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白田秀彰の「現実デバッグ」

社会システムのコーディングし直しを考えてみる。

No. 19 教育制度批判 その2

2008年3月26日

(これまでの 白田秀彰の「現実デバッグ」はこちら。

その(前回)一方で、私が「戦前の教育制度の方がマシだった」というと、どんな寛容な人でも少し眉を顰めて、「なぜですか?」と私に問い掛ける。よほど戦前の教育制度は、「悪の制度」として私達に教育されてきたに違いない。私もそう思ってた。「戦前の教育は、人間性を抑圧して天皇のために死ぬ軍人を作るための悪の教育だった」とね。

でも、ちょっと考えてほしい。鎖国して海外のことを何も知らず、「ゴザルゴザル」とか言ってた日本人は、たかが50年かそこらで西欧列強国に手が届くところまで学問的にも産業的にも成長したんだよね。これって大成功なんじゃないですか?その理由はなに?「戦前の教育制度は、悪の制度」と教えてくれたのは誰? 今の教育制度に依拠して生活している人たちでしょ?

そこで、こんなことを考えてみよう。明治政府が「徳川幕府も約300年間の平和と循環型自立経済を構築した点で、優れた統治を行っていた」と言うことがあり得ると思う? 自分達が武力で滅ぼしたのに。 私の知る限り、あらゆる現体制は、直前の旧体制を批判否定することで、現体制の正当化を行う。そうであるなら「戦前の教育制度は、悪の制度」という臆見を、疑う程度のことはしてもよいだろう。

さて、私が戦前の教育制度を現在のそれよりも評価している理由は、二つある。直接的には、私の祖父母が──印象的にはその世代が一般的に、「ちゃんとした大人だった」ことにあった。この「ちゃんとした大人」とは何だ、と問い詰められると話が進まなくなるので、まあここはスルーしていただきたい。ただ、この「ちゃんとした」感の理由の一つには、良い意味でも悪い意味でも「公式な世界観」が、彼らの行動規範を強く規定していることにあったように思う。

そして、間接的には、ある論説を執筆したことから強化された。私は、今年の正月あたりに「共和制は可能か?」という論説を、東浩紀さんたちがNHK出版から刊行する予定の『思想地図』という本に掲載するため執筆していた。それは、「情報時代における民主的かつ共和的秩序をどのように達成し得るのか」といった話を、いわゆる共和制論の古典をざらーっとなぞることで考えてみました、というような内容の論説だった。ほんとうにざらーっとした論説なので、あまり真面目にツッ込まないようにね。

で、そこで、共和制についての古今西洋の古典的名著を読みかえしてみれば、みんな口をそろえて、「祖国愛」「自己犠牲」「法律の尊重」「公共の利益の優先」「平等主義」というような価値を、共和国の国民に教育すべきである! むしろ、そういう「徳」がなければ共和国は成立し得ない! と力強く断言している。そりゃ、そうだ。ある共同体が、その共同体に新しく参加してくる人間に何を教育するか、と普通に考えれば、その共同体を維持・強化する方向に教育するのは当然だ。

A共同体 「新入りの諸君! 君たちは共同体に貢献するためにここにいる! 共同体の利益を考え、共同体の利益のために命をも惜しむな! 諸君らの貢献の名誉と栄光は共同体が続く限り永遠なのだ!」

B共同体 「新入りの諸君! 君たちが入った共同体はクソだ! 共同体からあらゆる利益を引き出し奪い取るんだ! 自分の利益だけを考えろ! どうせこの共同体なんか、アッという間に別の共同体に乗っ取られるさ!」

という二つの共同体があったとき、どちらがよりしぶとく永続するか、考えるまでもない。というか、B共同体は、明日にでも崩壊するんじゃないだろうか。それゆえ、私はある共同体が、その共同体の「物語」を構成員に教育し、共同体への貢献を教育することは、あたりまえだと思う。先に掲げた共和制を維持するために必須の徳が、天賦自然に我々に備わっているとは思えない。だからこそ、人為的に設定していくほかないと考える。

キリスト教会が、聖書を教育し、キリスト教共同体への貢献を説くのは当然で、仏教寺院が、仏典を教育し、檀家共同体への貢献を説くのはあたりまえだ。ならば、国家が我々の共同体であるなら、その国家を成立させている「物語」を教育し、国家への貢献を教育することに何の不都合があるのだろうか。すくなくとも、国家が行う義務教育は、当然にそのような内容をもって行われるべきではないだろうか。もちろん、日本国が民主的な共和国家でないのなら、上記の徳を教育する必要性はないかもしれない。(このあたりの議論は「共和制は可能か?」を読んでいただきたい。)

そういう意味で、「共和制は可能か?」にも書いたように、戦前と戦後の我が国の公教育を比較してみたとき、目標が明確であったことと、その目標の達成度から判断して、戦前のほうが公教育として成功していたと考えている。もちろん、そうして作りあげられた国民の「徳」と「誠心」を軍事的侵略へと誘導利用した人たちは、いくら批判してもし足りない。──と思うが、実は軍事的侵略へと誘導した人たちもまた、主観的には「国家のため」と思っていたらしいところが、また悲劇だ──とか、いろいろ考えていたら、要するに日本国全体に過剰に気合が入ってたことが問題だったんだろうか、とも思った。すると現在の「気合」の抜けた国民のありさまというのは、平和国家という観点からして「達成された目標」なのだろうか ──うーん。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書にHotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』などがある。MIAU発起人。HPは、こちら

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