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小田切博の「キャラクターのランドスケープ」

マーチャンダイジングの観点から、マンガ・アニメ・ゲームなど、日本の「コンテンツ・ビジネス」の現在を考える。

なぜ「収集・保存」なのか?

2009年7月28日

(これまでの 小田切博の「キャラクターのランドスケープ」はこちら

ようやく衆議院が解散し、民主党政権誕生の可否が問われる選挙を控えて「国立メディア芸術総合センター」を巡る動きが相変わらず活発だ。

まず7月2日には前回触れた「メディア芸術総合センターを考える会」の記者懇親会に登壇した浜野保樹、里中満智子、土佐信道、森山朋絵をそのまま含む14名で準備委員会を設置。週一回のペースで開かれている(第一回第二回第三回)この準備委員会での討議を通じて7月中に基本計画をとりまとめ、10月には業者に発注という強行スケジュールで事態が進行していた。

第一回の時点で参加する委員から「委員会は必要だが、順番に委員が発言していくような形式では準備を進めるのは難しい」という指摘が出ているにもかかわらず議事進行が委員間のコンセンサスを形成する方向で討議するものにならず、二回目以降にはなぜか外部から有識者を呼んでのヒアリングをおこない、たった一週間限定で一般からの意見公募をおこなうという部外者から見ると相変わらず混乱しているとしか思えない状態だが、文化庁としては選挙で民主党が政権をとった場合の予算凍結を恐れ、なんとか建設を既成事実化しようという意図があったのだろう。

しかし、さすがに自分たちで設置した準備委員会の意図を無視するわけにもいかなかったのか、7月24日には基本計画の立案を一ヶ月延長、「施設の新設にこだわらない」方針が発表された。

これまで「施設の建設費・土地購入費」だとして与党議員にも説明されてきたこの予算はこれで本当に用途不明なものになったわけだが、なんにせよこの問題の今後は8月末の衆院選の結果によって左右されると思われる。

そこでここでは今回の背景事情として、なぜマンガ原稿などについての「収集・保存」が争点になっているのかを考えてみたい。

14人の準備委員のなかで「収集・保存」をもっとも熱心に主張しているのはマンガ家の里中満智子である。

ネット上での反応などを見ると彼女の主張に対しては「マンガ家というより官僚のスポークスマンなのではないか」といった感情的な反発、批判が見られるが、個人的には里中に対するこういう見方は間違っていると思う。「マンガ原稿の収集・保存の必要性」に関して、彼女は文科省や経産省の各種委員会で有識者として10年以上もほぼ同様の主張を続けてきており、その姿勢は他の誰よりも一貫している。そして、彼女がそのように主張する動機ははっきりと「マンガ家の利害」を代弁するためのものなのだ。

むしろ里中の主張の問題点はマンガ家の利害“しか”代弁していない点にある。

以前「点と線」でも雷句誠・小学館裁判に関連する問題としても触れたが、マンガ家や出版社にとって「マンガ原稿」の扱いはじつはこれまで何度も裁判で係争されてきたクリティカルなトピックである。特に雷句が前記裁判で主張していたようにマンガ原稿が「美術の著作物」として認められた場合、その評価額に応じてマンガ原稿は相続税の対象となり(20万円以上)、その譲渡益も課税対象になる(30万円以上)。

すでにマンガ原稿が収集品として市場で取り引きされ、雷句のようにマンガ原稿を「美術の著作物」として取り扱うことを求める作家も出てきている以上、里中の主張する「散逸の危機」とはこのような事情も念頭に置いたものと理解すべきだろう(こうした財としてのマンガ原稿のあり方についてはすがやみつるのブログエントリ「(10)マンガ原稿は美術品?」でクリアに解説されている)。

つまり、法的な位置付けが曖昧なマンガ原稿を管理・保存するリスクを公的な機関をつくって寄贈などのかたちで移管し、分散させたいという明確な利害に基く判断がそこにはある。里中がマンガ家である以上、マンガ家としての利害を優先させるのは当然のことだが、少なくとも彼女の発言の背景にそのようなマンガ家独自の事情が存在することはもっと考えられるべきだろう。

では「収集・保存」の問題とはつくり手にしか関係しないものなのだろうか?

