このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

『恋空』を読む(2):ケータイに駆動される物語、ケータイに剥奪される内面

2008年1月31日

(これまでの濱野智史の情報環境研究ノート」はこちら)

■1. ケータイが駆動する物語――物語内のケータイに着目する

(だいぶ間が空いてしまいましたが、)前回からの続きです。前回筆者はいくつかのケータイ小説論を取り上げながら、そこに「限定されたリアル」と呼べるような共通認識があることを確認しました。つまりケータイ小説は、「ある限定された読者にとっては『リアル』だと感じられるような内容が描かれているもの」として、いわば「カッコつき」の存在として取り扱われている、ということを意味しています。これを2ch系のまとめニュースサイト「痛いニュース」は、こうした認識を見事なまでに簡潔に、「『恋空』は2chねらには駄作だけどリア充には名作。もはやリアリティの基準が多様化している」と要約していました。

さて、それでは実際のところ、『恋空』の内容とはどのようなものなのでしょうか。ここではあえて、この作品に嘲笑的な評価を下している、2ch系まとめニュースサイトの要約テンプレ(*1)をそのまま借りてくることにしましょう:

イケメンと付き合うヒロイン
→イケメンにふられた元彼女が逆恨み→男たちにレイプ指示
→レイプされる(レイプ犯の子は妊娠してない)
→イケメンと図書室でのsex
→イケメンの子供妊娠するが、元彼女に突き飛ばされ流産する
→いきなりふられる
→すぐに新しい彼が出来る
→イケメンがガンになってることを知る
→彼氏を捨てて、元さや
→ガン闘病中で瀕死のはずのイケメンと野外セックス
→イケメン死ぬ
→抗がん剤で精子全滅だったはずのイケメンの子を妊娠発覚
→将来とか考えてないけど生むわ

F速VIP(・ω・)y-~ 「恋空」があまりにも酷い件について

このあらすじは、『恋空』を読まれていない方から見ればあまりにも支離滅裂なストーリー展開に見えるかもしれませんが、確かに作中のめぼしい「事件」(シーン)だけを取り出せば、それは上のようなものになっています。ですから、この作品をレイプだ妊娠だガンだといった「ストーリー」の水準で読むのだとすれば(小説なのだから「ストーリー」を読むのが当たり前だろうといわれてしまいそうですが)、それは多くの人にとって共有可能な「リアル」とはいえない、ということになるのでしょう。

ただし、筆者は、以下で『恋空』の内容分析を行っていくにあたって(以下では書籍版と魔法のiらんど版を扱います(*2))、「ストーリー」の水準ではなく、物語の中に登場する「メディア」の水準に着目してみたいと思います(*3)。それは『恋空』における「ケータイ」(*4)の存在です。この作品を一読すれば誰もが気づくことではありますが、『恋空』では、登場人物たちの行動や心理の変化をもたらすのに、ケータイがあまりにも重要で決定的な役割を果たしています。『恋空』の中においては、ほとんど「ケータイ」が狂言回しの役割を果たしているといってもいいでしょう。これは何も筆者だけが指摘していることではなく、しばしば「さすがケータイ小説といわれるだけに(ケータイが作中で重要な役割を果たしている)」などといった感想も見られます。

それでは『恋空』という物語において、ケータイはどのような役割を果たしているのでしょうか。先ほど引用したあらすじに付け足してみるならば、それは下のようになります:

(登場人物についての注:主人公(ヒロイン)=「美嘉」/主人公の恋人(イケメン)=「ヒロ」)

