりここで注意を促しておきたいのは、それではケータイ小説の「リアル」を担保しているのは何か、という点です。

たとえば『恋空』という作品は、「美嘉」という名前の主人公の「回想日記」という体裁を取っている(ように読める)のですが、その作者名もまた「美嘉」とクレジットされています。これは、いわゆる「(私)小説」に慣れてきた従来の読者にとって、いささか面食らわせるものではあります。一応「私小説」というのは、もしかしたらこの小説の中の「私」や「僕」や「俺」というのは、その著者がモデルになっているのかもしれないな、という想定の元で読まれるフィクションということであって、基本的には、作者と作中の視点人物は別の存在として切り離されている、という大前提があるはずです(だからたいていの場合、作者名がそのまま「私」として作中に出てくることはめったにない)。しかし、作者名がそのまま作中で語りはじめる『恋空』は、この作者のプライベートな回想ノートを読まされているかのような印象を与えるのです。こうした点について、速水健朗氏は次のように指摘しています。

大人の目にはかけらもリアルではないケータイ小説が、「リアル」として受け入れられているのは、なんのことはない、文字通り"本当の話"であると謳うか謳わないのかの問題なのだ。しかも、「本当」と謳う際も、実際のリアリティーはどうでもいい。
【A面】犬にかぶらせろ! ケータイ小説の「リアル」とは何か

要するに、ケータイ小説の「リアル」なるものは、「これは実話を元にしたフィクションです」という前置きによって担保されている、ということです(*1)。少なくとも『恋空』に関していえば、その書籍版にして約700ページに渡る物語を読むにあたって、それは「小説」ではなく「ノンフィクション」のようなものとして読まれている。これを速水氏は皮肉まじりに、「これから本を出す作家は題名に「ほんとにあった」と付けて、文末にも『恋空』ばりに「実話を元にした~」云々と入れることにしたほうがいい」ともいっています。

逆に、『恋空』に嘲笑を向ける第一の言説の中には、『恋空』という作品が「本当に実話なのかどうか」を疑問視し、その矛盾を指摘するものもありました(*2)。一般に、「小説」の内容に対して「これは実話であるはずがない」と批判することはありえないことですから、その点からみても、ケータイ小説はもはや「小説」ではないというべきなのでしょう。しかし、だとすればそれは「何」なのか。先に挙げた佐々木俊尚氏は、同記事の中で次のように指摘しています。「ケータイ小説」は、もはや「小説」という完結した物語メディアとして受容されているのではなく、むしろブログやウェブ日記といった「ソーシャルメディア」として――ユーザー間の「双方向的」なコミュニケーションの過程の中で生み出される「UGC(ユーザー生成コンテンツ)」として――書かれ、読まれているのではないか。そしてケータイ小説は、ある限定された集団に属する人々たちが集まって、「集合知」のように「リアル」を紡ぎだす場所として、捉えることができるのではないか、と。

#蛇足ですが、おそらく佐々木氏は、「ケータイ小説」を「ソーシャルメディア」(CGMやUGC)として捉えることで、前者に向けられている「奇異の目」を、いささかなりとも中和しようとする意図があったと思われます。しかし、これは逆にいえば、後者の「ソーシャルメディア」もまた「限定された圏域」でしかない、ということを意味しています。筆者なりにその含意を付け加えるならば、ソーシャルメディアは、一枚岩のようなものとして「総表現社会」(梅田望夫)の到来をもたらし、社会全体に豊かな「知識」や幅広い「リアル」をもたらすのではなく、むしろある「限定された」コミュニティごとに、ばらばらに「集合知」や「リアル」を生み出す、というわけです。ちなみに、筆者が以前「初音ミク」現象を論じる際に用いた「限定客観性」という言葉も、まさにこうした事態を別様に表現したものでした。

