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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

第3回 ケインズ理論は、やっぱり「変」だった。

2007年6月 5日

1990年のバブル崩壊から突入した平成不況は、一時の深刻な状態からは何とか脱したものの、まだまだ予断を許さない段階にある。多くの経済指標の針先が景気回復の方向を指し示してはいるが、国民はまだ半信半疑のままだ。80年代に謳歌しまくった好景気の、その絶頂から突然足を踏み外して落っこちた穴の深さと暗さが、生々しく記憶に残っているからだろう。どんな良い指標も、それが意味しているのが「今日のこと」だけで、「すぐ明日のこと」でさえないのが、身にしみてわかっているからだ。

経済パフォーマンスの低下の原因はおおまかにいって2種類がある、と経済学では考える。一つは、「完全均衡」における低下で、もう一つは「不完全均衡」での低下である。この2種類の違いは、前者が「需要と供給がつり合ったままでの低下」であるのに対し、後者は「需要と供給が乖離した形での低下」である、ということだ。

完全均衡下での経済パフォーマンスの低下というのは、(天災など)なんらかの理由で生産設備が損壊したり、労働者が(享楽的になったなどの)なんらかの理由で勤勉さや技能を失ったり、あるいは輸入原材料が高騰したりなどの、具体的な、実物的な、ある意味「目に見える」理由で、生産力そのものが低下することで起きる。この場合の対策は簡単だ。何かの間違った慣習や制度などが、その強制力によって、競争を遮ったり無駄を保持し続けたりして効率的な生産の達成を阻害しているならば、それを除去すればいいだけである。これがちょっと前によく耳にした「構造改革」というやつだ。また、そういう強制力がどこにも働いていないにもかかわらず経済が落ち込んでしまったのなら、「全力を尽くしているけどこれが実力」とあきらめるしかない。それ以上のパフォーマンスを求めるのは、「ないものねだり」にすぎないからだ。完全均衡にある限り、人々は与えられた環境下での最適選択として労働量を決めているし、設備・機械などのいかなる資本も利用可能な限りにおいて最も効率的に稼動しているから、それを変えようとすると誰かが損をする。(専門的に説明すると、需要曲線も供給曲線も、市場参加者の利益を最大化するような状態を表現しているからだ)。要するに、そんなときは、どうにもならないってことなのだ。

でも、不完全均衡の下で経済が落ち込んでいる場合は、そうではない。不完全均衡とは、どうしてだか、需要が供給を下回ってしまい、供給が余ってしまった状態をいう。「供給が余ってしまっている」ということの意味は、働く能力も意欲もある人の労働供給がなぜだか「いらない」といわれていることであり、きちんと動くりっぱな設備や機械の生産能力が稼動しないまま放置されていることである。これが社会にとって由々しき非効率であることは、誰でもわかるだろう。(専門的にいうと、経済が供給曲線上にない状態で、供給側の最適化がなされていない、ってこと)。

経済学に通じていないビジネスマンは、「需要と供給が一致しないなんて普通じゃん」、と疑問に持つかもしれないから補足しよう。確かに、生産した商品は、時に即日完売したり時に売れ残ったりする。このように「瞬間的には」、需要と供給の乖離が生じるのが一般的だ。需要と供給が常に一致しているなんて、じゃんけんで延々と「あいこ」が続くようなもので、そんなことはありえない。でも、経済活動においては、じゃんけんとは違って、需要と供給がずれた場合、価格が変化することを通じて、需要と供給がにじり寄って行くメカニズムがある、そう考えられている。供給が需要を上回っているなら、価格がだんだん低下して、それが供給を減退させ需要を刺激し、両者を近づけていく。専門のことばでこれを「模索過程」という。だから、需要が供給を下回ることが無視できない期間続くことなんかありえない、そう考えるのが伝統的な経済学(新古典派経済学と呼ばれてる)の立場なのだ。そして、このような価格の伸縮を通じて実現されるつり合い状態こそが「完全均衡」なのである。

