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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

「ワリカン」システムのいたずら〜独占は「悪事」なのか?

2007年11月30日

(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら

  前回は、ハーディンの有名な論文「コモンズの悲劇」について解説した。これは、「オープンアクセスな共有地(コモンズ)は、必然的に荒廃する」ということを主張するものだった。どうしてそうなるか、というのを一言でまとめるなら、(詳しくは前回を読んでね)、「コモンズで得られる利益は独り占めできるが、コストのほうはみんなでワリカンだから」ということである。コンパをワリカンにすると、みんなが競って高い飲み物や料理をオーダーして結局一人あたりの支払いも高くなってしまうのと同じ道理だ。

 実は、たいていの経済問題には、この「ワリカン」に類したシステムがつきものなのだ。そのことを今回は、有名な「独占モデル」を使って解説することにしよう。

 「独占」は、経済学部の学部生がミクロ経済学で最初に習う「市場の失敗」である。ぶっちゃけていえば、「競争は社会を最適な状態に導くけど、独占は逆に非効率をもたらすよ」、ということである。ただ、勉強が生半可だと、「独占を行う企業は悪事を働いている」という風に誤解してしまいがちだ。そこで今から、「そうじゃないぞ」、ということを説明しよう。結論を先に言えば、コモンズの悲劇と同じように、独占にも「ワリカン」のシステムがどっかに潜んでいて、そのシステムのいたずらでまずい結果に陥る、そういうことなのだ。

 さて、市場における企業のありかたとして、「プライステイカー企業」と「独占企業」を比較しよう。
 今、「完全競争市場」と呼ばれる市場で、プライステイカー企業というのが生産活動をしているとする。これは、市場に同質な製品を供給するやまほどの企業がひしめき、それらの企業が供給した総供給量が消費者の需要量と一致する価格(つまり、供給量が完売する価格)に取引価格が決定する、としよう。このとき、1つ1つの企業は「大海の一滴」にすぎず、しかも、そのことを各企業は自覚している、ということも同時に仮定する。

 そのような「自覚」は、企業の生産計画に具体的にどう影響するのだろうか。
 これらの企業は、生産に際して、自分の生産量は全体の総供給量に比べて微々たるものにすぎないと見なしている。それゆえ、自分の生産量の増減は市場価格を変化させず、どんな量の商品を供給しても必ず市場で完売する、ということを「想定して」、生産計画を立てることになるのである。

 重要なのは、これが決して、「各企業の供給量が変化しても現実として価格が変化しない」ということは意味しない、という点だ。実際は、ある程度の数の企業が一斉に供給量を増やせば、当然市場価格は(需要と供給がつりあう形で)下落する。ここでは、各企業が「自分の増産による価格下落を勘定に入れないで生産計画を立てる」、ということをいっているにすぎない。これは、「自分の1票ぐらいでは選挙結果は変わらない」と有権者が考えることと、「本当に選挙結果が変わらない」こととの違いに似ているといえるだろう。

 さて、プライステイカー企業が今、市場価格10万円の製品を最適な生産量として50単位生産して出荷しているとしよう。そして、どうしてこの企業があと1単位増産しようとしないのか、その理屈を考えることにする。それは、この企業があと1単位増産すると、それを生産するのにちょうど10万円の追加的費用がかかってしまうからである。実際、もしもこの追加的費用が9万円だったら、企業は増産を決断するだろう。なぜなら、自分があと1単位供給量を増やすことで、市場価格が下落するとは「想定しない」ので、生産した製品の販売でその価格分の10万円を手にすることできると見積もる。他方、生産には9万円しかかからないので、その結果、利潤が1万円分増えると「推測する」からである。(この推論は、経済全体を観ている視点からは誤りだが、大海の一滴の企業の立場では正しい) 。したがって、最適な生産量を取っているなら、この追加的費用がちょうど10万円で、もはや増産分が正の利潤をもたらさなくなっている状態なのは当然なのだ。

 しかし、これがこの企業に最適であるばかりでなく、社会にとってもまた最適であるからうまくできている。どうしてか。
 この製品の市場価格(完売価格)が10万円ということは、「この製品を買った人たちの中で、最もこの製品に低い価値評価をしている人」が見出している価値が10万円だということである[*1]。その状態の中で、もう1単位製品を増産しそれを誰かに(強制的に)販売すると、10万円より大きいコストで製品を生産し、これに10万円より低い価値しか見出さない人が消費することになる。これはいってみれば、合計では10万円より高い部品を組み立てて、10万円より安い製品に作り変えていることと同じであって、社会全体でみて非効率なのは明らかだろう。だから、価格と追加的費用が一致する生産量が社会的に最適な状態をもたらすのである。

 このように、完全競争市場でプライステイカー企業が利己的な利潤動機で生産活動を行い、市場において需要と供給の一致する価格で取引を行うことは、社会的に見て最適な結果をもたらす。これこそが、市場経済のドグマなのだ。

