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濱野智史の「情報環境研究ノート」

アーキテクチャ=情報環境、スタディ=研究。新進気鋭の若手研究者が、情報社会のエッジを読み解く。

第22回【同期性考察編(3)】なぜニコニコ動画の「時報」は強力なのか。それは「共通知識」を生むからである。

2007年11月29日

前回からの続きです。前回はニコニコ動画の「時報」をケースに取り上げながら、コミュニケーションの「同期性」がもたらす効果について見てきました。その前に余談を一つ。前回の記事をアップしたのはちょうど一週間前のことでしたが、今週からはいよいよ時報枠に初のスポンサーがつき、初音ミクのフィギュア発売に関する宣伝を報じたところ、二日経った時点で予約がすでに1万件に達したそうです。もちろん、同期性云々よりも、「初音ミク」という題材を扱っていたことが最大の成功要因ではあるにせよ、はからずも「時報」の強力さが示されたといえるのではないでしょうか。今回は、こうした「時報」の強力さについて、「テレビ」という古いメディアとの比較を行いつつ、考察を加えてみたいと思います。

■22-1. なぜテレビは強力な広告媒体なのか――マイケル・S‐Y・チウェ『儀式は何の役に立つか』を読む

そこで今回は、マイケル・S‐Y・チウェの『儀式は何の役に立つか』(安田雪訳、新曜社、2003年)という書籍を紐解きながら、「テレビ」という旧来メディアの特性について確認していきましょう(チウェの以下の議論については、2005年に書かれた水野誠氏による簡潔な紹介を参照することができますが(ITmedia Survey:インターネットはマスメディアになるのか?)、同記事後半のインターネット広告に関する解釈が筆者とは異なってくるため、ここでは筆者なりに改めて説明を試みます)。

チウェのこの著作は、その題名のとおり、「儀式」というものがいかなる社会的機能を果たしているのかについて、ゲーム理論と人文社会科学の知見を架橋しながら明らかにするというものです。ただし、「儀式」といっても、チウェが想定しているのは、いわゆる冠婚葬祭のような形式的な行事のことだけではありません。それらがとりわけ重要な役割を果たしていたのは、原始共同体の時代や未開の民族社会においてですが、チウェが現代社会の「儀式」の一例として挙げているのは、米国の国民的テレビ番組の一つ、「スーパーボウル」です。これは米国での例なので、仮に日本での例を挙げるならば、かつてであれば「巨人戦」、いまでもかろうじて「紅白歌合戦」、そして近年であれば「ワールドカップ(の日本代表戦)」などが相当するでしょう(「紅白歌合戦」ではCMは放映されませんが)。ちなみに、「スーパーボウル」で放送されたCMの中には、半ば「伝説」として広告の歴史に名を残しているものが少なくありません。たとえばIT関連ということでいえば、1984年に放送されたApple社のCMが、その象徴的な存在として知られています。昨年翻訳されてネット広告業界周辺で話題を集めた、『テレビCM崩壊』(Joseph Jaffe著、織田浩一訳、翔泳社、2006年)の中でも、テレビが栄華を誇っていた時代の象徴的事例として言及されていました。

さて、それではこうした「スーパーボウル」のような高視聴率番組が、なぜ歴史に記憶されるような広告を提供し、最も高価な広告枠として取引される(されてきた)のでしょうか? というと、「そんなの視聴率が高いんだから、当たり前じゃないか」と思われる方もいるかもしれません。確かに、高視聴率番組の広告枠の価値というのは、「認知率」や「リーチ率」が高い――その広告および広告の対象となっていた商財・サービス・ブランドの存在がより多くの人々に届く――といった形で、ほとんど自明なものとして理解されてきたからです。

しかし、チウェの考えでは、それだけではテレビという広告媒体の強力さを十分には説明できていません。というのも、チウェによれば、高視聴率番組のCMがある種の強力な「儀式」として機能しているのは、それが単に多くの人々に情報を伝達するからではなく、その情報に関する「共通知識 common knowledge」を生み出す点にあるからです。

それでは、「共通知識」とは何か。それは一言でいえば、ある社会的集団において、「誰もがその情報を知っている、ということを誰もが知っている、ということを誰もが……(以下無限に続く)」という状態のことで、要するにある種のメタ知識(知識に関する知識)のことです。これだと、一瞬何のことだかわかりにくいと思うので、例を挙げて説明しましょう:

あるとき、「スーパーボウル」の放送中に、まったく新しいブランドや製品を宣伝するCMが流れたとします。それは、世界の何千万人という人々が、そのCMを一斉に、かつ同時に見ているということを意味しているのですが、チウェの考えでは、「スーパーボウル」が強力なのは、「そのCMを見たのは自分一人だけではなく、アメリカにいる多くの人々もまたこのCMを見た」ということを瞬時に人々に周知させる点にあります。そしてこの周知効果の結果として、次の日に学校や職場でその新規なCMの内容について話題にしたとしても、「それ何のこと?」と誰からも理解されないということはおそらくないだろう、と人々は予期することができます。

