「国立メディア芸術総合センター」に関する混乱
2009年6月23日
(これまでの 小田切博の「キャラクターのランドスケープ」はこちら)
2009年6月に入ってから「国立メディア芸術総合センター」を巡る議論が白熱している。
同施設の設立費を含む平成21年度補正予算案(財務省「平成21年度補正予算(第1号、特第1号及び機第1号)等の説明」、文部科学省「平成21年度補正予算(案)の概要」)が5月29日に国会で成立し、審議中から「国立の漫画喫茶」と批判していた民主党は猛反発し、これに対し与党政府側は塩谷立文部科学相、河村建夫官房長官などが「世界に誇れる成長産業として発展できる分野」だとして設立の必要性を主張。ところが6月9日にその自民党の無駄遣い撲滅プロジェクトチームからも予算執行の停止を求める要請が出される異例の事態となり、党内からこうした動きに対しては批判や反論がなされたが、6月16日には公明党の「コンテンツ産業推進プロジェクトチーム」もこの動きに追随。17日に衆議院でおこなわれた党首討論でも話題に上るなど、すっかり、もっともホットな政治トピックのひとつになってしまった。
ネット上でも多くのひとたちが賛否を論じているが、ここではこの問題に対する賛否ではなく、わかったようでよくわからないこのニュースに関する問題の整理と切り分けを少し試みてみたい。この点は後述するが、いまのところこの話題に関しては批判にしろ賛同にしろいわれていることがバラバラでひどく混乱しているように思える。
報道レベルでも「アニメの殿堂」、「国営マンガ喫茶」といった表現が使われているが、実際にこの施設がどのような性格のものなのかはいまのところほとんどわからない。文化庁HPの「メディア芸術の国際的な拠点の整備について」によればこの施設は、
メディア芸術の「美術館」です。
一般に市販されている様々なマンガをただ単に収集して,利用者が読めるようにする施設ではありません。センターでは,マンガだけではなく,アニメーション,CGアート,ゲームなどメディア芸術全般を対象に,(1)優れた作品の展示や,(2)収集・保管してアーカイブ化,(3)メディア芸術の歴史,最先端の動向等についての調査研究,(4)我が国の将来を担うクリエイターの育成を図るとともに,(5)国内各地にある関連施設と連携して,それらの中での中核的な機能を果たします。
という趣旨のものだとされている。
しかし、ここでいう「メディア芸術」とは「「デジタルコンテンツ」と「メディア芸術」」でも指摘したように2001年12月施行の文化芸術振興基本法第九条で定義づけられた、ほぼ日本独自といっていい法的なカテゴリである。復習しておくと「映画、漫画、アニメーション及びコンピュータその他の電子機器等を利用した芸術」というのが文化芸術振興基本法で定義された「メディア芸術」だ。
「映画、漫画、アニメーション」を一緒くたに扱うのもそれなりに無茶だが、この定義で問題なのはむしろ「コンピュータその他の電子機器等を利用した芸術」という部分だろう。マンガやアニメとの関連からビデオゲームやCGを思い浮かべるかもしれないが、文化庁メディア芸術祭でのデジタルアート部門の受賞作や「メディア芸術の国際的な拠点の整備について」の報告書における記述を見るかぎりでは、これはむしろ「現代美術の1ジャンル」としての「メディアアート」のことだと思われる。
美術用語としてのメディアアートは「ニューメディアアート」ともいい、20世紀半ば頃から登場した新しい科学技術を使用した美術表現のことである。現代ではコンピュータやビデオなどを使ったインスタレーション作品などがこれに当り、NTT東日本が運営するインターコミュニケーションセンターなど、国内にもこの意味でのメディアアートを中心に展示をおこなう施設は存在している。
個人的に疑問に思わざるを得ないのは、文化芸術振興基本法は第八条において(芸術の振興)として「文学、音楽、美術、写真、演劇、舞踊その他の芸術(次条に規定するメディア芸術を除く。)」というかたちで「メディアアートを除いた」芸術、美術を別に定義していることだ。つまり、本来「現代美術の1ジャンル」であるはずのメディアアートだけを、なぜか商業的な大衆文化としての「映画、漫画、アニメーション」とあわせてひとつのカテゴリとしているのが「メディア芸術」という言葉なのだ。
「メディア芸術」を巡る最大の問題点はまずこの点にある。
前述の報告書では「1.メディア芸術の現状と課題」として、