  ↓美嘉とヒロがはじめて知り合ったのは、
  ↓偶然、電話でお互いに会話したのがきっかけ(書籍版上巻p.20/『魔法のiらんど』版前編p.9)。
  ↓その後も何度か電話をするが、互いに顔も知らないまま、電話だけでいい感じの関係に。
→イケメンと付き合うヒロイン
  ↓付き合ってすぐにヒロの部屋でsex。
  ↓しかし、終了後にヒロのケータイが突如鳴ってしまう(上巻p.35/前編p.22)。
  ↓それはモトカノからの電話だった。しかもヒロは電話に出てしまう。
  ↓美嘉は不信感を抱き、いったん付き合うのをやめる。
→イケメンにふられた元彼女が逆恨み→男たちにレイプ指示→レイプされる(レイプ犯の子は妊娠してない)
  ↓美嘉のもとに、いきなり『ブス』と言うだけの非通知電話と、
  ↓知らないアドレスから《シネシネシネ》と書かれたメールが届く(上巻p.59/前編p.43)。
  ↓すかさず美嘉は《ダレデスカ?》と返信したところ、
  ↓レイプを指示したヒロのモトカノであることが判明。
  ↓その後も執拗に《ブス》《シネ》と嫌がらせメールを
  ↓受け取った美嘉は、精神性の胃痛で入院(上巻p.61/前編p.45)。
  ↓リストカットもしてしまう。しばらくして退院。
  ↓PHSの機種変をしたら嫌がらせはなくなり回復(上巻p.65/前編p.47)。
→イケメンと図書室でのsex
  ↓非通知の着信で、ヒロを名乗る電話を受ける(上巻p.89/前編p.88)。
  ↓しかし、実は「なりすまし」でモトカノの仕組んだ罠だった。
  ↓体育館の裏に呼び出されて、下の通り突き飛ばされて流産。
→イケメンの子供妊娠するが、元彼女に突き飛ばされ流産する
  ↓ヒロからの別れの言葉は、メールで《ゴメン、ワカレヨウ》の一言(上巻p.162/前編p.147)。
  ↓電話をかけてもずっと留守電。
→いきなりふられる
  ↓何度かヒロの自宅まで押しかけるが、ヒロには「愛を証明しろ」といわれ、
  ↓「仲のいいダチに、俺の事好きって電話かけろ」と命令される(上巻p.178/前編p.163)。
  ↓その後結局完全に別れる。美嘉はPHSから携帯に変えて、
  ↓アドレス帳にヒロの番号は一度登録したがやっぱり削除(上巻p.206/前編p.191)。
→すぐに新しい彼が出来る
  ↓(ここからの話が実はけっこう長いのだが、)
  ↓ヒロと別れた後、何度か親友たちとトラブルを繰り返す。
  ↓ここでもケータイが決定的に重要な役割を果たす(後述)。
→イケメンがガンになってることを知る→彼氏を捨てて、元さや
  ↓クリスマスの夜に、ケータイのテレビ電話機能を使って、
  ↓病床にいるヒロといっしょに、過去に流産してしまった赤ちゃんの
  ↓お墓参りをする(下巻p.242/後編p.216)。
→ガン闘病中で瀕死のはずのイケメンと野外セックス→イケメン死ぬ
  ↓ヒロが死んだことを現実のものとして受け入れられない美嘉。
  ↓そんな美嘉を見かねて、共通の友人だったノゾムが、
  ↓死の間際にヒロから送られてきたメールを美嘉に見せる(下巻p.304/後編p.285)。
  ↓そこには、「もし俺が死んだら、美嘉に現実を教えてやってくれ」
  ↓と書かれていた。
→抗がん剤で精子全滅だったはずのイケメンの子を妊娠発覚
→将来とか考えてないけど生むわ

F速VIP(・ω・)y-~ 「恋空」があまりにも酷い件についてをもとに筆者が加筆、作成)

ずいぶんと長くなってしまいましたが、要するに『恋空』の登場人物たちは、ケータイを通じて恋人と出会い、恋人と別れ、親友と決裂し、新しい親友をつくり、感動的な体験をしていくということが、上の要約からも伝わることかと思います。


