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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第十回 立居振舞 IV

2007年7月18日

(白田秀彰の「網言録」第九回より続く)

さて、ここで突然「宝塚」の話に飛ぶ。

私は宝塚歌劇の舞台を直接見たことがない。ぜひ一度見たいものだと思っている。世界で唯一のそして独特の舞台芸術であるからだ。そして、宝塚出身の女優さんたちをしばしばテレビでみることがあるが、みなさん容姿のみならず立居振舞が美しい人ばかりだ。さらにいえば、宝塚歌劇では女性が魅力的な男性を演じなければならないため、女性が男性らしさを強調する立居振舞の技法が発達している。そうした女性が演じる理想化された男性の立居振舞が、少なくとも女性の目からみて魅力的なものであることは否定できないだろう。ときとして、それが大げさな演技的表現として揶揄の対象となることがあるにしても。

そうした宝塚歌劇を支えているのは、宝塚音楽学校における教育だ。私はそこで行われている教育について、本や雑誌で読んだり、テレビで見聞きした以上のことは知らない。私が知るところでは、厳格な教師生徒関係、先輩後輩関係のもと、学校内のみならず生活全体におけるありとあらゆる場面と瞬間において、正しく美しく立ち、座り、歩くことへの指導が徹底されているやに聞いている。その結果として、あらゆる場面と瞬間において美しい立居振舞が、あのように完成するのだろうと思う。とすれば、集団全体が統一的な規範に向かって努力するならば、その規範を実現することは不可能ではないことがわかる。私自身は、立居振舞の美しさという点において、統一的な規範を強制することは、決して個人の自由や尊厳を侵すものではないと考えている...が、ダメですか? 長期的には、そうした立居振舞の習慣は、その人のかけがえのない財産になると私は思うのだが。

さて、ここで私はあえて社会的に批判が少ない事例を選んでいた。実は、私がその立居振舞について感心した、他の二つの事例があるのだ。ひとつは、おそらく海上自衛隊関連の教育機関の学生たちが帰省等の理由で電車に乗っていたときの立居振舞であり、もうひとつは、どこの大学であるかはわからないが、応援団が応援のために電車で移動しているときの立居振舞であった。キチッと立ち、キビキビと動作する姿に一種の感銘をうけたことを記憶している。それらの組織は、いずれも、厳格な先輩後輩関係と、そのまんま軍隊的規律を統一的な規範としている組織だ。すると現代において立居振舞について欠如している本質的要素が、それらであるということになりそうだ。たしかに、それら厳格な上下関係や軍隊的規律は、現代の社会では、否定されるべき価値であると一般に認識されている。

このあたりでまとめ。現代の私たちは、立居振舞についての規範を捨てて、いわゆる「自由」で「自然」な身のこなしを容認している。しかし、その結果としてなんとも締りのない、美しくない立居振舞と身体を獲得した。その影響は、身体の健康を脅かす段階にいたりつつあるように私は思う。一方、立居振舞についての規範は、厳格な社会関係と軍隊的な規律によって、維持されうるらしいことが示された。

一般にリベラルな人たちは、厳格な社会関係や軍隊的な規律について批判的で、それが近代国家の規律訓練を通じた支配を強化するものであるという。そうした教育方針が日本を軍事国家化し、戦争を呼び寄せるという。しかし、国民の大多数が良い姿勢と美しい立居振舞を実現しつつ、文化的平和的国民であることは不可能なんだろうか。身体訓練と軍事国家化は、論理必然的に結合したものなのだろうか。私は、そろそろ我々の方針を見直さないと、取り返しがつかない段階にいたりつつあるのではないか、と心配している。まあ、こうした懸念自体が昔からあるんだろうとも思う。そういう意味で、この網言録での私の記述を、知的に愚昧なオヤジの戯言として受け取っていただければ幸いだ。

身体訓練と軍事国家との関係について、付言しておく。日本が軍事国家になるとか、最近若者が右傾化しているとか、言う人がいる。しかし私は、日本が平和国家というよりも戦争不能国家にすでになっていると考えている。現代の私たちは、30kgほどの装備と10kg程度の銃器を抱えて、一日30km程度歩行するという歩兵としての最低の体力も気力も持ち合わせていない。規律訓練の一般化を心配するより、自らの身体を1時間直立させることすらできなくなりつつあることを心配する段階ではないだろうか[1]。

* * * * *

[1] 平和と民主主義を重要な価値として奉じるロージナ茶会の会員から、戦争遂行能力の有無と、戦争招来可能性は必然的に連動していない、という指摘を頂いた。確かに、戦争を遂行するのは身体であるが、戦争を招来し勃発させるのは精神である。仮に必敗であっても戦争に踏み出す狂気と不合理を人間がもつ限り、やはり戦争容認的言説が危険であるとの主張は説得力を持つ。ここでは、その批判を拝受しつつ、あえてもとの記述を残したままにする。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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