以上が『恋空』ひいては「ケータイ小説」をめぐる議論の整理になりますが、こうした「限定されたリアル」に関する認識は、多くの論者も指摘するように、何も「ケータイ小説」に限られるものではありません。およそネット上に存在する無数のコミュニティというものは、――たとえばrepublic1963氏が「ロストジェネレーション世代のネットユーザーにとっての「リアル」が非モテ」(「非モテ」とは何か - 奇刊クリルタイ)であると表現するように――「限定されたリアル」としての性質を有している。また、当の『恋空』がそうだったように、「炎上」と呼ばれる類の現象の多くは、まさに「限定されたリアル」が異なる文脈に――ised@glocomの言葉を使えば「陰口で繋がる自由」を謳歌する人々のコミュニティへと――接続されてしまうことで生じている。さらに、こうした「限定されたリアル」に関する認識をマーケティング論に適用し、もはや現代のヒット商品は――まさにその代表例として「ケータイ小説」が挙げられているのですが――、社会のごく一部の範囲における「わたしたち」の間でしか受容されなくなっていると指摘しているのが、鈴木謙介氏の『わたしたち消費』(幻冬舎新書、2007年)です。枚挙に暇はないのですが、すでに私たちのネット社会に対する認識は――それがアイデンティティ論/サイバーカスケード論/マーケティング論の形を取るにせよ――、こうした「限定されたリアル」という図式を前提にせざるをえなくなっている、といえます。

■2. 「限定されたリアル」をめぐって――東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』を読む

さらに補足として、ここでは、昨年上梓された東浩紀氏の『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書、2007年)を参照しておきたいと思います。この著作は、ノベルゲームやライトノベルといった、オタク系の消費者にとりわけ訴求している「物語コンテンツ」を分析の対象としており、「ケータイ小説」こそ扱われてはいませんが、上に見たような「限定されたリアル」(を宿す物語コンテンツ)に関する考察がきわめてクリアに展開されているからです(*3)。

まず同書は、その前作にあたる『動物化するポストモダン』で示されていた、次のような状況診断から論を始めています。もはや人々は、小説や映画やアニメやゲームといった「物語コンテンツ」を通じて、社会全体に対する「共感」や「想像力」を抱くことはなくなっていく。いいかえれば、個々の物語コンテンツは、「大きな物語」(その社会で広く共有される共通の価値観や目的やイデオロギー)へと至る回路を提供しなくなる。その代わりに、人々は、自分たちの「欲求」に適した「小さな物語」を、個別にばらばらに消費するようになっていく。もはや「物語」というメディアは、社会全体で共有可能な「リアル」を表現する《器》としてではなく、ただ消費者の「感情」や「感覚」――それはオタク系の「萌え」であろうと、ケータイ小説系の「感動(涙腺)」でもいいのですが――を的確に《刺激》するものとして、消費されるようになる(*4)。こうした「小さな物語」は、あるコミュニティにとっては感動的で「リアル」に見えるかもしれないが、また他のコミュニティから見れば、単に滑稽で嘲笑の対象にしかならない、というわけです。

さらに同書の前半にあたる「理論」編では、いくつかの認識が付け加えられています。そのひとつは、「コミュニケーション志向メディア」の台頭によって、コンテンツ(物語)の自立性が失われつつある、というものです。もはや「小説」に限らず、あらゆる作品やコンテンツは、(書籍などの「コンテナー」にパッケージングされていた)「内容」それ自体が消費されるというよりも、ある特定の集団の「コミュニケーション」を効率的に盛り上げるかどうか、という点において消費されている。つまり、コンテンツは、ある限定されたコミュニケーションの「繋がりの社会性」(北田暁大)の中に埋め込まれており、そこから切り離しては自立しえなくなっている。それは「ライトノベル」や「ケータイ小説」だけではなく、「YouTube」や「ニコニコ動画」といった動画(映像)コンテンツについても、まったく同じことがいえます。そしてこうした事態は、先に紹介した佐々木氏の視点から見れば、「ソーシャルメディアを通じて新しい『リアル』が次々と掬い出されるようになった」と肯定的に捉えることもできるでしょう。しかし、これは裏を返せば、「物語というものが、『限定されたリアル』を越境する可能性は、ますます希薄化しつつある」と否定的に捉えることもできるわけです。

そしてもうひとつは、(小説の構成要素であるところの)言葉の「透明」さが失われたということ。東氏はこの問題を、「私小説」という近代小説のフォーマットと絡めて説明しているのですが、それはこういうことです:「私小説」に描かれているのは、基本的に作者のことなのかもしれないが、基本的には誰ともわからない「私」についての物語です。そして、こうした「私小説」を読むという行為を支えていたのは、その物語の中において、「世界」と「私(内面)」の間の関係が、ありのままの形で「写生的」に――「自然主義的リアリズム」(大塚英志)に則って――描かれている、という前提だった。それはいいかえれば、「絵の具」であるところの言葉というメディアが、「言文一致体」の登場によって、不純物を含まない「透明」(柄谷行人)なものとして受容されていたことを意味している。だからこそ、そこで書かれている内容は、誰にとっても共感しうるような、「普遍的なリアル」を宿すと考えられていた。しかし、ポストモダンの時代においては、そうした言葉の「透明性」は失われており、日常的な世界を、日常的な言葉で写生したとしても――まさに「ケータイ小説」はそのようなものとして書かれていますが、むしろそれゆえにこそ――、そこに誰もが「リアル」を感じ取ることはできなくなっている。

