鬼籍のマイミク
2008年4月30日
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以前、「mixiお迎え」というタイトルのショートショートを書きかけたことがあります。
話は、それを見たら死ぬと言われる「mixiお迎え」の噂を語り手が耳にするところから始まります。何でも、ある人が変死する前に「お迎えが来た」と mixi 日記に書き残したことがその言葉の由来らしい。
しかし、それだけでは「お迎え」が何か分かりませんし、mixi との関連も分かりませんので、語り手も新手の都市伝説だろうと鼻で笑います。そもそも語り手自身 mixi のユーザではあるものの、以前のように毎日 mixi に日記を書くようなことはなくなっていました。
それでもその話を聞いた晩、気になって久しぶりに mixi にログインし、かつての習慣から何気なく「足あと」ページにアクセスします。
久しぶりのログインなので足あとを見てもあまり意味がないはずですが、驚いたことに彼がログインしたまさにその時刻に立て続けに何人もの足あとがついています。訝しく思いながらその並びを見直して、語り手は「お迎え」が何かを悟ります。
語り手のページに足あとをつけていたマイミクは、全員既に故人だったのです——
* * * * *
元々この話は、山形浩生が10年以上前に書いた「メディアと怪談とインターネット」を久しぶりに再読したときに、思いついた話です。
そのとき公開しなかったのは、この怪談には致命的な穴があるからです。
この話では mixi の「足あと」機能が、単なる旧来のメディアのインターネットへの置き換えでないキーポイントになっていますが、それに恐怖を感じるには、そこに並ぶ故人の名前が一人二人ではダメで、最低でも片手に余るくらいでないといけません。
しかし、mixi ユーザの大多数にとって故人のマイミクは例外的な存在でしょう。例えば当方は現在マイミクは86人で、これよりもマイミクが多い人はいくらでもいますが、特に少ない数とも思いません。しかし、その中で故人なのはお一人だけです。
つまり、「mixiお迎え」は現時点では大多数の mixi ユーザにリアリティを感じてもらえない。10年後という設定にしたらどうだろうとも考えましたが、そうなると mixi が現在と同様に日本の SNS 界の雄である保証がありません。というか、ウェブ自体どうなってるか分かったものじゃなく、山形浩生の文章におけるネットスケープのような存在になっていても全然おかしくない——こうして諦めたわけです。
* * * * *
インターネットが若いメディアであった時代は終わり、それを一貫して使い続けてきたユーザ層も必然的に高齢化します。あまり考えたくはありませんが、インターネットを介して知り合えたかけがえのない人たちも皆いずれは死にます。そして残念ながら、ワタシ自身も。
山形浩生がかつて書いた「墓としてのWWW」も、前述のネットスケープのように細かい相違点はあれでも現実のものとなりつつあります。以前本連載で取り上げた itojun さんがそうですが、故人がネット空間に生き続けていると考えるのは、ある種の慰めともいえます。
亡くなった MySpace 会員のページをアーカイブする MyDeathSpace.com を知り、「故人を追悼するSNSサイトが流行」なる記事を読むと、ネットユーザも今後は死後に存在を残す SNS の選定も済ませなくてはならない時代になるのかなと思ったりします。
それは冗談にしても、これから日本でも本格化するであろう団塊の世代向けの SNS ビジネスに訃報伝送機能は欠かせないのでしょうし、遺族に渡す電子金庫あたりもそうした SNS の機能の一つに入りそうです。
個人的には、自分がウェブに書いてきた文章がどうなるのかが気になります。今のところ無料で利用可能なブログサービスであれば案外残ってくれるように思いますが、死蔵アカウントが増えれば、サービス運営側のお目こぼしも期待できなくなるでしょう。
一方で自分の土地のように勝手に思い込んでいた独自ドメイン(当方であれば yamdas.org)の存続のほうが危ういのに思い至り不安になります。死者専門サイトで故人を偲ぶのとは別に、在りし日と同じ URL を守るためのサービスも今後必要になってくるのではないでしょうか。
しかし……とここまできて、自身のサイト、文章にそこまでこだわる理由は何だろうとふと考えてしまいます。死んだ後もお前の駄文をありがたがって読んでくれる人がいると思ってんのかよ、と突っ込まれそうです。このあたりの意識は男女で差がありそうですが、ここではそれは深追いしないでおきます。
そして、最後に一つ本筋とは離れますが Caring.com という老人ケア専門のコミュニティサイトを取り上げて、読者の方々に冷や水をかけさせてもらいます。
自分の死後がどうこうと気に病む前に、(ワタシを含む)多くの人にとって親の老後、介護という目を背けられない問題があるはずです。こうした派手さを持ちようがないネットサービスが600万ドルの資金調達を完了したところにアメリカのベンチャービジネスにおける懐の深さを感じます。
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