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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第十一回 幕間II

2007年7月25日

(白田秀彰の「網言録」第十回より続く)

『立居振舞』で、私は「私達の身体や振舞を決定する要因は、かなりの程度、私達の精神である」ということを述べている。私達の身体の先天的要因すなわち遺伝的形質には、私達が生物学的にヒトとして成立しうる範囲において著しい多様性がある。私達は、その多様性の一つの可能性として産まれてくる。しかし、それに加えてそれ以上に、後天的要因による身体への影響もまた無視できない。読者は「野球選手」「水泳選手」「サッカー選手」等と、特定の競技の選手の典型的な体形や振舞をたやすく想像できるだろう。同様に、特定の職業が特定の体形や振舞と結合している例もまた挙げられるだろう。たとえば、農業や漁業を職業とする人たちの体形や雰囲気を想像することはたやすいだろうし、プログラマたちには「業界標準体型」と呼ばれた体形が存在していたやに聞いている。

それゆえ、もし現代日本という環境における「原型 archetype」としてのヒトを知りたければ、現代日本において「とくに特定の役割をもっていない人」「自己像について意識していない人」のイメージを集めればよいだろう。それが、現代社会の生活環境が私達にもたらす「自然」な身体と振舞なのだ。私はそれが、やや過剰な栄養状態を反映した小太りであり、筋力不足と身体機能の低下から生じる ぐったりとした猫背の姿勢であると考えた。また、前回までの連載において私は述べていないが、他者とのコミュニケーションがあまり要求されない社会状況を反映した、自己本位の振舞をそれらに付け加えてもよいだろう。

ここで逆に考えれば、現代日本における「自然」な身体と振舞になっていない人々は、何らかの意味で「あるべき自分」の身体と振舞について選択し、そうあるように意識しつづけていることになる。「自分は、とくにそうしたことについて意識したり、努力したりしていないにも関わらず、小太りになってないんだけど...」という反論がありうる。しかし、幼少期から長年にわたって形成され、すでに無意識化された生活習慣が、その人の現在の身体と振舞を形成しているわけで、それはまさに選択の蓄積と意識の継続を意味しているといえないだろうか。内面は隠しようがなく外面に現れるのだ。

ここにおいて、私が萌えている「近代的なあり方」が前回の『幕間』で述べたように「秩序への偏執と逸脱への寛容の均衡」から成立しているのだとするなら、当然そうした精神のあり方が身体や振舞に反映することになる。そして、近代社会において称揚され推奨されてきた身体や振舞について検討していくと、まさにそのようになっていることが明らかになる。ある社会が理想化する身体や振舞は、典型的にその社会における価値観を反映したものなのだ。逆にいえば、ある社会が理想化する身体や振舞に、自らが同一化するための努力は、その社会の価値観へと自らの意識を統合するための訓練に他ならない。社会は私達によって形成され、私達は社会によって形成される。

ここで、近代において「理想化された身体」とは何かと考えたとき、18世紀あたりにその原型が誕生し、現代においても近代的社会体制にガッチリと組み込まれた制服と化している「スーツ」を無視することはできないだろう。実際に、男性のスーツ・スタイルとその周辺に存在する生活文化こそが、近代なるものの典型であるとする主張は多い[1]。

それらスタイルや生活文化のそれぞれについては、後に気が向いたら取り上げることとして、ここでは、スーツこそが近代を私達に強制する拘束衣なのだと指摘しておく。端的に言えば、市販されている既成のスーツを問題なく着用でき、しかも着ていて違和感を感じない身のこなしができているのなら、その人物はかなりの確率で近代の規範に沿った身体をもち生活習慣を身につけていると言ってよい。具体的に言えば、ピッタリと仕立てられたスーツは、理想化された立ち姿勢と座り姿勢をそのままなぞっており、ジャケットの肩・腕やトラウザーズの腰・膝の可動範囲を越えない身のこなしが、いわゆる「エレガント」な身のこなしなのだ。

したがって、スーツの着用が気にならないほど私達にとって「自然」になるとき、私達は知らず知らずのうちに近代的諸制度へと統合されているのだ。このことは、いわゆる社会人となった若者に対して、先輩等から彼に与えられる「スーツ姿が板についてきたな」という言葉が、そのスーツが彼に似合っているという意味ではなく、彼の社会に対する態度全体を指して用いられていることからも伺われる。

そこで、つづく数回は『服装』と題して、スーツ・スタイルを規範軸に据えつつ、現代の服装について述べたいと思う。もちろん、近代の復権を願う私の立場からすれば、スーツ・スタイルの合理性と規範としての完成度の高さについてエラソーに述べることが避けられないだろう。すると、いわゆる「ファッション評論家」と同じようなことを語ることになると懼れるが、私が述べようとするものが「ファッション」ではないことを忘れないで頂きたい。まあ、現在の一般的流行からすれば、私の説明しようとするスーツ・スタイルは過剰に時代錯誤的なので、だれも「ファッショナブルだ」とは思わないだろう。だから、私は自ら「コスプレ」だと標榜しているのだ。

そうそう。立居振舞について「こうすればいいよ」ということを書くことを忘れていた。次回以降の記事で服装について述べていく中で、私なりの経験と提案を盛り込んでいくことにしたい。

* * * * *

[1] 代表的なものとして、アン・ホランダー, 中野香織 訳, 『性とスーツ』白水社 (1997)。読みやすいものとして 中野香織, 『スーツの神話』文春新書 (2000)。その他、たとえば、故石津謙介氏や故落合正勝氏らが男性服飾雑誌に掲載したエッセーや、それをまとめた書籍を参照していだたきたい。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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