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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第十二回 服装I

2007年8月 1日

(白田秀彰の「網言録」第十一回より続く)

いまどきの若い人たちに服装について話そうとすると、「俺達の好きなものを好きなように着て何が悪い!」「楽な服装が一番いいんですよぉ」とたいていの場合言われる。服飾に関係した職業の偉い人たちも、「服装とは自己表現ですから、好きなものを好きなように着ることが大切です。ただし、他の人に不快感をもたれないように配慮しましょう」と言う。そりゃそうだ。オーソドックスな服を皆が着るようになったら、途端にアパレル産業が不況に突入してしまう。可能な限り、毎年毎年浮ついたヘンテコなファッションを売りつけ続けなければならない。そのためには、服装に「規範」などあったら邪魔なだけだ。共同体の合意から生じてくる「規範」を毎年新しく更新することなど考えられないのだから。

ここでも商業的な都合が、一つの文化を破壊した例をみることができるね。

私は、ここからの連載で「好きなものを好きなように着てはいけない」という理由について語ろうと思う。ただし、「だから私の言う通りにしろ」と読者に要求するつもりはない。私の目から見ればヘンテコなファッションであっても、読者がそこに存在する「美」を愛し受け入れて主体的に選択することは、とても重要なことだ。しかし、もし読者が何にも知らないで、雑誌やテレビが焚きつける「流行」に必死にすがり付いているだけなら、これから私の書くことを知ることで、まったく別の選択肢がありうることに気がついてもらえると思う。

流行の服が似合わないと嘆いているヲタの皆さんには、「コスプレ気分で規範に沿ったクラシックな服装をしたらいかがですか」「もういっそのこと宮崎駿アニメの登場人物や、『エマ』(...やりすぎかも)の登場人物のコスプレはいかがでしょう」と訴えたい。クラシックな服装をちゃんとしていれば、ガリはガリなりに、ピザはピザなりに、役にハマった見栄えを得ることができると保証しよう。「この世界」は、美女やイケメンだけで出来ているわけではない。もし、『紅の豚』のポルコ・ロッソを少しでもカッコイイと思えるのなら、自分自身で納得できる自分を演じることは可能だ。物語の主役には なれないかもしれないけど。

さて、本題に入ろう。

まず、あなたがすごくイカした流行の服を買ったとしよう。Dolce & GabbanaでもDiorでもいい。それをあなたが着用したとしよう。おお!鏡の中のあなたは、まるでオダギリジョーのようにカッコいい。あなたはイカした自分にうっとりとし、そして満足して部屋を出る。イカした俺をみんな見てくれ! Diorを着た俺は世界一カッコいい!

...仮にこの状況が事実だったとしても、あなたは鏡を通じてしか自分の姿を見ることができない。だから服装は「自己満足である」とも言われる。私達は、実際には服を着た自分自身を客観的に見ることはほとんどない。では誰が見ているのかといえば、それはあなたの周りにいる人々だ。従ってこう言える。服装の機能面は着ている本人のためであり、服装の美観面はその人を見ているまわりの人間のためであると。

服装の美観面について言えば、服には礼服と呼ばれるものがある。相手に対して敬意を示すために、文化的あるいは制度的に着用が義務付けられる服だ。洋服であればフロックコートから始まり、テールコート、続いてモーニングコートあるいはディナージャケットときて、ディレクターズ・スーツ、ダーク・スーツと並ぶ。和服であれば五つ紋の紋付羽織袴から始まり、羽織+袴+着物、続いて着物+袴あるいは着物+羽織、続いて着流しと並ぶ。

原則として目上の相手に会うときには、相手の服装と同格以上の格の服を身につけなければ失礼にあたるとされる。正しく装うことは、自己満足のためではなく、相手の視覚的快楽や、自尊心や、社会的地位を損なわないための義務であるから「礼」にかなうわけだ。あなただって、汗がプンプン匂う汚れたTシャツとジーンズで訪ねてきた客があったら、「とりあえず帰って、シャワーを浴びて、清潔なシャツに着替えてから来なさい」と言いたくなるだろう。

サラリーマンの悲劇はここにあって、取引先や顧客と同格以上の服というと、ダーク・スーツがもっとも確率的に安全である。さすがに、モーニングコートを着用した客がくる可能性のある職場というのものは、結婚式場以外にはなかなか想像できない。したがってサラリーマン達は、真夏でもダーク・スーツを着る羽目となっていた。そこで、政府が「ジャケットなしでもネクタイなしでも失礼でないということにしましょう」というキャンペーンを始めた。クールビズというものだ。機能面からみて、ほんとうは真夏にジャケットやらネクタイやら着用したくなかったサラリーマン達は、喜んで飛びついた。私は、エネルギー効率やら機能面からみて、クールビズは良い政策だと思う。しかし、また一つ服装文化が失われたとも嘆く。

不思議なことに普段から反政府的な人でも、このクールビズだけは受け入れている。政府の政策で服装文化が変質させられたにも関わらず、喜んで受け入れるとは「なんと気骨の無いことよ」と思う。反政府の人は、今こそ「夏のドレスアップ」を推奨すべきである。もちろん、普段から体制迎合的である私が、クールビズを受け入れることは、何の問題もない。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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