特異点、精神的麻薬、社会的余剰(後編)
2008年7月17日
(これまでの yomoyomoの「情報共有の未来」はこちら)
少し前からクレイ・シャーキー(Clay Shirky)の話題の新刊『Here Comes Everybody』を読んでいるところ、と書きたいのですが、シャーキーの文章がちょっとワタシにはひっかかりが多くてなかなか進みません。このままだと原書を読み終わる前に邦訳が出てしまうかもしれません。
シャーキーの新刊は Web 2.0 時代の集合知を前提とする組織、コミュニティ、そしてソーシャルソフトウェアを論じる本ですが、彼がサポートブログに書いた「ジン、テレビ、社会的余剰」を読み、特異点の話と似た危うさを感じました。
急激な生産性の向上とそれにより生じた余剰に人間が適合するのには時間がかかり、余剰がもたらす不安から逃れるため産業革命後のイギリスではジン、第二次世界大戦後のアメリカではシットコム(situation comedy)が浪費された、というシャーキーの指摘はなかなか奇抜です。
そして現在は、テレビなどに覆われてきた「思考の余剰」が組織化される初期段階にあるとシャーキーは Wikipedia などを挙げるのですが、そんな単純にテレビによる時間の浪費とソーシャルソフトウェア(Web 2.0 と置き換えてもよいでしょう)への参加の時間を対比できるのでしょうか。
テレビに費やす時間がジンを飲んだくれることと同等なら、スティーブン・ジョンソンが『ダメなものは、タメになる』で書いたような深化が起こるわけがない。確かに「あなたをターゲットとしているがあなたに参加させないようなメディアは、黙って見ている価値がない」というメディアに対する視点は進歩なのかもしれませんが、前回に挙げたドクトロウの文章にあった「精神的麻薬」という言葉がワタシの中で頭をもたげます。
我々はどこまでソーシャルソフトウェアに自律的に「参加」できているでしょう。SNS で知人とつながるだけに留まらず Twitter を絶えずチェックして時間を浪費し、Wikipedia を眺めるだけで調べものを済ませた気になり、YouTube でテレビ番組のおいしいところをつまみ食いするだけのネット生活が果たしてどれだけ有効な知的余剰の利用法と言えるのか・・・。
こう書くとアンドリュー・キーンみたいですし、シャーキーにしても無定見に現状を称揚しているわけではなく、「ソーシャルソフトウェアはたいていは失敗するのだ。こういった実験の多くはいい結果にならない」ときちんと認めています。
ワタシ自身はとても性格が暗く後ろ向きな人間ですが、Web 2.0 なんて言葉が生まれる前に Wiki やブログの書籍を翻訳した(大して売れませんでしたけど)者として、参加型でオープンなメディアの可能性を信じますし、それにより少しでも世界をより良い場所にできればと願います("Make the world a better place"ですね)。
しかし一方で、自分たちの願望を投影してウェブメディアを過大評価し、有意義に、自律的にそれを利用しているようなふりをしながら実際にはそれこそジンを飲んだくれるように、あるいは無為に詰まらないテレビ番組で時間を浪費するのと同じレベルでインターネットを「精神的麻薬」にしてはいないかとたまさか不安になるのも確かです。
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