No. 23 教育制度批判 その6
2008年4月23日
(これまでの 白田秀彰の「現実デバッグ」はこちら。)
ようやく、現在の教育制度を著しく歪めている大学入試制度について語る。私は、入試廃止論者だ。私は、大学の教員をやっているから、入試問題を作らされたりするが、よくもまあ、こんなに瑣末でどうでもいい内容について試験をするものだと、とても不本意な気持ちで一杯になり、私自身としてはこんなことを受験生にたづねるよりも、もっと本質的なことをたづねたいのだがと思いつつ、なんとも仕方がなく制度に従属している。受験生のみなさん、試験問題ってくだらないでしょ? 先生たちもそう思いながら、仕方なく問題を作っているんですよ。── といっても、今の受験生は、受験制度がくだらないという視点自体を持ってないんだろうなぁ。「それが全てだ」と10年以上にわたって教えられて、信じ込まないと、試験会場までたどり着けなかっただろうし。
では、どうするのかといえば、機関としての大学は、学位授与試験のみ行えばよい、と私は考えている。大学は全入だ。どこでも好きな大学に行けばよい。講義も勝手に受ければよい。教室が一杯になるほどの人気講義は、有料のチケット制にするのもいい。学生に貢献し有意義な講義にすべく、教授達も講義内容に工夫するようになるだろう。でもたぶん、たいていの教室はガラガラになることを請合うが。で、自分が、たとえば学士の資格を得るに相応しい能力を身につけた、と思ったら、好きな大学の好きな学部の学位授与試験を受験すればいい。
学位授与試験は、大学の都合で好きなときにやればいい。ただし、学位授与試験の受験料は、現在の大学四年間の学費に匹敵する高額な試験だから、絶対に合格するという確信をもたない限り受験しないほうがいい。大学の収入は、基本的にこの学位授与試験の受験料で賄う。人気のある大学教授は、大学給与に加えて講義チケット販売から収入をえる。図書館や寄宿舎のような付属施設については、それぞれ年間使用料等を課せばよい。
履修過程が重要な学問分野であれば、それぞれの講義毎に有料の単位認定試験を行い、指定された科目単位がそろわない限り学位授与試験を受験できない、という仕組みでもよいだろう。もちろん、それぞれの単位は、別々の大学の講義でも良いものとすればいい。どの大学のどの先生の講義で単位を取ったのかが問題とされるほうが、その学生にとってより単位の意味が本質的になるだろう。
学位授与試験の内容は、それぞれの大学が好きなものにすればいい。ただし、試験問題は公開しなければならないし、それぞれの学生の採点結果も公開しなければならない。学位は公的な資格なのだから。ある大学では、ディプロマ・ミル (学位販売業) よろしく極めて簡単に学位を出すだろう。しかし、そんな学位に意味があるだろうか。マトモな大学であれば、学士に相応しい試験内容を課し、大学の名誉と威信にかけて学士に相応しい答案を書ける人間にしか学位を出さないだろう。また、その大学の学位が実社会において尊重されないようなものなら、誰も学位授与試験を受けないだろうから、その大学は財政的に破綻して消えてなくなるだろう。特定の子弟に、金と引き換えに学位を出すような大学は、社会的批判と嘲りを受けるだろう。
フィードを登録する |
---|
白田秀彰の「現実デバッグ」
過去の記事
- 最終回 暇申 その22008年5月 7日
- No. 24 教育制度批判 その72008年4月30日
- No. 23 教育制度批判 その62008年4月23日
- No. 22 教育制度批判 その52008年4月16日
- No. 21 教育制度批判 その42008年4月 9日