■2. ケータイが剥奪する「内面」というフォーマット――「♪ピロリンピロリン♪」と鳴り響くケータイ

さて、上に記した以外にも、ほとんどすべてのシーンでケータイは常に登場しているのですが、その中でも、特に次のシーンは注目に値します。なぜならそれは、『恋空』がいわゆる「近代小説」や「文学」と呼ばれるような物語のあり方と、決定的に異なってしまっているように見えるからです。

そのシーンは、美嘉がヒロと別れた後、クラスメイトのミヤビから、ある罵倒を受けたことで始まります。ちなみに美嘉がヒロと別れた後、ヒロはこのミヤビと一時的に付き合っていたこともあって、それ以来、美嘉はミヤビを避けていました。そして、美嘉はこのシーンで、ミヤビがどうやらヒロと別れたらしいということに気づくのですが、ミヤビは(ミヤビの視点から見れば)ヒロのモトカノにあたる美嘉に対し、フラれたことの腹いせとでもいわんばかりに、次のような罵声を浴びせます。

《「私知ってるんだからね。美嘉が弘樹(引用者注:ヒロのこと)の子どもを中絶したの知ってるんだから!」
(中略)「弘樹から聞いたんだから。中絶なんて最低だよ! 私なら絶対に産むよ! 人殺しのくせに!」
(中略)「さっき聞いてたんだから。新しい彼氏ともヤリまくってんでしょ? 男好きだね!」》

(下巻p.21/前編p.380)。引用は魔法のiらんど版から)

この罵声を受けて、美嘉はショックで学校を飛び出し、「中絶」という過去の行為に対し、ひとり自問自答を繰り返します。

《中絶は
人殺しなの??
それをすることによって必ずたくさんの傷みを
背負う。
理由も無しにしてしまう人も中にはいると思う。
でもね、
産みたくても流産しちゃった人…
親に反対されてしまった人。
彼氏に反対された人…
レイプをされて妊娠してしまった人。
いろんな事情があるの。
みんなそれぞれ
苦しんでいるんだ。
自分の赤ちゃんが嫌いで殺す人なんていない。》

(下巻p.23/前編p.382。引用は魔法のiらんど版から(*5))

この中絶について美嘉が悩むシーンは、『恋空』という作品の中でも、とりわけ「人間的」で「内面的」といえる箇所になっています。これはごく素朴な説明になってしまいますが、自己の犯した罪について、「内面的」に向かいあい、反省し、苦悩するというこの一連のシーンは、いわゆる典型的な「近代小説」や「文学」のあり方に近いといえるからです。

しかし、その煩悶はあえなく打ち切られます。ほかならぬケータイの存在によって。

《♪ピロリンピロリン♪
考え込んでいた美嘉に届いた一通のメール。
唯一あの中で妊娠を知っていたアヤからだ。
《駅前のカラオケ集合》
駅前のカラオケ…??
頭の中を整理し、
メールで届いた通り駅前のカラオケへと走った。》

(Ibid.)

「カラオケ集合」というメール一つで、あっさりと中絶に対する悩みを打ち切り、カラオケへと走ってしまう主人公。まさに上のシーンは、「♪ピロリンピロリン♪」と鳴り響くケータイの存在によって、「内面的」に苦悩するという近代小説モードが強制終了させられてしまう、決定的な瞬間になっているといえます。

そしてこのシーンは、おそらく『恋空』に「リアル」を感じるかどうかの、大きな分水嶺(フラグ)になっているといえるでしょう。ここであっさりカラオケに向かう美嘉の行動を「リアル」と思えるか、「おいおい、ありえないよ! お前さっきまで悩んでたじゃん!」と思わずツッコミを入れたくなるか。少なくとも『恋空』に「限定されたリアル」しか描かれていない――つまり、「ありえない」――と感じる読者であれば、後者の反応を示すのではないでしょうか。たとえばその感覚は、「(『恋空』の登場人物たちは、)どこからか飛んできた電波を受信して行動してるの。それでも話は進んでいくの。」という形で、辛辣かつ的確に示されています(ウタロンガー みんなの物語 ~恋空~)。