このように考えると、需要が供給を下回り続ける「不完全均衡」、それが原因で起きる「不況」や「恐慌」とはいったい何なのか、そんなものが現実にあるのか、そういう疑問がわいてくる。でも、こういう不況や恐慌は、歴史家や政治家の間では、経験的にその存在が認められていたみたいだ。他方、学問の世界では、不完全均衡の存在の可能性、そしてそのメカニズムを、きちんと「論理的」に「数理的」に示そうとした研究はたぶん一つしかない。それが、ケインズの『一般理論』なのである。

ケインズは、需要が供給を無視できない期間下回る「需要不足による不況」というのを数理的な枠組みで「論証」してみせた。しかも、その方法論は、伝統的な経済学とは全く相容れないものだった。それだけではない。彼は、不況の解決策まで提示してくれた。その一つが「政府による財政政策」と呼ばれるものである。その原理はとても簡単。なんだか知らないが供給が需要を上回って、活かされない生産要素(労働力とか資本とか) がふんだんに存在するわけだから、政府がその需要者、つまり、使い手になればいい、そういうことなのだ。政府が公共事業を行って、余っている労働力や資本を利用して追加的な富を生み出すこと、それが財政政策なのである。

このような考え方は、「政府による経済活動への介入の有効性」を主張するものであり、「自由な競争と市場メカニズムでこそ最適な社会が実現される」、とした伝統的な経済学とはまっこうから対立するものとなった。しかし、このケインズの考え方は、1930年代の大恐慌を経験した人類には、拍手をもって迎え入れられ、世界中に流布することとなったのである。現在の日本でも、ケインズ理論は基礎的な教養の座にあり、多くの大学の経済学部で教えられ、公務員試験の科目の一つでさえある。

ところが、このようなケインズの考え方には、強烈な副作用も潜んでいたのだ。

その一つは、政治家や官僚による汚職の横行である。ケインズの財政政策は、彼らに巨大な経済権力を付与することになった。そして市民は、「景気対策」の大義名分の下に行われる公共事業にまつわる収賄・汚職事件を数々目撃することとなったのである。

もう一つ見逃してはならない副作用として、公共事業の多くが環境破壊の要因となったことがあげられる。干拓事業やダム工事が、景気対策のために強引に施行され、それが環境を毀損し、住民の反対運動を巻き起こしたことは記憶に新しい。政府が不況下で公共事業を行う場合、民間企業の営業する部門に参入してその仕事を奪うのでは本末転倒である。だから、基本的に民間では手を出しようのない事業を執り行う。このとき、自然環境に手をつけることになりがちである。なぜなら、自然環境を改造するような事業は、大規模すぎて民間には着手しにくいし、何より自然環境は公共のものであるから、私企業による私物化的利用が難しいからである。公共事業なら、このどちらもそれほどの困難なくクリアできる。そもそも景気対策なのだから採算性は度外視されるし、環境という公共物を「市民の代表」である公共部門がいじくることは、それなり筋の通ることだからだ。

このように、ケインズの考え方を後ろ盾にした「経済権力の肥大化」や「環境破壊」が進行する一方で、学問の側では別の事態が進行していた。それは、「ケインズの考え方には、深刻な不備がある」という批判の高まりだった。

ケインズの著作『一般理論』は、ヒックスという経済学者が整理整頓して作ったIS-LMモデルという形式で広まっていった。(このモデルについては、次回以降に詳しく説明する予定)。しかし、このモデルの数理的・論理的整合性を真剣に検討した多くの経済学者たちが、伝統的な経済学と同じような論理的・数理的にすきのない理論として完成させることは不可能であることを発見していったのである。その作業の中で、ケインズの考え方は次第にその輝きを失い、今では多くの(論理的・数理的にものを考える習慣のある)経済学者は、ケインズの理論は深刻なほど不備である、と考えている。実際、(学部とは異なり)大学院ではIS-LMモデルはほとんど教えられていないし、このモデルを下敷きにした論文が学会で発表されることは、(少なくとも経済理論の学会では)全くない。