 ところが、「独占企業」の場合は、こうはならない。
 「独占企業」とは、ライバルなしに、たった一社で「独占市場」に製品を出荷している企業である。「プライステイカー企業」との決定的な違いは、独占企業は需要曲線を知っており、自分の供給量次第で市場価格がどう動くかを正確に読んで生産を行うことにある。だからといって、独占企業がどんな横暴でも通せる、と考えてはいけない。独占市場でも、結局、供給量と消費者の需要量が一致する価格に取引が決まる。だから、べらぼうに高い価格で大量の製品を供給すれば、当然売れ残りが出て損失を被る。独占企業も、市場というフェアな土俵の上でベストを尽くす、という点では、プライステイカー企業となんら変わらないのだ。

 このような相違点のゆえ、独占企業の最適生産量に関して、プライステイカー企業のそれとは異なる法則が成立することになる。

 今、この独占企業も先ほどと同じく、市場価格が10万円の製品を50単位生産しているとしよう。このとき、この企業があと1単位増産するのにかかる追加的費用は10万円だろうか。実はそうではない。もっと低い額にならなければならない。それがプライステイカー企業との違いなのだ。

 なぜだろう。
 それは、独占企業が、あと1単位の増産をすると、市場価格が下落してしまうことを「念頭に置いて」生産しているからである。例えば、次の1単位を生産して出荷すると、市場価格が0.1万円下落して、9.9万円になると仮定しよう。このとき、独占企業は二つのことに気を配らなくてはならない。第一は、増産しようとしている51単位目が10万円では売れず9.9万円になってしまうことだ。しかし、これはたいした問題ではない。価格下落による損失は無視できるほどにすぎない。大事なのは第二の点である。それは、価格の下落が、この増産しようとしている最後の1単位だけではなく、すでに生産を見込んでいる50単位の製品全部に及ぶことである。このことによる損失は、50単位×0.1万円=5万円であるから塵も積もって無視し得ない額になる。したがって、この企業の51単位目の製品の増産は、9.9万円の追加的売り上げと5万円の価格下落損失をもたらすので、正味4.9万円の利潤増加しかもたらさないのである。だから、50単位がこの企業の最適な生産量であり、51単位目を作らないのが正しい態度だとすれば、この企業があと1単位の増産のためにかかる追加的費用は製品価格の10万円ではなく、9.9万円でもなく、4.9万円でなければならないのだ。

 このように、独占企業の最適生産量においては、製品の市場価格と1単位増産するために追加的費用は、大きくずれていて、後者のほうがずっと小さいのである。

 このことは、社会に非効率をもたらす。それは、プライステイカー企業のときの論法を裏返せばすぐにわかる。合計4.9万円の部品を組み立てると9.9万円の価値の製品(そういう価値を見出している人が存在するような製品)を作ることができるのに、それが実現されないからである。

 では、なぜ、このような「社会にとって良いこと」が、独占市場では実行されないのだろうか。独占企業が何か悪事や陰謀を働いているのだろうか。

 そうではない。どちらかといえば問題は、「市場取引」というシステムのほうにあるといっていい。
 市場取引というシステムには、「一物一価」という原則がある。どんな商品も同じ価格で販売されなければならない、という原則である。つまり、ここにある種の「ワリカン」システムが施行されているのだ。そのせいで、独占市場では、「組み立てるだけで追加的な価値が生まれる」生産が実行されないことになるのである。つまり、独占市場はその「ワリカン」システムのせいで、効率性を逸してしまっているのだ。その証拠に、「一物一価」ではなく、消費者それぞれに「個別価格」で販売していいならば、結果は異なる。例えば、51単位目を4.9万円で生産し、そいつだけを8.9万円で販売することで、独占企業は4万円の追加利潤を得るし、そいつに9.9万円の価値を見出している消費者も1万円分の余剰を得ることが可能であるからだ。ポイントは、「市場取引」と「独占」とがとても相性が悪いことにあり、決して、独占企業が悪事や陰謀を働いているわけではないのである[*2]。

 この独占のメカニズムを理解できたなら、前回解説した「コモンズの悲劇」と同じ構造になっていることに気がついてくれるに違いない。「コモンズの悲劇」では、「全体に一斉にコストが均等化される」ことが、参入者に正の利益を生むため、過剰参入を促し、全体でみれば大きな損害をもたらすことになる。つまり、コモンズという「ワリカン」システムとオープンアクセスというシステムの相性が非常に悪い、ということだ。他方、独占のほうでは、「一物一価」という「ワリカン」システムのせいで、社会全体の利益をまだ増やせるにもかかわらず、独占企業が増産をストップしてしまい、社会に非効率をもたらしている。
 以上のことを少し思想的ないいまわしに変えるなら、こういえるだろう。

 「競争」が万能なのではない。正しくは、「市場取引」という制度を使って社会を効率化したい場合には自ずと「競争」を前提にしなければならない、というべきなのだ。

* * * * * 
[*1] まさにこれが「需要関数が減少関数である」ことの意味である。あるいは、価格と限界効用が等しくなっていること、と言い換えてもいい。
[*2] このことをかなり乱暴に解釈するなら、独占企業と消費者の間に「情報の非対称性」があり、情報を持っている独占企業が戦略的に行動するため、両者ともに非効率性が発生している、ということである。これは 前々回の話とも符合する。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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