さらに事例を付け加えるなら、『恋空』の中では、「内面的」で「精神的」な苦悩さえも、「ケータイ」によってもたらされます。上の「あらすじ+ケータイ事例追加版」でも触れたように、美嘉はヒロのモトカノから、《シネシネシネ》といった嫌がらせメールを頻繁に送りつけられてしまうことで、精神的に病んでしまい、胃痛で入院し、リストカットをするに至ります(上巻p.59/前編p.43)。しかし、その一連の描写はたった数ページで済まされてしまい、しかもその問題は、「機種変」をすることで(と作中では書かれていますが、おそらく電話番号も変えたのでしょう、)あっさりと克服されてしまう。もしこれがいわゆる「近代小説」や「文学」であったらならば、病に至り、そこから回復するまでの「内面的」な過程がもっと丹念に描かれていたことでしょう(*6)。

■3.『恋空』の「限定されたリアル」を改めて確認する

『恋空』では、ケータイの存在によって登場人物たちの「内面」が切断され、「脊髄反射」的な行動が展開されていく。だからこそ少なくない読者は、この物語に何かしらの「リアル」を読み込むことができずに、「ありえない」と感じてしまう。――このように整理するならば、前回論じた「限定されたリアル」ということの意味を、改めて確認することができます。

それはこういうことです。前回も触れたように、しばしばケータイ小説は、「援助交際」「レイプ」「リストカット」といった「非日常的な――さらにいえばそれがあまりにも「典型的」(ベタ)な――事件を扱っているがゆえに、「限定されたリアル」に留まっていると評価されがちなようです。しかし、これはふと考えると少しおかしいことに気づきます。そもそも、この社会を生きる大部分の人々にとって「非日常的」な事件が作中に描かれているからといって、それが直ちに「リアルではない」などといえるでしょうか? これは当然ながら、そんなことはないのです。いうまでもなく、古今東西の文学作品を見渡せば、犯罪や性愛といった「非日常的」な事件を扱ったものはゴマンと存在しています。しかし私たちは、それらの作品を「ありえない」などと切って捨てることはなかったからです(「つまらない」と切って捨てることはあるにせよ)。

では、なぜ私たちは近代小説や文学に「限定されないリアル」、つまり「《普遍的》なリアル」を読み取ることができた(ということになっていた)のでしょうか。それはふつう私たちが小説を読むとき、そこに「日常的」(に起こりうると思えるよう)な事件が描かれているかどうかではなく、主人公をはじめとする登場人物たちが、その事件に直面した結果、どのような「内面的」な事態に――たとえば苦悩し、絶望し、克服するといった状態に――陥るのかどうか、に着目してきたからです。つまり、「普遍的なリアル」を判定する基準は、「もしそのような状況に置かれれば、そのような内面的経験を“私”もするだろう」と思えるかどうか、いいかえれば、物語内における《客観的》な出来事のレベルではなく、《主観的》な感情移入のレベルにおかれている、というわけです(*7)。

もちろん、そのようなものだけが「(近代)小説」の読み方ではないし、小説という表現の《普遍性》を担保するのでもなく、むしろ上のような「前提」や「制度」の存在こそが疑われ続けてきた――といった議論の積み重ねがあることを、筆者は承知しています。しかし、ここで筆者は、いわゆる文学論に立ち入るつもりは一切ありません。ただここで筆者が確認したいのは、少なくとも上の「ルール」に沿って『恋空』を読むのであれば、確かにそこには「限定されたリアル」しか描かれていないように見えてしまう、ということです。なぜなら『恋空』という作品の中では、ケータイというメディアの存在によって、《普遍的》な共感を支えるはずの「内面」というフォーマットが、ほとんど機能不全に陥ってしまっているからです(*8)。つまり、『恋空』が「限定されたリアル」であるというとき、それは単にこの作者の文章や文体が稚拙であるとか、展開が支離滅裂であるといった表面的な問題には還元できないということを、ここで改めて確認しておく必要があるでしょう。

