超低消費電力を実現できるか? 「板バネ」ナノマシンコンピュータ(3)
2011年3月24日
現在のトランジスタより、電力消費を数桁減らせるかもしれない
──ナノサイズの板バネはどれくらいのサイズなんでしょう? また、どんな材質でできているのでしょうか?
板バネの幅は85マイクロメートルで、人間の髪の毛程度。厚みは1.4マイクロメートルです。実用的な素子にするためには、もっと微細化する必要がありますが。
材質は現在のところ、アルミ・ガリウムヒ素です。なお、先ほど機械式ナノマシンコンピュータの利点の1つとして耐環境性の高さを上げましたが、アルミ・ガリウムヒ素でできた素子の耐熱性はそれほど高くなく、従来型トランジスタと同程度です。
──バネの振動と聞くと、耐久性は大丈夫なのか心配になります。
機械構造は耐久性がよくないと、みなさん思われるようですね(笑)。しかし、板バネといっても飛び込み板のように大きく揺れているわけではないんですよ。
板バネの厚みは1.4マイクロメートルですが、揺れ幅は10ナノメートル程度です。これは原子、数十個分程度の大きさでしかありません。顕微鏡で観察したとしても、まったく揺れているとはわからないでしょう。何ヶ月も耐久試験をしたわけではないので正確なところはまだわかりませんが、板バネの耐久性に関しては技術的にクリアするのは難しくないと考えています。現在多くのプロジェクターに同様なマイクロマシン技術が使われていますが、構造の動く幅がマイクロメータとずっと大きいにも関わらず、耐久性に関してまったく問題は見られないですよね。
──ナノマシンコンピュータの特徴はエネルギー消費が少ないということですが、現在のコンピュータに比べてどれくらい減らせるのでしょう?
板バネ1つは、だいたい0.1ピコワット(10兆分の1ワット)で振動を維持することができます。現在のコンピュータのCPUにはだいたい数億個のトランジスタが使われていますが、仮に板バネ素子を1億個並べても10のマイナス5乗ワット(10マイクロワット)しか電力を消費しません。現在のCPUの消費電力は数十ワットにもなりますから、ずいぶんと少ない値です。
ただし、今述べたのは、あくまで板バネの振動を維持するだけの消費電力です。現在のCPUも消費電力の多くは、素子間の漏れ電流(リーク電流)などの他の要因が占めていますから、板バネ素子でコンピュータを作った場合に、実際どれくらいの消費電力になるのかはまだわかりません。ただ、潜在的には大きな省エネルギーをもたらす可能性があるため、我々は研究を進めているわけです。
──これまで複数のトランジスタで構成されていた論理回路が1つの素子でできるなら、素子の数も大幅に減らせそうですね。
そうですね。最終的には、1秒間にどれだけの演算ができるのか、そして演算あたりの消費電力はどれくらいか、この両方から性能を評価することになるでしょう。今のところ、機械式ナノマシンコンピュータの問題点は速度で、振動の周波数は1GHz程度が上限なんです。これに対して、現在のCPUは2GHzや3GHzにもなっています。
ただし、周波数をトランジスタ並みに上げられないとしても、1つの素子で100個、1000個分のトランジスタと同じ働きができるなら、並列演算で速度を稼げるかもしれません。
「0」「1」を超えた新たなソフトウェアの世界が広がる?
──板バネ素子での演算結果は、複数の周波数で表現されるわけですよね。その演算結果は、他の回路にどうやってつないでいくんでしょう?
外部とのインターフェイスを持たないといけないでしょう。特定の周波数だけ通すフィルタを使うことで、「0」「1」に変換できます。
──板バネ素子の演算結果はたんなる結果ではなくて、演算の内容自体がすべて保存されているわけですよね。これは「0」と「1」による2進法を超えたもののように思うのですが。
それは面白い指摘ですね。1つの素子の中でいくつもの情報を同時に保存しているわけですから、もしかしたら「多値論理」の考え方に近いかもしれません。現在のトランジスタでも多値論理を扱おうという試みがあります。この視点からも検討してみると面白そうですね。
──現在のプログラミングは「0」と「1」で演算することを前提としています。板バネ素子では、そうしたレベルから違ったものになってくることもありえるのでしょうか?
ありえます。例えば、どういう論理演算を行うかは、どういう周波数の振動を選ぶかで決まります。こうした周波数の選択も含めた新しいアーキテクチャーの考え方が必要になるでしょう。まったく違う世界が広がるかもしれません。
レーザーの多重化がヒントになった!
──コンピュータの素子に真空管が使われていた頃は、トランジスタは不安定で使い物にならないと考えられていました。ナノマシンコンピュータもそういう黎明期だということなんですね。
今のように、トランジスタがすごい発展を遂げるとは誰も予想できませんでした。簡単ではないでしょうが、そういうまったく新しい素子の可能性を探っていきたいと思っています。
──真空管からトランジスタへの移行期の1950年代には、後藤英一博士が日本独自のパラメトロン素子を発明しています。パラメトロンでは振動によって0か1を記憶しますが、今回の研究はパラメトロンと関係があるのでしょうか?
