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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第十七回 幕間 III

2007年9月 5日

(白田秀彰の「網言録」第十六回より続く)

本来なら、ここで「会話」と題して、私達の発声と話言葉について語る予定だった。しかし、私が「服装 I〜V」で語った内容に対して、「権威主義的かつブルジョワ的な装いであるスーツ・スタイルを近代の標準服として持ち上げ、暗黙のうちに上・中流階級こそが近代社会の担い手であるとの差別的意識を読者に植え付けている。さらにその文章は、洋服に関してよく語られる薀蓄をエラソーに語っているに過ぎず、ファッション雑誌のエッセイにも及ばない駄文である(要旨)」との批判が来たゆえ、その批判に対するお応えをしようと思う。

反論ではなくて「お応え」。

批判氏の批判は、当たらずとも遠からずだと自分でも思う。しかしながら、スーツ・スタイルがきわめて近代的な標準服であることについては、一連の論述の流れもあって、譲ることができない。そこで、日本社会が近代化する以前の民俗 / 民族服 (folk / ethnic costume) [1] であり、かつ日本独自のものである着物(和服)について語ることで、逆にスーツ・スタイルが持つ近代的意味について明確になるのではないかと期待して、ここからしばらく和装について語りたい。さらに、和装について語ることで、以前取り上げた「立居振舞」についての「日本には、日本古来の操身法があったのだ」との指摘について補足することもできるだろう。

* * * * *
[1] 近代化以前の日本においては、いわゆる日本国民意識 concept of Japanese national が存在しなかったのであるから、和服は、folk あるいは ethnic な服であるが、国民の服 national costume と呼ぶことは正しくないだろうと思う。日本人による国民国家は、近代化西洋化とともに開始されたのであるから、西洋式の制服や軍服が国民服ということになるのではないだろうか。そういえば、戦争中には、そのままズバリの「国民服」という粗雑な服が存在したね。


和装 I

大学の先生のコスプレをする大学の先生である私は、社会的に振舞うことを要求される場においては、可能な限り規範に沿った服装をしているつもりだ。しかし、だからといって、西洋かぶれというわけでもない。近代が掲げる諸価値は維持されるべきだと思っているが。というのは、私は、服飾について、かなり民族主義的だからだ[2]。事実 夏の期間には、自宅ですごす時間の80%以上で、私は和服を着用している。いまどき、自宅に帰って和服に着替えるようなオヤジは、『サザエさん』くらいでしかお目にかかれないはずだ。

和服で暮らすようになったきっかけは、ある年の夏が暑かったこと、そしてその年、UNIQLOが紳士物の激安木綿浴衣セットを売っていたことにある。たしか一式がパッケージになって5000円くらいだったかな。

── 以下、あまり上品な話ではないが、ご容赦願いたい ──。夏の暑い時期、じっと椅子に座っていることは、私にとってかなり苦痛だ。下着一枚になっても暑い。ところが、下着一枚で仕事をする姿というのは、傍から見てかなり悲惨なものがある。さらに椅子の座面に接する腿の裏側の汗がべたついて実に不愉快だ。宅配便など急な来客もある。そのたびに、あの暑苦しいジーンズを履くのも嫌になる。私は、夏のさなかにジーンズを履きつづける人の忍耐力を尊敬する。

とはいえ、「もう下着も要らん!」と丸裸になる度胸は私にはなく、裸腰にバスタオルを巻いて凌いでいたりした。そして、暑さで朦朧とするうちに次第に「夏に関して言えば女性のスカートは甚だ合理的だよなぁ」などと考えるまでに至った。「生殖機能についていえば、男性は局部を冷却した方がよく、女性は腰周辺を保温した方がよいので、男女の下半身の衣服は逆ではないか...」などと、やけっぱちに考えたことすらある。ちなみに、スカートのようにみえる男性服の代表として、スコットランド高地の民族衣装とされるキルトがある。あれほど寒冷な気候の土地で、なにゆえ下部が開放された衣装が定着したのか、不思議だ。いずれ調べてみたい。