この点は里中に同調するようなかたちでゲーム基盤やアニメのセル画まで「収集・保存」の対象としている浜野保樹の発言を見るのがわかりやすい。

浜野
それがメディア芸術祭の重要な役目だと思います。よく言われる「等身大」の自己表現も、少しの示唆や教育で普遍的な表現になり得ます。メディア芸術祭を行って、目利きの人たちに見せて、良いものを見出し、範を示していただくことが必要です。
(文化庁メディア芸術プラザ(MAP)ブログ「メディア芸術総合センターについて、青木保文化庁長官と浜野保樹東京大学教授が語る。」)

この発言は5月14日におこなわれた青木保文化庁長官との対談からのものだが、この対談において浜野は公的な「レコグニション(認知)」の重要性を訴えている。

公的な認知といわれてもいまいちピンとこないかもしれないが、ここで浜野が主張していることは「目利き」や「良いものを見出し範を示していただく」といった表現に象徴されるように、アニメやマンガといったポップカルチャーについてオフィシャルな権威がその質を公認すべきだ、とでもいうべき考え方である。

しかし、ここでいう「目利き」とは誰だろうか。

先にも述べたようにマンガ原稿やセル画などは収集の対象として市場で流通している。したがってその市場価値(譲渡価格)の措定は商業的な利権である。あるマンガ原稿なりセル画が貴重だ、価値がある、という評価をくだす立場に立つこと、それ自体が権益なのだ。必然的にその「目利き」が評価をくだす立場に立つことが妥当であると保障する根拠が必要になるはずだが、それがどのようなものかはここでは示されていない(雷句誠は前述の裁判で、市場価格の根拠を実際におこなった自作原稿のネットオークションでの落札価格に置いている)。

すでに商業誌でもネット上でも個別のマンガやアニメ、ゲームなどのレビューは大量に存在しており、それらは基本的に個人的な趣味のレベルでなされているものだ。商業的な書評などの場合はコマーシャルな意味も持つが、そうしたものに過剰に権威性を見出す場合は稀だろう。

極端な話、根拠自体は曖昧なまま文化庁という公的機関によって認定された「目利き」が「良いものを見出し」それを「範」として示すべきだというこの考えは、そうした個人の「趣味」レベルの価値判断を公的機関による裏づけによって権威化しようとする発想に他ならない。そこにはやはり「自身の価値判断に対する権威付け」という学者としての浜野の利益が動機としてあるのではないか。

だが、マンガやアニメのようなポップカルチャーを純粋に研究対象として収集する場合、むしろそうした個人レベルの価値判断によって序列付けをおこない「良いもの=保存対象」「悪いもの=保存対象外」のようなかたちで選定をおこなわれてはそもそもフラットなある時代・文化状況を反映した資料にはならない−−それはある固有の趣味性を反映したコレクションではあってもアーカイブではないのだ。

断っておくが、ある特定の立場やそれに伴う利害にしたがって主張がなされることは決して悪いことではない。むしろ一般的にいって当たり前な行動だろう。

しかし、その立場や利害の存在を明示せず徒に公共的な利益として主張するのはやはり無責任なのではないか。個人的にはそう思う。

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プロフィール

小田切博

ライター、90年代からフィギュアブームの時期に模型誌、フィギュア雑誌、アニメ誌などを皮切りに以後音楽誌、サブカル誌等、ほぼ媒体を選ばず活動。特に欧米のコミックス、そしてコミックス研究に関してはおそらく国内では有数の知識、情報を持つ。著書として『誰もが表現できる時代のクリエイターたち』、『戦争はいかにマンガを変えるか』(ともにNTT出版刊)、共編著に『アメリカンコミックス最前線』(トランスアート刊)、訳書にディズニーグラフィックノベルシリーズがある。

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