No. 3 法律作成者
2007年11月21日
(これまでの 白田秀彰の「現実デバッグ」はこちら。)
以下では、専ら国会議員について述べるが、地方議会議員にも同様に適用しうる内容だと考える。
まず、日本国システムを動作させるプログラム言語は、人工言語である「法律言語」なのだから、法律言語を自由に扱えない議員(programmer)が、議席のほとんどを占めることが根本的におかしい。もちろん、官僚出身者や弁護士出身者の議員は、それなりの人数がいるはずだ。衆議院で480人、参議院で242人いる現職議員のプロフィールを全部チェックする時間も根性もないので、具体的な数字は挙げられない。私が数年前に読んだ文書では、官僚出身議員の割合は、1割をすこし超えるくらいとされていた。司法資格保持者の数についてはわからない。誰か集計してくれるとうれしい。
また、「特定分野の政策に通じ、官僚を凌駕する知識をもつ」とされる、いわゆる族議員数については、ある古いリストでは全議員の1割未満とされていた。もちろん、族議員なるものが明確に定義されていないから、その数字に意味があるかどうかは不明だ。最近の族議員の中には、単に官僚にベッタリとくっついているだけの「提灯持ち」も多いらしいので、必ずしも族議員が法律言語を駆使できる能力を持っているとも限らない。さらに官僚出身者かつ族議員である議員も多数いるだろうことを考えると、法律言語を操れて立法能力を持っていると推測される議員は、1割を少し越える程度とみてよいのではないだろうか。この数字を多いとみるか少ないとみるか。
さて、官僚出身者であれば、かつての職に関係している領域の法律の解釈や、その領域に関連する立法が得意だろうし、弁護士出身者であれば、一般的な法律の解釈や運用について適切な知識技能を備えているだろう。それゆえ、単に「地元の名士 (地元の親分)」というだけで選抜された議員よりは、遥かに議会で活躍できるはずだ。ここで、内閣法制局の統計をみると、近年の通常国会では、内閣提出法案が90を越える程度の数であり、実際に法律になる数が80を越える程度。対して、議員提出法案は60を越える程度の数出ているそうだが、実際に法律になる数は、20前後。議員提出法案の数は、私自身の印象よりも遥かに多かった。
このコラムの前提となっている、厳格な三権分立制を採るアメリカでの議員の仕事は、法案を議会に提出し、法律として成立させることだ。一つの会期の連邦議会には、数百もの議員法案が提出される。また、法案を作れない議員は無能であると選挙民に評価される。それゆえ、アメリカの議員には、弁護士出身者が多い。法学部(法科大学院)の社会的位置付けも高い。法を理解し法律を運用する知識技能は、法曹にならなくても国政に参与するための基本的技能だと考えられているからだ。
対して、現実の日本の立法過程は、議院内閣制を背景にして、次のようになっている。衆議院で多数を占める与党から総理大臣が選出され、内閣を編成する。で、法案の元となる草案を練る段階では、国会ではなく与党内部が舞台となる。そこには官僚も参加し、情報交換と調整が行われる。すなわち、内閣+与党議員+官僚の三者が国会の枠組みの外で実質的に法案を作っているわけだ。その主導権は、与党「族」議員にあるのかもしれないけど、具体的には官僚の法律知識の助けがなければ法案は作れない。で、与党内で検討と調整が済んだ法案は、内閣提出法案として国会に提出される。与党議員であれば議員提出法案とせずに、内閣提出法案として関与できることになる。それゆえ、上記の内閣提出法案は、実態としては与党議員の法案だとも言える。
こうしてみると、現在の日本国システムのコーディングは、基本プログラム(OS)にベッタリと依存した開発環境の上で行われていると言えそうだ。なんだかどこかのOSとその開発環境のようだな。議員(programmer)は、官僚(OS)が提供する機能を呼び出して様々な立法をするが、OS提供者が、その機能の仕様を改訂しうる能力をもっているようなものだ。だから、官庁(OS supplier)は、法律(code)の具体的な実行を実質的に支配することができる。すなわち、OSの一部が、自身の発意と利害で自身を書き換えうる状況になっているのだ。これでは、システムがどんどんブラック・ボックス化するのも、また肥大化していくのも当然だ。
この事態は、基本設計=憲法 (basic design / constitution)が想定している立法過程を逸脱しているのだから、「オペレーション・システムへの不正なアクセスが行われました」とメッセージを出して、システムは、haltしなければならないハズであるが、なぜだか日本国システムは、膨大なシステム資源の浪費を続けながら、いまだに動いている。
ブレーク・ポイント挿入! デバッガ起動!
国会議員が法律言語を使えず、むしろ行政官が法律言語を駆使している理由は、行政官に対してのみ能力試験が課せられているからだ。行政官は、国会が記述した法律(code)をバカみたいに真っ正直に実行することが本務だ。そこで、行政官となるための最低要件として法律言語を正確に読み書きする能力が必須となる。それゆえ公務員試験が行われ、職務に必要な能力を持っていると確認された集団から公務員は選抜される。それに対して、国会議員の選抜において、法律言語を正しく使用できるかのチェックはされていない。それゆえ、無能力者が易々と国会議員になってしまう。だから、立候補要件として、法律の運用能力に関する資格試験を課すべきだ。そうすれば、人気だけに頼るような、ポッと出のタレント議員がいなくなる。
現在の公職選挙法は、明治維新の功労者すなわち軍人(武家)から脈々と権力を継承してきた権力者たちが、政権を握りつづけるのに適切なように設計されている。従って、権力者たちが容易に準備できる資格要件、たとえば年齢や最低納税額(資産量)については、実装されたことがあるにもかかわらず、彼らが必ず満たすことができるとは限らない要件、すなわち能力要件については、決して導入されることはないだろう。しかし、基本設計から判断するに、それは奇妙なことなのだ。
白田秀彰の「現実デバッグ」
過去の記事
- 最終回 暇申 その22008年5月 7日
- No. 24 教育制度批判 その72008年4月30日
- No. 23 教育制度批判 その62008年4月23日
- No. 22 教育制度批判 その52008年4月16日
- No. 21 教育制度批判 その42008年4月 9日