このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

小田切博の「キャラクターのランドスケープ」

マーチャンダイジングの観点から、マンガ・アニメ・ゲームなど、日本の「コンテンツ・ビジネス」の現在を考える。

ヒーローはいつも間に合わない

2011年3月22日

(これまでの 小田切博の「キャラクターのランドスケープ」はこちら

チェルノブイリ原子力発電所の事故は、東日本大震災の渦中にあるいまから25年前、1986年4月26日に起きた。

それから1年が過ぎた1987年、アメリカの大手コミックス出版社、DCコミックスの人気タイトル『Justice League』誌で、バットマンをはじめとするスーパーヒーローたちがロシアの原子力発電所の危機を救おうとするストーリーが展開されている。

この物語は87年春にリニューアル創刊された同誌の2号から3号にかけて掲載されたもので、現在は『Justice League International』Vol.1に収録されており、比較的簡単に読むことができる(英語でだが)。

当時のアメリカはレーガン政権、ロシア(当時はソビエト連邦)はゴルバチョフ政権下にあり、冷戦が継続する中で『ランボー』が大ヒットしていた「強いアメリカ」の絶頂期である。こうした時代背景をベースにしたこのストーリーでは、核戦争で荒廃した異星の超人たちが地球の危険な核兵器を廃絶するために来訪し、いったんは地球のヒーローたちと対立しながらも最終的には協力して、事故を起こしたソビエトの原子力発電所の危機を救うさまが描かれている。

時期的に見てこれはあきらかにチェルノブイリで起きた事故をモデルにした作劇であり、現実には回避できなかったカタストロフは、この物語のなかでは異星の超人の一人が犠牲になることによって回避される。

不謹慎なようだが、あと半年か一年もすれば同じように、今回の日本の震災をモデルにしてスーパーマンやアイアンマンが地震や津波、原発事故の脅威からひとびとを救うコミックスがアメリカでは描かれるだろう。

まだ被災地の復興はもちろん、災害自体が収束しておらず、津波、地震を描いた映画の公開自粛まで決まった現在、こんなことを書くのは無神経に思われるかもしれない。だが、これは以前、自著『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』のなかで指摘したことだが、たとえば「911」の際、日本のマンガやアニメはあの同時多発テロ事件とその後の戦争を「ネタ」にした作劇をおこなっていた。それ以前も以後も、海外での災害や戦争などさまざまな不幸をモデルにした物語を、日本のエンターテインメントもこれまでずっとつくり続けてきている。

私はここでそうした創作態度、作品に対しそれを「不謹慎だ」と糾弾したり、作者に反省を促したいわけではない。そのこと自体はある意味で自然で当たり前なことなのだと思っている。

なぜなら、現実の不幸に対して物語のヒーローたちは常に「間に合わない」ものだからだ。

わかりやすいエンターテインメントとしてのヒーローたちの物語は、むしろ「どうにもならなかった現実」があるからこそ求められる。

チェルノブイリのときも、「911」のときも、テレビ画面の前で、雑誌の紙面上で、コンピュータのモニターの中で、リアルタイムで進行する事態に対し、いくつものもっともらしい解釈、それらしい論評がさまざまなひとびとによってなされていたことを私は覚えている。しかし、けっきょくはそれらの事件に「わかりやすい明快な解決」や「カタルシスのある爽快な結末」などはやってはこなかった。そこで述べられていた解釈や論評の多くは宙に浮いたまま忘れ去られ、次の事件が起きればまた似たようなことが繰り返される。当の事件そのものは当事国のひとびとにとってすら終わったんだか終わらないんだかよくわからないまま、日常の営為の中でなんとなく「過去の事件」になっていっただけだ。そのことを私たちはすでに知っている。

そうしたはっきりしない結末に対するモヤモヤした割り切れない感覚があるから、深刻な危機に直面しながらもキチンと納得のいくかたちで問題が解決してくれるヒーローの物語を、私たちは欲するのだと思う。

逆にいえば、事件が起きたときにメディア上を乱舞している言葉の多くも、不透明ではっきりしない事態をわかりやすいものにするための「先取りされた物語」になってしまっているように感じる。検証しようのない陰謀論や、刻々と変化する状況の中での政府や関係機関の対応に対する各種の解釈や論評に対し、多くの場合、私は「自分が理解できる物語の枠内に現実を押し込めて安心しようとしているだけなのではないか」という感想を持つ。

そこに描かれているのは、じつはヒーローたちの物語と同様に、事後的に解釈された「わかりやすい解決」でしかない。

テレビではじめて津波の映像を観たとき、私は「スーパーマンがいればな」と一瞬思った。これまでこうした自然災害からひとびとを救うスーパーヒーローの物語を数多く読んできたからだ。しかし、当然そんなことを本気で期待したわけではない。

私は、自分がスーパーマンもいなければ巨大ロボットも存在しない世界に住んでいることを知っている。

そこにはおそらくわかりやすい悪役もいないし、密かに企まれている恐ろしい陰謀も存在していない。今後、私たちが見出すことができるのは、せいぜい現実感覚の麻痺したエゴイストの群れや矮小な利権を求めておこなわれたサボタージュや隠蔽といった、どこか納得のいかない卑近で曖昧なものだけだろう。

事故現場で現在進行形で命を張っているひとびとや被災地で不自由な暮らしを強いられているひとたちに対しては申し訳ないような感覚もあるが、どのようなかたちであれ、現在の状況はいずれ落ち着く。

現在、チェルノブイリ原子力発電所の跡地は観光地になり、ワールドトレードセンター跡地にも新しい建築物が建てられようとしている。同じように、この震災もいずれは「割り切れない過去の事件」になっていく。

いまこの瞬間に限っていえば、私たちは早くそうなってくれることをこそ望み、祈るべきだろう--わかりやすい絵空事の物語を求めるのはそうなったあとでいい。

スーパーマンがひとびとを救うのは、いつだって事件が終わったあとなのだから。

フィードを登録する

前の記事

次の記事

小田切博の「キャラクターのランドスケープ」

プロフィール

小田切博

ライター、90年代からフィギュアブームの時期に模型誌、フィギュア雑誌、アニメ誌などを皮切りに以後音楽誌、サブカル誌等、ほぼ媒体を選ばず活動。特に欧米のコミックス、そしてコミックス研究に関してはおそらく国内では有数の知識、情報を持つ。著書として『誰もが表現できる時代のクリエイターたち』、『戦争はいかにマンガを変えるか』(ともにNTT出版刊)、共編著に『アメリカンコミックス最前線』(トランスアート刊)、訳書にディズニーグラフィックノベルシリーズがある。

過去の記事

月間アーカイブ