これに対し、同じく何千万人の人々に、「テレビ」を通じてではなく、「DM(ダイレクトメール)」のような手段で、同じ内容の広告情報を送りつけたとしたら、どうなるでしょうか。そもそも、まったく新しい商品やブランドに関するDMだとすると、ほとんどの人は、それを読まずに捨ててしまう可能性が高いでしょう。しかも、まさかそれと同じDMが、何千万という人々に同時に送られているとは、DMを受け取った瞬間は思いもよらないでしょう。せめて誰かと会って、「実はこんなDMが来ててさ・・」という話が偶然上ったときに、初めて「あ、それ俺にも来てたな」「え? ほんと?」といったコミュニケーションを交わすことで、はじめてその友人との間に当該広告に関する「共通知識」が成立することになります。ただし、こうした会話が起きるということは、テレビCMの場合に比べれば、一般にその可能性は低いと考えられるでしょう。なぜなら、もし仮にそのDMが自分くらいにしか届いていないのだとすれば、そのことを友人との間で話題にしたとしても、「何のこと?」とあっさりスルーされてしまう可能性が高いと予想されるからです。

#ちなみに、ここでいうところの「共通知識」という言葉がイメージしにくければ、今年の流行語になったことで話題を集めた、「KY(空気読め-ない人)」というときの「空気」とほぼイコールとして読み替えて頂ければいいでしょう。なぜなら「空気」という(日本社会の特殊性を象徴するとされてきた)概念は、要するに、ある任意の集団において、(言語的な)コミュニケーションによって明示的に表出されてはいないけれども、実はその集団に参加している大部分の人々の内面の中では、すでに「共通知識」のごとく成立している、支配的な「評価」や「結論」や「価値観」といった一連の情報を指しているからです。つまり「空気を読む」ということは、そうした言外されてはいない暗黙的な「情報」を、あたかもすでに成立しているかのような「共通知識」として先取りする、ということを意味しています。

チウェの分析によれば、こうした高視聴率番組の広告が生み出す「共通知識」は、それこそ1984年にApple社が宣伝した「パーソナル・コンピュータ」のように、ある種の「社会的」な商品やサービスを普及させる際に重要な役割を果たします。ここでいわれる「社会的」とは、いわゆる「ネットワーク外部性」が働くということ、すなわち多くの人がその商品やサービスを使えば使うほど、その価値が高まる性質のことで、こうした性質を持つ財やサービスとして、たとえば「記録媒体」(古くは「VHS × ベータ」、いまなら「Blu-ray × HD-DVD」)や「家庭用ゲーム機」(Wii × PS3× Xbox 360)、ネットサービスであれば「SNS」などがあてはまります。これらの「プラットフォーム」とも総称される財やサービスにおいては、同じ規格を使っているユーザーが多ければ多いほど、そのプラットフォームの市場価値が高まり、そこからユーザーはさまざまな便益を受けることができます。それゆえ、こうしたネットワーク外部性の働く財やサービスを魅力あるものとして伝えるためには、それに関する「共通知識」を広く通有させるのが効果的である、というわけです。

また、「共通知識」と広告の関係を理解する上で分かりやすいのが、いわゆる「ブランド」なるものの性質でしょう。経営学者の石井淳蔵氏によれば、ブランドの価値は究極的には実体的な根拠は何もなく、ただブランドはそれ自体で価値を持つという「空虚」なもの、ということになるのですが(『ブランド』(岩波新書、1998年))、上のチウェの議論を応用すれば、それは「共通知識」の度合いの強さそのものとイコールである(*1)と捉えることができます。すなわち、ブランドの価値というのは、その製品の物体としての価値や性能や歴史的重みといったものとは直接的には関係がなく、ただその存在を「誰もが知っている」と予期できるという点に宿っている。逆にいえば、ある種のブランド的なものに対する社会的な認知や欲望を喚起するには、単に幅広くその商品の存在を人々に知らしめるだけでは不十分であり、その商品に関する「共通知識」を成立させる必要がある、ということです。

さて、以上のチウェの考察をメディア論的に捉え直してみると、――さきほど「テレビ」と「DM」を対比させことで、すでにお気づきの方も多いと思うのですが――DM(郵便)のような「非同期型」のコミュニケーション・メディアに比べて、テレビのような「同期型」のコミュニケーション・メディアのほうが、よりいっそう「共通知識」を生み出しやすい、と整理することができます。つまり、非同期型コミュニケーションにおいては、コミュニケーションの「いま・ここ」性が共有されないために、「誰もがその情報を受け取ったはずだ」というメタ知識が生成されにくい。これに対し、同期型コミュニケーションにおいては、「いま・ここ」性の共有によって、瞬時に「共通知識」を抱くことができる、というわけです(*2)。

非同期型よりも、同期型のコミュニケーション・メディアのほうが、「共通知識」を生みやすいということ。これはつまり、既存の非同期的なインターネット広告に比べて、同期的なニコニコ動画の「時報広告」のほうが、「共通知識」を生み出しやすいという仮説を示唆するものです。ただし、この仮説は論争的な議論の広がりを持っていますので、次回に稿を改めて論じたいと思います。

(次回に続く)

* * *

*1. また、この「共通知識」の成立している範囲と規模によって、そのブランドの性格や位置づけも変化する、ということがいえます。たとえば「コカコーラ」や「Nike」といった国際的なブランドであれば、それは世界の誰もが知っている――世界規模で「共通知識」が成立している――と予期できるということですし、逆に、音楽やファッションなどにおけるマイナーでマニアックなブランドであれば、それは「ほかの世間一般は知らないが、その世界に通じている人間であれば誰でも知っていて当然」という意味での限定的な「共通知識」が成立している、と。

*2. 非同期型よりも、同期型のコミュニケーション・メディアのほうが、「共通知識」を生みやすいということ。これは重要な点ですので、別の例でも説明を補足しておきました。詳細は筆者の個人サイトにアップしておきましたので、関心のある方はご覧ください。

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プロフィール

1980年生まれ。株式会社日本技芸リサーチャー。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。2006年までGLOCOM研究員として、「ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究」スタッフを勤める。