ここからは、ぼくの個人的な話になる。

ぼくは、三十代になってから経済学の勉強を始めた。その動機は、ケインズ経済学をきちんと理解したい、ということにあった。ケインズ理論と初めて出会ったとき、こんな「魔法のようなこと」が社会にはあるんだ、とすごく高揚し興奮した。そして、ただの一介のケインズファンではなく、きちんと論理的に数理的にケインズ理論を身に着けたい、そういう思いで、研究者の道に足を踏み入れた。ところが、経済学の専門的な訓練を積むに従って、ケインズ理論はどんどんぼくにとって「わけのわからないもの」に姿を変えていき、しまいには「不備がある」どころか「デタラメ」だとさえ思うようになった。ケインズのいう不完全均衡というのは、単なる幻・亡霊の類ではないか、と感じ始めていた。まるで、一目惚れした人とつきあってみたら想像してた人とぜんぜん違う人物であることに気づいてしまった、みたいな。

そんな中で、平成不況が起きた。デフレを伴う不況は歴史的には稀なできごとであり、(何らか形で犠牲になった人には申し訳なく思うが)、経済学者になったばかりでこんな稀な景色を現実に見ることができたのは幸運だったといっていい。不況の渦中、経済学者や経済評論家が、不況の原因について激しい論争を行った。基本的には、「完全均衡下での不況」か「不完全均衡下での不況」か、という議論だったように思う。ぼくは、前者を主張し構造改革を推奨する人々にはびた一文同意できないものの、後者側の人々にも違和感を持っていた。なぜなら、「需要不足による不況」を主張する人たちの多くが、ぼくには納得できないIS-LMモデルをバックボーンにして論説しているように感じたからである。直面している説明困難な現象を説明するのに、霊やUFOや超能力の存在がどんなに都合よくとも、それが完璧に無矛盾な科学的な論理体系でないならば、ぼくには受け入れることができないのだ。この性癖は、ぼくが数学を志した過去を持つことから来ているのだと思う。数学における論証では、ほんのちょっとした飛躍や誤謬が、ありもしない定理をあたかもあるかのように見せてしまう、そういうことを何度も実体験して来たからだ。「魔法のような」結果の多くは、飛躍のある論理、矛盾した前提、見落としのある場合わけなどによってもたらされた単なる幻にすぎなかった。

こんなぼくだから、大学の講義でマクロ経済学を担当することになり、自分がおかしな体系だと思っているIS-LMモデルを教えなければならなくなったのは、とても苦しかった。他人が何を信じようが(それが思想・信条なら)それに文句をいうつもりはないが、自分が間違っていると思っている理論をあたかも正論のように学生に教えるのは、耐え難い苦痛だった。

そんな中、今年、ぼくにとっての「大事件」が起きた。それは小野善康『不況のメカニズム』(中公新書)が刊行されたことだ。この本は、ケインズ『一般理論』をつぶさに再検討したものであり、しかも、ぼくの悩んだ疑問がすべて、ケインズ理論の誤謬・飛躍・不完全として明快に記述されていたのだ。一流のマクロ経済学者である小野も、同じ点を問題としていたのである。ケインズ理論を理解できないのは、ぼくがアホだからではなく、ケインズ理論に「不備がある」からでもなく、それが飛躍や誤謬や矛盾をはらんでいるからだった。少なくとも一人のりっぱな業績を持つ経済学者が、ぼくと同じ問題意識を持っていることは、ぼくに勇気を与えてくれた。小野はケインズの「需要不足による不況」という考えには基本的に同意しながらも、ケインズの議論がちぐはぐで論理的な不整合性を抱えていることを、原典に一つ一つあたりながら検証していったのが、『不況のメカニズム』なのである。まだ、刊行されたばかりだが、この本が長く読み継がれる「古典」となるであろうことを、もう保証してしまえる。

おっと。ここまでですでにかなり長くなってしまっている。続きは次回のお楽しみということにしよう。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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