振動によって情報を記録するという点については、パラメトロンと共通点があります。実際に、我々も3年ほど前にナノマシンでパラメトロンを作るというアイデアを提案しました。しかし、パラメトロンでは素子間で情報を受け渡すために、すべての振動周波数を一致させなければならず、これを何億個という板バネ素子で行うのは簡単ではありません。振動の有無で0と1を表現する点で、板バネ素子とパラメトロンには共通点もありますが、新しい周波数を作り出して論理演算を行うアイデアは我々のオリジナルです。
──既存のトランジスタとはまったく異なる、とてもユニークなアイデアですね。いったいどういうところから着想を得たのでしょうか?
研究がスタートしたのは2001年ですが、その時点ではコンピュータを作ろうとは考えておらず、量子力学の学術的研究でした。量子力学では、1つの粒子にさまざまな状態が重なり合った状態で存在すると考えます。では、人間のように膨大な数の粒子で構成される存在でも、複数の状態が重なり合って存在すると言うことはありえるのか? これに対する有名な思考実験として「シュレディンガーの猫」が知られています。
私たちが研究しようとしていたのは、1つの粒子と人間の中間的なレベル、つまり数億個から数兆程度の原子で構成されている物体でも、このような重ね合わせ状態が成り立つかどうか調べることでした。この研究のために素子を作っている時に、コンピュータに応用できないかと提案したのが板バネ素子の始まりです。もっとも、板バネ素子で複数の周波数の振動が混ざり合っている状態というのは、あくまで古典力学的な状態で、量子力学的な重ね合わせ状態とは異なりますが。
複数の周波数を混ぜ合わせるというアイデアは、レーザー通信で使われる「WDM」(Wavelength Division Multiplex:波長分割多重通信)という技術からヒントを得ました。WDMというのは、いってみれば1本のファイバーの中にさまざまな色の光を通して多重化する技術で、1本のファイバーで10本、100本のファイバーと同じデータ量を流せます。光の振動の代わりに機械的な振動を多重化できないかと考えたことが、今回の研究につながっています。
センサーネットワークや高温環境への応用に期待
──研究のロードマップはいかがでしょう?
1つの素子でどんな論理回路も作れるのかを検討する基礎的な研究を、2〜3年で行おうと考えています。そこで行けそうだと判断したら、5〜10年程度で実用化研究の段階にまで持っていくことになるでしょう。
──物質・材料研究機構(NIMS)と大阪大学、東京大学の研究チームは、従来の100万分の1の消費電力で演算も記憶も行うことが可能な「アトムトランジスタ」を発表しました。また、日立製作所など日米英チェコの共同チームは電流を流さなくても情報を処理できる新原理のトランジスタを試作したそうです。この連載でも、電力消費なしで情報を鉄のナノ粒子に記録する千葉大学 山田豊和博士の研究について紹介しています。近年、従来のトランジスタとはまったく異なる方式を用いて情報の演算や記録を行う研究が盛んになっている印象を受けます。
半導体の世界ではこれまでずっと「ムーアの法則」(*3)が成り立っていましたが、あと10年もすればトランジスタも微細化の限界に達すると考えられるようになってきました。「More Moore」、「More than Moore」、あるいは「Beyond CMOS」というフレーズの元に、新しい半導体素子の研究が進んでいます。ここ10年くらい、半導体関係のどの学会でもこれらのテーマに大変な注目が集まっていますね。
世界の情報量は爆発的な勢いで急増しており、NTT自身もサーバーやルーターなどで大変な量のエネルギーを消費しています。太陽光発電などエネルギーを作る分野だけでなく、コンピュータなどエネルギーを使う方でも研究を進めていかなければなりません。
──苦しくなると、みんな知恵を絞るようになりますね。
そうですね(笑)。これまでの技術は、より速い、より大きいという方向に向かっていましたが、違う方向へと向かわなければならない時期に来ています。今までと違う視点から、まったく異なる発想が生まれてくる可能性があります。
──機械式のナノマシンコンピュータが実用化できたら、どのような使われ方をするのでしょう?
私も専門分野ではないため想像になりますが、センサーネットワーク(参考記事)の分野は有望そうです。環境からエネルギーを取り入れて自立的に動作し、演算結果を送信する低消費電力の素子ができるかもしれません。また、エンジンの近くなど、高温環境で動作するコンピュータもできそうです。
ナノマシンコンピュータが実用化できたとして、最初のうちは限定的な分野で使われ始めることになるでしょう。いったん使われるようになったら、急速に普及が進んで現在のトランジスタを置き換えることも、ひょっとしたらありえるかもしれませんね。
*3:インテル社の協同創業者、ゴードン・ムーアが述べたコンピュータに関する経験則で、「集積回路上のトランジスタ数は18ヶ月ごとに倍になる」というもの。現在のところ、CPUやメモリなど半導体製品の進歩は、概ねムーアの法則に従っている。
研究者プロフィール
山口 浩司(やまぐち ひろし)
1961年大阪生まれ。1986年に大阪大学大学院理学研究科修士課程を修了。同年日本電信電話株式会社に入社。以来、半導体素子に関する基礎研究を行っている。平成5年博士号取得。平成7〜8年英国ロンドン大学インペリアルカレッジ客員研究員。平成18年より東北大学理学部客員教授。現在、量子電子物性研究部長とナノ加工研究グループリーダーを兼務しながら、特別研究員として研究の最前線にも携わっている。
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