No. 15 アナキズム批判 その4
2008年2月27日
(これまでの 白田秀彰の「現実デバッグ」はこちら。)
さらにね、とくに頭のいい学生さんたち、おとなしくて心優しい人たちに言っておくよ。政府が存在し、法や制度によって国家が運営されているということ自体が、皆さんにとって決定的に有利な状況なんだということを。
政府は、その国における唯一かつ最大の暴力の保持者だ。その暴力は、法に従ってのみ発動することになっている。法は、知性と理性によって運営されることになっている。この仕組みだけでも、体力の面において不利な事が多い、頭のいい人たちや、おとなしい人たちにとって、政府の存在が有利に作用していることがわからないかな。皆さんが政府による統治をうとましく思う以上に、暴力で自らの自由・生命・財産を維持できるタイプの人たちは、もっともっと政府をうとましく思っているはずなんだ。
もし、法に従って作動する政府がなくなったら、体力や筋力に富み、暴力を好む種類の人たちが皆さんを力で支配するようになるよ。皆さんの身近にもそういう種類の人たちがいるでしょ? 皆さんは、その人たちが皆さんの自由・生命・財産を奪おうとするときに対抗できるの?
── と、まあこのように問い詰めていくと、大体の若い人たちも「なんか少しは政府について考えないとマズい」と思うようになるみたいだ。
で、ここまで書いてきて、「白田はずいぶんと国家主義者だな」と思った人も多いだろうと思う。でもね、法や法律や制度について、自分の人生を掛けて取り組もうとする人たちが、政府の重要性について無頓着であるのは奇妙だと私は思う。加えて、「国家主義」という言葉が数十年ほど前に、「国民(民族)国家=政府による絶対主義」として用いられたことを踏まえて、あまり「国家主義」という言葉は、私の立場に適当でないと弁解しておきたい。
私は、「価値観あるいは目標を共有する共同体が、自己統治する目的のために設立する政府」主義者だ。だから、別に日本民族にこだわっているわけではない。重要なことは、その政府が「我々」と呼びうる自己を含む共同体の支配下にあることだ。私が見る限り、ほとんどの政治的な主張は「政府がいかに人民を統治するか」という視点に立っているけど、本当に考えなければいけないことは「我々がいかに政府を支配するか」という視点ではないかと私は思っている。
で、いまのところ「日本国」という枠組みの我ら共同体は、そうした形態の統治を行うことになっている。それが法であり制度であるなら、私を含む筋力や暴力において自信のない人たちは、当然のように、その法や制度の枠内で、自分たちが望む政府を設立すべく努力することが最善であるハズなのだ。
そして、正当に政府が存在しているのならば、市場的に解決できない公共的な問題について、その解決手段として政府を用いることに問題はないはずなのだ。もし、政府がかかわることで問題が悪化するようなら、その政府が間違っているのだ。と、私は考えるタイプなのです。なにかヘンでしょうか?
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白田秀彰の「現実デバッグ」
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