さて、本題はここからです(前置きが長くて本当にすみません…)。前回筆者は、この作品について、「そこに描かれている『リアル』は、決して『限定された』ものとはいえないのではないか」と予告しました。しかし、以上の考察は、ますます「この作品には『限定されたリアル』しか描かれていない」という結論を導くようにも思われます。それでは、はたして『恋空』のどこに「リアル」を読み解けるというのでしょうか? 次回は少し視点を変えて、この作品内における「ケータイ」のあり方/接し方に着目してみたいと思います。

(次回に続く)

* * *

*1. おそらくこの要約は「映画版」の『恋空』について書かれていると思われますが、本文中で行っている「書籍版」に関する内容分析を行う上で、特に内容的に問題はないので、そのまま引用しておきます。

*2. 実は『恋空』の書籍版と魔法のiらんど版を読み比べると、数え切れないほどの修正が入っていることがわかります。しかも、それは文章表現や章立てに関するものだけではなく、「事件の繋がり(シークエンス)」に関するものも少なからず存在しています。たとえば魔法のiらんど版の前編第九章「仲間」では、美嘉とヒロが別れた後、美嘉の友人であるミヤビがヒロとつきあいはじめたことを美嘉は知るのですが、これにショックを受けて呆然とする美嘉は、道端で援助交際を持ちかけられる、というシーンがあります。このシーンは、書籍版ではカットされています(前編p.216。書籍版では上巻のp.225に相当。ちなみに、特にこの魔法のiらんど版の第九章は、他の章に比べると群を抜いてページ数が多く、ヒロと分かれてからの高校時代のエピソードが丹念に描かれており、前編の約半分以上がこの章に当てられています)。こうしたケータイ版と書籍版の違いに着目すれば、また別の分析も可能とは思われますが、本論考で取り上げた事例については両者にクリティカルな差異は見られなかったため、特にここでは両者を区別して扱うことはしません。

*3. しばしばケータイ小説については、「その物語が『ケータイ』という画面の小さな端末を通じて読まれている」という受容形態/メディア環境に着目する考察も見られますが、ここではそうした「物語外」のメディアではなく、「物語内」のケータイのあり方に着目して分析を行っています。

*4. 瑣末な点ではありますが、この作品の前半では「PHS」、後半では「携帯電話」が使われているのですが、本論では区別せず、同じ「ケータイ」として扱います。

*5. この中絶について悩む部分は、書籍版と若干表現が異なっています。書籍版(下巻p.23)では下のように修正されています。


《中絶は人殺しなのかな??
それをする事によって必ずたくさんの傷を背負う。
理由もなく、してしまう人も中にはいると思う。
でもね、産みたくても流産しちゃった人…
親に反対されてしまった人。
彼氏に反対された人…
レイプをされて妊娠してしまった人。
いろんな事情があるの。
みんなそれぞれ心の傷を背負って苦しんでいるんだ。
傷を背負ってそれをつぐなおうと思っているなら、それは人殺しではないと…そして赤ちゃんも救われるんだと、そう思いたい。

(強調は引用者)

つまり書籍版では、「傷を背負う」といった表現が若干強調されて繰り返されていることが分かります。

*6. たとえば、(最近はめっきり聞かれませんが、)「結核は文学者/ロマン主義の病」といった意味合いの言葉があるように。

*7. もちろんこれは単純すぎる表現になっています。言葉を補うならば、《主観的》であれば本来は共有不可能なはずの「内面」の動きを、あたかも《客観的》に共有可能であるかのように見せかけるのが、近代小説や文学という「制度」である、と表現すべきところでしょう。

*8. 逆に「内面」が描かれていないという特徴をポジティブに捉えることも可能です。「『恋空』は神話のようなもの」と肯定的に評価する言も時折見られますが、それはその一例といえます。

フィードを登録する

前の記事

次の記事

濱野智史の「情報環境研究ノート」

プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。