魅力的な都市とは〜ジェイコブスの四原則
2008年1月24日
前々回と前回は、宇沢弘文の提唱する「社会的共通資本」のことを書いた。「社会的共通資本」とは、自然環境、社会インフラ、それに教育制度・医療制度のような社会制度を合わせたもののことである。これらは、市民の生活に必要不可欠であり、その希少性と公共性から、私的所有や自由な価格取引が認められず、その適切な供給と制御によってこそより人間的で快適な経済生活を設計することができる、そう宇沢は主張しているのであった。
前回までは、この「社会的共通資本の理論」の根幹を成す基礎の部分を解説したので、今回からは各論に入ることとしよう。
今回は、「都市」について論じる。つまり、「社会的共通資本」という観点から見たとき、どんな都市が好ましいのか、という問題を、宇沢弘文と間宮陽介の研究からまとめることにする[*1]。ちなみに間宮陽介は、宇沢の弟子であり、現在は京都大学の教授である。日本の言論界の代表的な論客で、最近、ケインズ『一般理論』の新訳を岩波文庫から刊行したことでも話題である[*2]。
さて、社会的共通資本の観点からいえば、「都市」は社会的共通資本を機能させる基本的な単位であると考えていいだろう。したがって、「都市」がどのように生成されているか、あるいは、設計されているかは、経済的なパフォーマンスがいかなる水準になるかに対して非常に重要なカギとなると考えられる。
都市設計者が陥りがちな誤りは、安易な「機能優先の合理主義」で都市を設計してしまう、ということだ。どういうことかというと、物理的な時間や物理的な空間だけを尊重して設計するなら、「道はまっすぐなほうがいい」、「道路は格子状がいい」、「区域はオフィス地帯、工業地帯、商業地帯、住宅地帯などのように、機能別になっていたほうがいい」、などと推論しがちであるが、これが誤りなのである。このような発想で都市を構成することを「ゾーニング」と呼ぶ。
ル・コルビジェやミース・ファン・デル・ローエなどがこのような「ゾーニング」の発想を持った典型的な都市デザインの巨匠であった。例えば、コルビジェは、「都市とは純粋な幾何学である」といい、格子状に伸びるまっすぐで幅広い道、所々にそびえる高層ビル、十分距離をとった建物の間に緑地帯が広がる、そんな都市を実際にデザインして、「輝ける都市」と名付けた。ところがこのような思想が実践に移されたプルーイット・アイゴーやチャンディガール、ブラジリア等々が次々と劣悪な失敗作の都市となってしまったのだ。なぜなら、それらの都市は、とても暮らしづらく、人々を憂鬱にし、犯罪の多発する危険な都市となってしまったからだ。
では、なぜ、この一見もっともらしく見える「機能優先の合理主義」が失敗に陥ったのだろうか。それについて間宮は、次のようにいっている。「コルビジェが想定する人間は、じっさいに生活を営んでいる人間ではない。微妙な心理や繊細な感受性を備え、さまざまの経歴を持った人間ではなく、生物学的な意味での人間である」。
この間宮の指摘するコルビジェの失敗の原因は、ジェーン・ジェイコブスというアメリカの都市学者の研究から演繹されたものであった。ジェイコブスは、アメリカの代表的な都市について、第二次世界大戦前後の都市開発を具に調査・分析し、魅力的な都市の備える4条件を見出した[*3]。それは次のようなある意味、逆説的にも見える原則たちであった。
第一は、「街路の幅が狭く、曲がっていて、一つ一つのブロックの長さが短いこと」。第二は、「古い建物と新しい建物が混在すること」。第三は、「各区域は、二つ以上の機能を果たすこと」。そして、第四は、「人工密度ができるだけ高いこと」。これら四条件をすべて満たす都市こそが魅力的な都市であり続けている、ということをジェイコブスは発見したのである。
この四条件は、すべてコルビジェの「輝ける都市」と正反対の性格をしていることがすぐに見て取れるだろう。そして、「自分の大好きな街」を頭に思い浮かべよ、と命じられたならば、ほとんどの読者の思い浮かべる都市はこの四条件を満たしているのではあるまいか。また逆に、冷え冷えとして気分を滅入らせる街を思い浮かべよ、と言われれば、この原則の何かを(あるいはおいおうにしてすべてを)満たしていないことに思い当たるのではなかろうか。
実際、宇沢は、ある日本の大学学園都市を失敗例としてあげている。その大学は、自然発生的にできたものではなく、計画設計されたものであり、しかもその設計思想は多分にコルビジェ的でジェイコブスの4原則にみごとに反していた。そして、その大学は創立当初、構内での自殺者が異例に多いことで有名となったのである。
このようなジェイコブスの4原則を、「経済学的な合理性」からはずれているように思う読者もいるかもしれない。そして、「だから経済学なんて机上の空論なんだ」と勝ち誇るかもしれない。しかし、それは性急な結論である。「経済学的な合理性からはずれている」のではなく、「難しすぎて既存の経済学ではまだ十分に分析できない」と判断するのが正しい態度なのだ。
一般に現状の経済学は、「多機能なもの」、を分析するのが苦手である。
株式市場がその代表例といっていい。株式市場は、株式に「いつでも売買できる」という機能(これを流動性という) を付与し、この機能のおかげで株式保有がより魅力的なものとなり、株式会社制度を下支えしているといっていだろう。他方、このような「いつでも売買できる」という性質は、株所有になんら興味のない人間にも「値動きを利用して利益を稼ぐ」という投機のチャンスを与える。また別の人たちには、企業買収(M&A)のチャンスをも与えるのである。このような「多機能性」は、様々な問題を引き起こす原因でもあるが、それは株式市場がより魅力的なことの副作用だといっていい。そして、株式市場についての経済学がまだまだ未成熟な段階にしかないのは、このような「多機能性」を分析するのに十分有効な手法がないから、といえるのである。
社会的共通資本を制御する装置としての「都市」をどう設計するのがいいか、どうすれば「最適な都市」を構築できるか、そのような問題が未解決なのは、同じように、経済学がいまだに成熟の途にあることの証拠であり、身内のひいき目でいえば、経済学の新しい可能性のありかを示しているのである。
[*1] 間宮陽介の論文、『都市の思想』 宇沢弘文・堀内行蔵 編『最適都市を考える』東京大学出版会所収、を主に参考にしている。
[*2] ちなみに世田谷区の市民講座で宇沢先生のゼミに参加したときは、間宮先生がアシスタントをしてくださった。今思えば、なんと豪華な市民講座であったことだろう。
[*3] Jacobs, J., 1961, The Death and Life of Great American Cities, London: Jonathan Cape.
小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」
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