○現在,我が国には,マンガ,アニメ等メディア芸術の各分野ごとに作品の展示等を行う施設は存在するものの,メディア芸術のすべての分野を包括的に取り扱い,作品を常時展示するとともに,関連情報の集約・発信等を行う施設が存在しない。
○このため,国内外で高まるメディア芸術作品鑑賞の需要に応えることができておらず,また,我が国のメディア芸術の海外への発信が不十分となっている。
と書かれているが、そもそも「メディア芸術」が国内法で独自に定義されたローカルな法概念である以上「メディア芸術のすべての分野を包括的に取り扱い,作品を常時展示するとともに,関連情報の集約・発信等を行う施設」は、じつは日本以外には存在しようがない。国外には「現代美術の1ジャンルとしてのメディアアート」は存在しても、日本でいう(それも「メディア芸術祭」が立ち上げられた97年以降にしか存在していない)「メディア芸術」という概念はないからだ。
文化庁がメディア芸術祭と今回のセンター構想のモデルとしていると思われるオーストリアのアルス・エレクトロニカにしろ、はっきりメディアアートのイベントであり、ミュージアムなのであり、国際的にコンセンサスが存在しないローカルなカテゴライズをもとに「包括的に」情報発信をおこなおうという日本の「メディア芸術」と同列に語ることはできない。
もちろん映画やマンガ、アニメにも芸術目的でつくられ、見られている作品は存在するが、自民党や文部科学省がこの施設の設立意義として挙げる「海外での人気」は主として『ポケットモンスター』や『NARUTO』といった児童向け作品の大衆文化としての商業的成功によるものだ。もちろん大衆文化に文化的な価値がないわけもないが、芸術としての文化の育成や振興と産業としての大衆娯楽の創作の育成や振興は意味合いが異なるし、大衆文化の文化としての研究もまた別な問題のはずだ。
この意味で、じつはこの施設の建設に賛同しているひとたちの主張もはっきりバラバラである。このことはセンター建設推進派の有識者による「メディア芸術総合センターを考える会」が6月4日におこなったプレス向け懇親会(個人ブログによる速記録「「メディア芸術総合センターを考える会」を考える」)に関する報道を見てもはっきりわかる。
この催しは文化庁の「メディア芸術の国際的な拠点の整備に関する検討会」にも参加していた東京大学教授 浜野保樹、マンガ家の里中満智子、東京都現代美術館学芸員 森山朋絵、アートユニット明和電機 土佐信道の4人が合同でおこなったもので、IT media Newsの記事『「“アニメの殿堂”必要」──里中満智子さんら、「原画やゲーム基板の保存場所を」と訴え』によると、里中と浜野が「マンガ原稿やアニメのセル画、ゲーム基盤などを保存するための施設」としての建設の必要を訴え、森山と土佐が「メディアアート発信の拠点」を訴えるという構図だったようだ。
だが、この前者と後者はよく考えるとまったく違う話である。
里中と浜野は大衆文化としてのマンガやアニメ、ゲームなどの収集、保存、研究のための施設として「国立メディア芸術総合センター」を捉えているが、守山と土佐は自分たちの「メディアアート」を発信するための拠点として同施設を語っている。この二つの視点は相反はしないまでも本来無関係なものであり、同じ施設で同時におこなう必然性もメリットもほとんどない。これに河村建夫官房長官ら内閣閣僚の主張する「海外向けの輸出産業としてのアニメ、マンガの育成」という視点を加えれば、だいたい現時点での賛成派の意見を網羅したことになると思われるが、この三つの視点はそれぞれ「メディア芸術」を
- 保存、研究の対象としての大衆文化
- 「現代美術」の1ジャンルとしてのメディアアート
- 振興、育成対象としてのコンテンツ産業
という、まったく異なった視点で捉えたものだ。浜野はこの施設の中身について「実際はまったくの未定」だと強調しているが、問題は同じ施設に対して推進派の中でもこれだけ認識にズレがあることのほうではないだろうか。
少なくとも「メディア芸術」とはなにか、その概念に基いてどのような施設を建設するのかといった点について、建設を推進/賛成の立場のひとたちのあいだでコンセンサスを形成していかなければ、「予算の無駄遣い」という批判に対してはっきりした回答は出てこないだろう。
小田切博の「キャラクターのランドスケープ」
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