エロと暴力のマンガ、アニメ
2011年1月26日
(これまでの 小田切博の「キャラクターのランドスケープ」はこちら)
年頭に現代美術のアーティストである村上隆とアニメーターの北久保弘之がTwitter上で論争的なやりとりをしていた。
この論争自体は、アニメのクリエーターである北久保が日本のアニメやマンガのキャラクターや消費者をグロテスクに誇張して引用したような村上の作品に対する不快感を表明し、それに対して村上が相手への敬意を表明しつつ自作が現代美術の文脈上にあることを示唆し、その文脈を理解したうえで批判してくれと求める、という傍から見る限り噛み合いようのないものだった。
北久保はこの論争のきっかけになった最初のTweetで、村上の作品に対して「俺達の文化を破壊してる」とまでいっているのだが、私見ではこの発言に見られるような北久保側のナイーブな認識は、自分たち(アニメやマンガの作り手)のつくっているものの性質についても無自覚すぎるように思われる。
それは村上がこれまでプロデュースしてきたアニメ美少女をデフォルメしたような彫像に代表される作品は、欧米での日本マンガ、アニメ観を反映したものでもあるからだ。
日本のマンガ、アニメに見られる暴力性や性的な描写は、80年代から欧米では批判の対象であり、実際に輸出先の各国で放送コードなど規制の対象になっている。また、それゆえにこそ一部でカルト的な人気を博しもしたのである。
それがより一般的なブームとなったのはゲーム『ポケットモンスター』とそのアニメの放映によって児童層に浸透したからであって、依然として巨大ロボットと美少女が飛び交う日本のフィクション空間は奇妙なものではあるだろう。
村上の作品はその「奇妙さ」を欧米の現代美術の文脈に沿ってわかりやすくパッケージングしただけであり、破壊ではなく、欧米での日本マンガ、アニメの見られ方を、批評性をもって忠実に再現したものなのだといえる。
そして、このことは日本人にとっては村上の作品そのものを見るよりも、あきらかに村上の影響を受けている欧米のアーティストの作品を見るほうがわかりやすいかもしれない。
たとえばグラフィックノベルのアーティストとしても活動しているアメリカのペインター、ケント・ウィリアムスには村上の「dob君」を模したと思われるキャラクターが登場する作品もあり、彼は村上から直接的な影響を受けていると思われるが、彼のアニメ美少女が乱舞する作品は村上のいう「スーパーフラット」の対極に位置する西欧的な具象画のアーティストが、そのような日本のアニメ、マンガイメージの持つある種のグロテスクさを再現して見せたものといえるだろう。
村上の作品を消化していることひとつ取ってみてもわかるだろうが、ウィリアムスは反日的な意識を持ったアーティストではない。浮世絵などの日本的なモチーフもよく用い、映画『羅生門』をモチーフにした作品も手がけているむしろ親日家といっていい作家だ。コミックスアーティストとしてのキャリアも持ち、サブカルチャーに対して批判的なわけでもない。そういう作家の描いた作品にあらわれたこのはっきりした批評性を、私たちは少し考えたほうがいいのではないか。
こうした「見られ方」は一種のオリエンタリズムではあるだろうが、それを否定しても仕方がない。自分たちの表現の持つこうしたグロテスクな(ように見える)側面を捨象して、抽象的な「誇るべき文化」という側面だけ語ろうとするから、自分たちの文化の見たくない一側面としての性、暴力表現を規制しようという動きにつながっているのではないか。都条例など最近の表現規制を巡る動きを見ているとそんな風にも思う。
追記:......などと偉そうに書いておいてなんだが、よくよく確認してみたら、問題の作品はケント・ウィリアムスのものではなく、ウィリアムスの影響の強い、もっと若いアーティスト、ジェフ・ファーバーのものだった。どうもウィリアムスとファーバーは絵の師匠が同じひとらしく、よく似た画風であるため絵だけ見て混同したのだが、これは完全な私の確認ミスである。ウィリアムス、ファーバー両氏、及び読者に対しお詫び のうえ、自戒のためにテキスト自体は元のまま残しておく。
小田切博の「キャラクターのランドスケープ」
過去の記事
- 「クールジャパン時代」の終わり2011年5月25日
- 「わからない」という出発点2011年4月27日
- ヒーローはいつも間に合わない2011年3月22日
- ある「共感」2011年2月22日
- エロと暴力のマンガ、アニメ2011年1月26日