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白田秀彰の「現実デバッグ」

社会システムのコーディングし直しを考えてみる。

No. 16 教育制度批判 その前に

2008年3月 5日

(これまでの 白田秀彰の「現実デバッグ」はこちら。

前回までの一連の「アナキズム批判」。私の身近にいる学生さんや若い人たちの「諦めっぷり」に心底心配になって、つい書いてしまったジジイの繰言に過ぎなかったのだが、どうしたわけか、これまでの7.5倍程度のアクセスを集めてしまったようだ。大学の先生としての繁忙期である、1月半ばから2月半ばの穴埋め記事という要素もあったのだが、わからないものだ。やっぱり、構築的に連載を構成していくよりも、私の妄想暴走脳がおもむくままに書いたほうが、読者の皆さまに面白がっていただけるのかもしれない、と反省してみたりしました。

さて、No. 11の「法律解釈者」の次に教育問題について書くつもりだったので、ここから教育制度について書く。というか、すでに書いてロージナ茶会のMLには回してあるんだけど。ところが、これが実に危険極まりない内容になっていて、たぶん読者の皆さまのみならず世間さまからフルボッコにされそうな内容なのだ。基本的に、私のものの考え方に共鳴してくれているだろう茶会員のなかからも、かなり批判が寄せられた内容なんだ。数万円の原稿料と引き換えに、自分の人生を差し出すかどうかの選択を迫られている感じ。「教育制度批判」が非公開・お蔵入りになっても、私のヘタレ具合を哀れんでください。まだ返済しなければいけないローンが30年くらいあるんです(泣。

そこで、これから「教育制度批判」を展開していくかどうか決断する前に、批判が寄せられて、私が釈明したい点について書いておこうと思う。タイトルがなんだか小林製薬の商品名のようだね。

1. 公民教育やってたよ。

「教育制度批判」で、私は民主共和制を体制として採用するのであれば、公民教育が必須であると述べる一方、現実の教育現場では、公民教育がほとんどなされていない、と批判しているんだけど、あくまでも私の個人的経験に限定されている。もしかすると、皆さんの学校では、「祖国愛」「自己犠牲」「法律の尊重」「公共の利益の優先」「平等主義」などをしっかりと叩き込まれたかもしれない。で、そういう小中学校があるのなら、ぜひ紹介してくださいませ。そういう学校がたくさんあるのなら、私の記述は変更しなければならない。

2. ペーパーテストは平等公平だよ。

私は、「教育制度批判」のなかで、「受験に対応した学校教育はクイズに過ぎず、くだらないので止めて良し!」と断言している。私はそう信じているから。無意味なクイズ教育で破壊された子供達の将来と可能性を思うと、私は心が痛み吐き気がしてくるほどだ。その社会的損失を考えるなら、いち早く学校教育を停止したほうがマシであるとすら思っている。

ところが、茶会員からの批判としては「クイズ的とは言っても、ペーパーテストは平等公平な評価軸だ」というものだった。私も良くそういわれたよ。「実社会は差別と矛盾と不平等だらけだ、学校がやってるペーパーテストは、この世で最も公平な評価軸だ」とね。

でも、私はちっともそう思わない。おそらく、「ペーパーテストが公平だ」という思い込みこそ、学校教育のなかで我々に設定された洗脳だと思う。現在の学校教育制度では、ペーパーテスト向けの知識を伝達することにしか対応できていない。すると、学校教育制度を擁護したいと思う人たちは、学校教育制度が対応し得る評価軸である「ペーパーテストこそが最も優れた評価軸だ」と主張しつづけるしかない。もし、他の評価軸で人間の価値が測られるようになったら、学校という機構の価値は低下するか、あるいは無に帰すだろう。みんな気がついているでしょ? 学校での勉強の出来と、人生の幸福がまったく無関係であることくらい。むしろ、最近の学校は、人間を不幸にする制度になっていると私は思っている。

まず、言語で問題を書かれた紙を前に、言語を用いて筆記具で想定された正しい答えを記入する、あるいはマークする、という手法が、そうした種類の作業を得意としない人にとっては不利だ。またそれは、「想定された正しい答え」が正しいか否かを疑う、高い知性と哲学的素養を持つ人にとっても不利な作業だ。ペーパーテストで設定し得ない問題の解決能力が優れている人には、その能力を発揮したり反映したりする機会すらないではないか。どうしてこれが「平等かつ公平だ」と、高度な知性と多角的な視野をもつ茶会員ですら思い込んでいるのか。その「思い込み」が私は恐ろしくて仕方がない。

ペーパーテストが公平なのは、ペーパーテストで測られる能力が、そのテストの成功によって実現される状態を判断するにあたって、唯一の評価軸だと考えることを前提として成立する。それゆえに、現在のところのペーパーテストによるクイズ教育の終局点である大学においては、ペーパーテストの能力に特化したため、その他の能力を鈍磨させてしまったような学生ばかりではないか。我々が民主共和制を維持するために必須の能力の涵養はどうなっているのだろうと、私は危ぶんでいるのだ。このあたりの問題意識は、前回までの「アナキズム批判」とつながる。

私は人間の能力は、それぞれ多様であるべきだと思う。一方、我々が民主共和制を政治体制として選択している限りにおいて、その民主共和制を維持するための最低限の教育すなわち公民教育(洗脳・設定)を国民の義務とすることは必須だと考えている。しかし、その公民教育の達成度をもって、個人の全体的な能力や人格を判断することは、否定されなければならないとも考えている。それゆえ私は、「学校での成績なんて、世渡りになんの価値もない」という、昔の一般庶民の感性は、今のように「学歴が人間の全て」「収入が人間の価値」と信じ込んでいる状態よりも、健全なのではないかとすら思う。

社会的な圧力として、「大学全入」などというようなことが言われている。もちろん、それは経営の危機に瀕しつつある大学の願いなのだろうと思う。しかし、全ての人間について、ペーパーテストで測られうる能力を伸長させてどうするつもりか。この国の将来は、この国の運命は、クイズへの応答能力によって保障されるのか? この記事を書いていて、ふと『国民クイズ』という奇妙なマンガのことを思い出した。

私は、全ての事柄について平等公平を達成し得ないと思う。だからこそ、少なくとも法律や制度の面においては「平等」であるように努力しているのでしょ? 自ずから達成される事柄だったら、誰も何も言わないはず。「スパゲティを食べるときは口で!」「鼻から食べちゃダメだ!」ということを主張する思想家には価値がない。あたりまえだから。ということは、平等が叫ばれ続けるこの世は、平等でないことが明らかではないか。

人間の平等と公平は、可能な限り人間の評価軸が多様化し、相互比較が極めて困難になることによって、初めて達成されると考える。人間の幸福のあり方が多様化し、それぞれがそれぞれの目標を、それぞれ達成するよう努力することが、多くの人間が共に生きるこの世を修羅の世から解放する唯一の道だろうと考える。私には、現在の学校教育制度が、私たちの人生の評価軸を極めて限定していく作用しかしていないように思われてならないのだ。だから、私は現在の学校制度を批判している。 まして、「同じ年代の全ての子供たちを同一のテストで一斉に評価するから平等だ公平だ」などというような入試制度を疑わない知的怠慢を批判する。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書にHotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』などがある。MIAU発起人。HPは、こちら

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