No. 18 教育制度批判 その1
2008年3月19日
(これまでの 白田秀彰の「現実デバッグ」はこちら。)
さて、一連の「アナキズム批判」でアジったところ、二、三人の方から、「いやいや先生。絶望しないで。私達はちゃんと読んでますよ(要旨)」というメールを頂いた。ありがとうございます。まだ江坂さんから「そろそろ...止(ry」という話を頂いていないので、もうすこしがんばってみます。
さて、学習指導要領の改訂なども話題となって、教育制度に関する議論が盛り上がりそうだ。別にそこに便乗しようというわけではないが、これまでの連載の流れから、教育制度について考えてみたい。もちろん、私は教育学の専門家ではないので、かなりバカなことを書くが、バカがバカなりに誠心誠意心配して考えた上での発言だと理解していただきたい。
これまで、私の書いた文書をマメに読んでくれている人は、気がついていると思うが、私は現在の教育制度を全面否定している。自分が大学の先生でありながら、さらに文部科学省からお金を頂くことになってる立場でありながら、さらにいえば父親が元教員でありながら、私は、現在の教育制度が「害多くして益少なし。いったん学校教育を止めることが現在の不条理から子供達を救い出す方法である」と考えている。うわあ、こんなことを書いたら、文部科学省からお金をもらえないだけではなく、公立学校の先生たちからも指弾されそうだなぁ。こまったこまった。
そこまで私が思いつめる理由は、接する大学生たちの無気力ぶりと無知ぶりを日々実感しているからだ。もちろん、彼ら個々人の努力や能力の不足を批判しているのではない。なかには、「よくこんな酷い教育環境のなかで、よくマトモに成長してきたねぇ。がんばったねぇ。」と労いたくなるような学生もいる。しかし、ある世代が、全体としてそのような困った状況になっているのであれば、それは個々人の責任ではなくて、制度の責任だ。そして、そうした自分達の世代の状況を「フツーでしょ、フツー。」「オレたちってバカっすから♪ キャハハハハ!」と思っている彼らは、制度の被害者だと私は思っている。人間にとって、無知であることに気がつかない以上の悲劇があるだろうか。
私の印象では、小学校高学年あたりから中学一年生くらいまでの子供達が一番マトモであり、その後は、学校制度の中でどんどん破壊されているようにしか見えない。可能であれば、小学校卒業程度の「素直な勢い」のある子供たちに、私が直接に法学や政治学の古典作品からぼちぼちと教育してみたいといつも思う。本来、私立学校とは、そういうことをするための機関であったはずなんだが、たぶんそういうことは今はできないんだよね。
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白田秀彰の「現実デバッグ」
過去の記事
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