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白田秀彰の「現実デバッグ」

社会システムのコーディングし直しを考えてみる。

No. 20 教育制度批判 その3

2008年4月 2日

(これまでの 白田秀彰の「現実デバッグ」はこちら。

戦前までは、天皇に象徴されていた「公」に奉仕する、戦争遂行能力──すなわち知力体力の総合力において可能な限り優れた国民を養成していれば良かった。ここで付言しておけば、「国家」が戦争遂行組織として編成され成長した面をもつという歴史的事実を背景に、国家の視点からみて戦争は悪ではなかった。第一次世界対戦以前において、戦争は、国家(国民)の総合能力を試す事業としてさえ見られていた。──それぞれの子供達の「思い」とか「個性」は、養成目標でもなければ評価項目でもなかった。「国家共同体に貢献するか否か」という観点からのみ義務教育は行われれば良かったのだ。目的が単純で評価軸がはっきりしていれば、教育の手法も明確になり、指導にもブレがなくなり、子供達も思い悩んだり疑問を持ったりすることなく、たぶん効果的に教育(洗脳)が可能になるのだろう。

もちろん、「国家共同体に貢献する」という目的の外にある、例えば、個性の伸長や、職業的成功や、学問的成功や、真理の探究といった個人的目標については、義務教育外の領域において、高等教育において、それぞれ勝手にやってもらえればよかったわけだ。とくに、一人一人の子供の「個性を伸ばす」ためには、かつての貴族や上流家庭がやっていたように、家庭教師をお抱えで雇って、いわばオーダーメイドで教育をする必要があると、私は考える。── そうでなければ、家庭の父母のいずれかが、実質的に家庭教師の役割を果たさなければならない。30人以上の子供達に同時に対応しなければならない学校教師に、一人一人の個性を伸ばすことを期待するのは、不可能の要求だ。

ある人物(児童)の人格や個性を正確に把握し、それを社会的に望ましいとする方向へ誘導助長する任務を考えるとき、そして私達自身が、身近な人物の人格や個性を完全には把握できていないこと、さらには自分自身の人格や個性についても正確に理解できないでいることを考え合わせるならば、「他人の個性を伸ばす」などという超能力にも似た高度な特殊技能を備えた専門家が、そんなにゴロゴロいるはずがない。また、そんな高度な特殊技能を備えた専門家の個別サービスを、年間数十万円程度で享受できると考える方がどうかしている。お腹の贅肉を取り除くエステティックサービスの年間チケットですら、それよりも高額だ。学校教育でできることなど、極めて限定された領域での人間の規格化・画一化に決まっているではないか。

戦前の教育制度において、基礎的教育が終われば、成長目標が多様であったということは、現在の社会よりも「人間」の評価軸が複線的で多様だったとも言える。今みたいに、誰も彼もが総合大学に進学し、しかも高校教科書をネタにしたクイズを解く能力を指標化した「偏差値」で大学が序列化されていて、学歴が人間の全人格的な尺度みたいに扱われるよりも、はるかに人間的な仕組みのように、私には思える。

国民の義務教育として、国民としての基本的な部分の教育(洗脳)が横並びで与えられる。そうしないと、共同体が維持できなくなるから。この段階では、ある意味「美しいフィクション」の教育(設定)が許される。初等教育の目的は、共同体に貢献する人間作りなのだから。一方、その人がそれぞれの能力や個性に応じて、家業を継ぐのか、実業家となるのか、学者になるのか、スポーツ選手になるのか、は、それぞれ並行的な軸でそれぞれが選択すればいい。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書にHotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』などがある。MIAU発起人。HPは、こちら

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