このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第24-1回【同期性考察編(5)】「祭り」や「炎上」は「共通知識」の源である

2007年12月26日

(これまでの濱野智史の情報環境研究ノート」はこちら)

前回からの続きです。前回までの考察は、一言で要約すれば、「非同期型である(と考えられてきた)インターネットの上に、昨今、同期型のコミュニケーション・アーキテクチャが生み出されつつあるのはなぜか?」というものでした。この一見すると矛盾・対立するようにも見える現象に解答を与えるには、ざっと二つのアプローチがありえます。社会的な解答と、技術的な解答の二つです。

■24-1. なぜいま「同期」なのかについての社会的説明――「祭り」や「炎上」は「共通知識」の源である。

まず、社会的にそれを説明してみましょう。前回確認したように、これまで私たちの社会は、テレビやラジオや新聞といった、同時に大多数の人々に向かって情報を伝達するマスメディア(一斉同報型メディア)を通じて、「いま・ここ」を共有しているという感覚と、ひいては「いま人々が何を見知っているのか」に関する「共通知識」を形成し、ひいては「想像の共同体」と呼ばれるような社会のあり方を実現してきました。これに対し、インターネットが普及しつつあるメディア・広告環境の現状を、私たちは「マスメディアからインターネットへ」「広告から狭告へ」「《欲望》喚起型から《欲求》察知型へ」と、単線的で一方方向的に進展するプロセスとして捉えることが多かった。そして、そのプロセスが突き進むのはなぜかといえば、それは「私たちの社会の価値観やライフスタイルが多様化しつつあるからだ」と説明されていたわけです。

しかし、ここで重要なのは、だからといって、人々は完全に「共通知識」を必要としなくなったわけではない、ということです。人々は、マスメディアのような儀式装置を通じて、「全国民」的に広大な範囲で「共通知識」を得ることはなくなりつつあるのかもしれません。ただ、それよりも小規模な社会集団を形成する場合であっても、引き続き「共通知識」は必要とされる。たとえば、筆者の見立てでは、「祭り」現象に着目した鈴木謙介氏の『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書、2005年)や、「炎上」現象に着目する荻上チキ氏の『ウェブ炎上』(ちくま新書、2007年)といった著作は、「いまもなお人々は『共通知識』を求めている」側面を説明するものとして、読み解くことができます。

それはこういうことです。有史以前の時代から、「祭り(祝祭)」、そして(祭りに「火」はつきものという意味で)「炎上」なるものは、地域共同体において催される「真性同期」的な――複数の身体が一箇所に集まり、同じ「いま・ここ」を共有する――「儀式」としての性格を持っていた。いうまでもなく、こうした「儀式」という真性同期型イベントこそが、かつて共同体と呼ばれる社会集団に、時代を超えてなんらかの「ルール」や「共通知識」を刻み込んでいくための、重要な「メディア」としての役割を果たしていた。そして、現在のネット社会においても、人々はネットのあちらこちらで、定期的に「祭り」や「炎上」を引き起こしている。それはなぜかといえば、以前に筆者も指摘したように、基本的に人々の関心がばらばらに散ってしまったネット空間上において、「祭り」や「炎上」こそが、「いま・この事件こそが注目に値する」という「共通知識」を獲得するためシグナル――いわば「のろし」のようなもの――として機能しているからです(第9回)。人々は、(規模の大小に関わらず)なんらかの社会的集団を形成する限り、なんらかの同期的イベントによって「共通知識」を必要とする。だから、基本的にはばらばらに(非同期に)情報を発信・受信するネット空間上においても、「炎上」や「祭り」が自然発生的に生み出されるというわけです。

これはいうまでもありませんが、ネット上の「祭り」や「炎上」がネットに特有の現象に見えてしまうのは、それが地理的な制約をいとも簡単に乗り超えてしまうからです。それを荻上氏はネットが持つ「つながり」と「可視化」という性質で説明していますが、これは要するに、ローカルな範囲で盛り上がっていたはずの「祭り」が、どんどん飛び火して野次馬を集めてしまう、ということを意味しています。それは比喩的にいえば、大阪のある街角でやっていた「だんじり祭り」が、どんどん規模が大きくなって、予告なしに東京までやってきてしまったようなものです。東京側の人間から見れば、それは何事かと思うような、とんでもない大事件に見える。しかし、それはもとを辿れば、どこの地域でも行われているような「祭り」に過ぎない。いいかえれば、ネット上の祭り現象は、「伝達」の面こそエンパワーされているが、「現象」それ自体の本質は、なんらいままでの社会にとって特殊なものではない。荻上氏は『ウェブ炎上』の中で、「炎上」はとりたててネット社会に特有の問題ではないと指摘しているのですが、それはこうした比喩に基づいて理解することができるでしょう。

(24-2に続く)

フィードを登録する

前の記事

次の記事

濱野智史の「情報環境研究ノート」

プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。