さて、そうして悩んでいたときに、UNIQLOで激安浴衣セットを見つけた。「おお、これなら堂々とスカートっぽい下部開放の服を着ることができる!」と購入し着用したところ、これが実に快適だった。身体を締め付けている部分が、腰周りのみであり、しかもゴムを使用していないので、その部分が過剰に締め付けられる懸念がない。開放された体には、柔らかに布が乗り、風が汗を冷やしながら体表を抜けていく。日本の民族服は、当然に湿度と温度の高い日本の風土に適合的なものだった。

さらに、体の表面を覆う和服には、夏の日ざし避けも期待できる。若い諸君は、夏は可能な限り肌を露出して放熱するほうが涼しいと考えているだろう。私もそのように思っていた。腕や足を露出したほうが当然に涼しいのだろうと思っていた。しかし、年齢を重ねてくると、太陽の直射が肌を焼く苦痛の方が強くなる。オバサンたちが、真夏に体のあちこちを覆った暑苦しい服装をしているのは、単に美白のためだけでないと私は考えている。チリチリした光線が肌に辛くなっているのだ。また、砂漠に生活する民族の服装を思い起こしていただければ、強烈な太陽光線の下で活動する彼らが、全身を布で覆っていることに気がつくだろう。湿度が十分に低いのであれば、大量の布で高温の外気と強烈な太陽光線を遮断したほうが快適なのだ。

その点、和服は、全身を覆いながら風が抜ける。この快適な感覚を味わうためには、少々値が張るが、麻を30%以上含む生地であることが必要なことも、経験からわかってきた。値段としては、浴衣であれば15,000円程度以上の価格となる。高価に感じる読者もいるかと思うが、しっかりしたドレスシャツ一枚程度の価格であるし、一枚で上下全身を覆うことができるのだから、私自身はむしろ割安であると考えている。

一方、安価な和服の素材としてしばしば用いられる、ポリエステル等の合成繊維のものは、まったく快適でない。この記事の読者には、吸湿能力があまり問題とならない冬物を別として、合成繊維を10%以上含む和服を購入しないことを強く勧める。私もこの点については失敗を経験している。おそらく、和服が「暑く不快である」という印象を持っている読者は、知らずに合成繊維製の着物を着ていたのだろうと推測する。また、帯や足袋などの付属品についても、私自身は合成繊維製品をけっして買うことがないだろう。

洗濯について懸念する読者もいるかと思う。私の購入する和服は、木綿・麻を中心とするミシン縫いのものであるので、注意して取り扱うならば自宅で洗濯できる。夏の浴衣は、汗を吸うので、頻繁に洗っているが、とくに問題が生じた経験はない。もちろん、繊細な生地のものは「浸し洗い」「押し洗い」などする必要があるだろう。私の日常の洗濯法は、浴衣については、ザザッと水による「押し洗い」をした後に、軽く脱水をかけて、風通しの良いところで干すだけである。麻を含む浴衣を夏に干すのであれば、1時間もあれば着用可能な程度に乾いてしまう。したがって、浴衣を二枚を所有していれば、常にどちらかを着続けることができる。

こうした発見の積み重ねから、和服を着る時間が増大し、現在に至っているのだ。

* * * * *
[2] 思想上「民族派」を掲げる人たちは、皆さん、ぜひ和服を日常に着用してみたらどうだろう。私の考えでは、服装文化と食事文化は、他の文化的要素に比較して、日常的なものであるがゆえに、その人の思想や信条に強い影響を及ぼす。現在、和服を着ることが、なにか特異な「ハレ」の行為であるかのように思われていることが、民族の伝統や文化が衰微している一つの理由であると私は考える。そこで「民族派」の皆さんが率先して和服を日常から着用することで、「あ、和服を着ることは普通なのだ」という一般認識を醸成することができれば、和服の市場も拡大し、大衆向け製品も市場に投入され、価格も低下し、一般の人々もより多く和服を着るようになるかもれしない。そうすれば、本論で述べているように、和服に組み込まれていた、様々な民族文化が再興する足がかりなるかもしれない

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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