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白田秀彰の「網言録」

情報法のエキスパートが、日常生活から国家論まで「そもそも論」を展開し、これからどう生き抜くべきかを語る。

第六回 幕間

2007年6月20日

前回の予告では、「立居振舞」と題した回が続く予定だった。しかし、ここで小休止を置いて、今後の展開について語りたいと思う。おそらくこの「網言録」へのアクセスがあまりよくないからだろうが、編集部のほうから「このまま立居振舞に関する現状批判へと繋がると、読者の興味を繋ぎとめられない」という警告を頂いた。

だからぁ、「これまでのように、ネットワーカー達の興味を引くようなネタはないですよ」と言ったじゃないですか。こんなに早くネタばらしをしなければならないなんて、困ったなぁ。

この連載が目的としているものは、全てのものが等しく無価値であるポストモダンな状況においてこそ、私達の現在の社会における良質な部分を支えている近代的価値観(モダニティ)を維持しなければタイヘンなことになる、という問題意識を共有していただくこと。そして、近代的価値観を再構築する私なりの具体的手法について、一つ一つ紹介していくことであった。さらにネタばらしすれば、「モダン」が「大きな物語」として失効したならば、もはや「大きな物語」が成立しないのであれば、「萌え」対象としてのモダンの復権しかないんじゃないか、という主張をするつもりだったのである。

「萌え」とか「コスプレ」なら恥ずかしくなくモダンできるでしょ? え? 違うってw

まず『美と規範』で、真・善・美という三大美徳のうち、もっとも感覚的で、その存否について論争の少なさそうな価値である「美」についてすら、典型や規範が溶解してしまっていることを示した。その後、つづいて「立居振舞」「服装」「会話」... など、順番に社会を支えている、ささやかではあるが、重要な要素について現状を批判していくことになっていた。その過程が一通り済んだところで、── おそらくここまでで大方の読者を失っているだろうという想定のもと ── 私自身が自ら調べ、理解し、実践した事柄を、「洗顔」「靴」「手紙」...など、小項目ごとに展開していく予定だった。そうして、そうした小項目が揃ったときに、それらの小項目をつらぬく近代の合理性と美意識が明らかになって、冒頭の『美と規範』へと帰っていき、連載が終了することになっていた。

こういう風に全体の計画を今の段階で明らかにすると、連載中にだんだんと方針やら方向がズレていったときかっこ悪い... 前回の『法と慣習』のときも、当初の目論見とは全く関係ない内容にズレていったし。

さて、上記のような計画で連載が進行するはずだったのだが、冒頭の編集部からの懸念ももっともだと思う。なにより、広告収入に依存する媒体であるわけだから、実際のアクセス数の多寡は重要な問題だ。そこで、『美と規範』について、どうすれば私達が「美」の規範を感得し、実践することができるのかを、この段階で示さねばならないことになった。困った。なぜなら、先に書いたように冒頭の問題提起は、連載の終末において解決される予定だったからだ。そこで、予告的に結論を書いておくことにする。だから、ここを読んで私のいわんとするところを理解した読者は、この連載を読みつづけたところで、近代萌えオッサンの苦言と皮肉と自慢話に付き合うだけになってしまうと予告しておこう。

もちろん、連載の内容がズレていった結果、ここでの結論予告とまったく異なった終末を迎えるかもしれないことを予めお詫びしておきます。

近代的価値観を支える「美」とは、まず秩序に対する偏執であること。そしてその秩序からのささやかな逸脱への寛容の均衡において実現するものであること。近代的価値観を支える「美」においては、具体的な意匠は問題とならず、抽象的なレベルでの秩序が指向されるべきこと。すなわち、全生活の諸事を秩序のもとに結晶化していこうとする努力と実践のうちに現れること。

こうした思想の具体例として、意外と思われるかもしれないが「茶道」を挙げたい。ただし、やたら道具やら衣装やらに金をかけることを奨励する俗流茶道ではない。だいたい、かつてどの農村でも普通にみることのできた粗末な「草庵」を、莫大な金をかけて材料を調達し、わざわざ自宅庭に建てるようなこと自体が「茶道」の精神と相容れないのではないか...と、茶の立て方も知らぬ私が批判してよいのやら。

茶道の精髄は、その成立当時(安土桃山時代)にありふれていた最小かつ極貧の生活においてすら、秩序と逸脱の調和である「美」を達成するための精神のあり方(すなわち「道」)に存在すると私は考えている。現在では数千万円で取引されている「茶道具」も、もとは庶民が用いた雑器であり、そこらへんの竹薮から切り出してきた手作りの道具であったはずだ。であるから、現代における茶道は、極貧の状態にある人が、100円ショップに売られているものやゴミからのリサイクル品を使って、日常生活における「美」を達成したときに完成しうると私は考える。

そうであるならば、先の事例で論った、まだ若く貧しい(...かな?意外と豊かだったりして)美大助手たちにおいて「美」を実践しうるか否かは、彼らの金銭的余裕やら個性の話ではなく、ただ一点、彼らの精神のあり方に依存しているのだということがわかっていただけるだろうか。彼らの作品と生活には、一貫した秩序が存在するか、また秩序からの逸脱が意識され、秩序へと調和させられているか。

そうした秩序への偏執と逸脱への寛容の均衡が、「近代」と呼ばれる体系を構築したのだ。だからみんな「近代に萌えてみないか」と、私は訴えたい。

あ、言いたいこと終わっちゃった。

そうそう、pizzicato fiveのアルバムに『戦争に反対する唯一の手段は。』というものがある。私はそのアルバムをまだ持ってないけど、とても印象的なタイトルだ。で、その言葉は次のように続く。

「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」(吉田健一)

戦争は最大の破壊と混沌であり醜悪だ。美しい軍隊のパレードや軍服は、その破壊と混沌を隠蔽あるいは補償するために「美しい」。さらにいえば、この言葉を述べた吉田健一という文学者の生活についても調べてごらんなさい。彼が自らの哲学を実践していたことがわかるだろう。そして彼がとても「近代人」であったことも。

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プロフィール

1968年生まれ。法政大学社会学部准教授。専門は情報法、知的財産権法。著書に『コピーライトの史的展開』、Hotwired Japan連載をまとめた『インターネットの法と慣習』がある。HPは、こちら

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