それでは、果たしてポストモダンにおける「物語」や「文学」――つまり、何かを「リアル」であると伝達するメディアと、その方法論としての「リアリズム」――はどのように変化しているのか、というのが東氏の分析の本題になっているのですが、ここでは「ケータイ小説」に話を戻すことにしましょう。それはごく単純なことです。もはや言葉の「透明」さは失われている以上、もはや小説の中の言葉という「絵の具」だけで、なんらかの「リアル」を伝達することはできない。それゆえ「ケータイ小説」は、「私小説」ではなく、端的に「実話をもとにしたフィクション」――東氏の「半透明」という表現を借りるならば、それは「半実話」――として書かれ、読まれているのだ、と。

……

以上の考察から、「ケータイ小説」を通じて感受されている「リアル」なるものが、ある一部の読者層に「限定」されており、「半実話」というジャンル設定によって担保されている、ということを確認してきました。しかし筆者は、こうした分析にはいささか不十分なものを感じています。なぜなら、それは結局のところ、「ケータイ小説」に宿っている「限定されたリアル」について、ただその《存在》を外側から認めただけに留まっており、その《中身》を理解するには至っていないからです。

さらにいえば、もはや私たちは、「限定されたリアル」の林立する現代的状況について、俯瞰的に、いくらでも饒舌に語ることができるはずです。それが現代社会の基礎的条件であるとするならば、私たちは、そこかしこに「限定されたリアル」を見出すことができるからです。これからも私たちは、情報環境上のあちこちに「限定されたリアル」を発見しては、それを嘲笑して盛り上がったり、中立的な態度を取ったりすることでしょう。それは不可避の事態だと思われます。

ただ少なくとも『恋空』に関していえば、そこに描かれている「リアル」は、決して「限定された」ものとはいえないのではないか。そう筆者は考えています。果たして、それはどのようなものなのでしょうか。以上の関心に基づき、次回は『恋空』という小説作品の「内側」に入って、分析を進めていきたいと思います。

(次回に続く)

* * *

*1. ちなみに『恋空』の場合は(筆者の手元にあるのは第27刷)、「この作品は実話をもとにしたフィクション」と記されています。筆者が書店でケータイ小説コーナーにある作品をいくつか確認した限りでは、この「実話をもとにしたフィクション」という定義がよく用いられているようです。また、たいていの作品には、「作品内には飲酒や喫煙に関する記述がありますが、未成年のそれは法律で禁止されています」といった但し書きが付け加えられている――これもある種の「炎上対策」なのでしょうが――のも特徴といえるでしょう。

*2. 「恋空 - Wikipedia」には、次のように書かれています。「内容には悪性リンパ腫や妊娠に関する記述など、現実的に有り得ない描写が多くみられる。当初はノンフィクションを標榜し、トップページにも「実話」と明記されていたが、矛盾部分を指摘されて以降は「実話をもとに」に改められて、脚色ということになっている。」

*3. 前回、筆者はメディア環境のマクロな構造変化を捉えるにあたって、東氏の「情報自由論」や「ised@glocom」などで展開された「二層構造」(コンテンツの層とアーキテクチャの層の解離)というフレームワークを参照しましたが、東氏も自ら明言しているように、この枠組みは、メディア環境や社会構造の変化だけではなく、コンテンツ消費の変動を捉える際にも共通して適用されています。またケータイ小説については、講談社の『MOURA』でのインタビュー記事(聞き手:福嶋亮大氏)でも関連性が若干言及されています。

*4. たとえばこの点について、同じく東氏の議論を参照した論考として、「少女たちのポストモダン - ケータイ小説に見る彼女たちの記号的消費 - オルタナティヴ・デイジーチェイン・アラウンド・ザ・ワールド」を挙げておきます(同考察では、リアルとは「感情をドライヴさせるもの」と定義されています)。

フィードを登録する

前の記事

次の記事

濱野智史の「情報環境研究ノート」

プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。