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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

ボーナスは、モラルハザードへの対抗策なのだ〜契約理論の第一歩

2007年11月14日

(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら

 前回 は、「リスクシェアリング」という考え方を紹介した。

 この理論によれば、給与が固定給なのは、法律でそうなっているわけでも、経営者が労働者を搾取しているわけでもない。要は、経営者が「リスク中立的」で、労働者が「リスク回避的」な場合、すべての利益の変動は経営者がかぶり、労働者の取り分のほうは一定にするというのが双方にとって最適な契約だからそうなる、ということだった。

 具体的には、以下のような状況で考えた。
「企業はリスク中立的な経営者1人とリスク回避的な社員1人の雇用契約から成る。雇用契約が成立した場合、毎月の利益は50万円か30万円かどちらかが五分五分の確率で起こるとし、どちらが起きたかは経営者にも社員にもはっきりわかるものとする。(成立しなければ、経営者の利益はゼロである)。また、この社員は10万円未満の月給なら働くのをやめようと考えている。」

 この場合、「経営者が10万円の固定給を提示し、社員はそれを飲んで働く」というのが双方にとっての最適な契約であった。

 今回もこの状況をすべて踏襲するが、一部、設定を追加しよう。

 今、社員は努力することも怠けることもできるとする。怠けると上記の設定と同じく、利益は50万円か30万円かどちらかが五分五分の確率で起こるのだが、努力をした場合は、高利益50万円の起きる確率が0.9と、ぐっと大きくなる(低利益30万円の確率は0.1に下がる)とするのだ。このよう環境では、社員が努力しても怠けても、高利益・低利益両方ともが起きるので始末がわるい。結果だけを見ても、社員ががんばったか怠けたか、経営者にわからないからである。(実際は、長い間観察すれば、低利益の頻度から怠けている社員を摘発できるだろうが、企業はそんな悠長なことをしてられないと仮定しておく)。

 このように、「努力したか怠けたか」という情報について、社員本人だけがそれを知っていて、契約相手である経営者にはわからないようなケースは、「情報に非対称性がある」と呼ばれる。今回は、このような「情報の非対称性」があるケースで、社員に努力させるにはどんな契約を結ぶべきか、そういう問題を考えるのである。

 まず、努力のコストはタダではないので、10万円の固定給の提示は問題外である。社員は、努力をすると疲れたりストレスが生じたりするので、働かなくとも得られる10万円にいくらか上乗せをしなければ、努力するはずがない。その上乗せ分を今、2万円としておく。つまり、社員は12万円の固定報酬より少ない報酬を提示された場合、努力をやめるか、そもそも働く契約を結ばないか、どちらかになると仮定しよう。

 さて、ではこのとき、「成果に関係なく12万円の固定給を提示する」というのは、経営者の最適な戦略になるだろうか。

 もちろん、そうではない。あたりまえだ。

 成果に関係なく同じ給与で、しかも、怠けてもそれがばれないなら、社員は喜んで怠けるほうを選ぶに決まっている。説明の必要もないが、一応「経済学的」にいうと、この社員は努力するコストを2万円と計上しているわけだから、そのコストをコミにした固定給12万円の契約の中で怠ければ、その上乗せ分の2万円を労せずまるまるせしめることができるので、それが社員の最適戦略なのである。このことを専門のことばで「モラルハザード」と呼ぶのだ。 

 「モラルハザード」というのは、自分の私的情報が他人にはわからないことを利用して、自分に有利な戦略的行動をし、他人に非効率性を与えることをいう。不良債権に関する銀行救済の際、この「モラルハザード」ということばがさかんに話題にされたのは記憶に新しい。銀行は、経営努力しても、リスキーな経営をしても、それが当局にはわからず、どちらにしても国によって救済されるなら、リスキーな経営で大きな利益を目指すほうがいい。だから安易な銀行救済は問題である、そういった使われかたであった。

 話を戻そう。
 そんなわけで、固定給の提示ではダメだというなら、経営者は成果に応じて差をつけなくてはならない。では、高利益・低利益での各給与にどのくらい差をつけたらいいのだろうか。ここで、「差をつけるならちょっとでもいいだろう」、というのは、ぜんぜん考えが甘いのだ。ほんのちょっとの差しかないなら、社員は相変わらず怠けてしまうのである。それはなぜだろうか。

 今、12万円の固定給からちょっとだけ差をつけてみよう。例えば、高利益が出た場合の給与は12.1万円、低利益の場合は11.3万円という契約を行ったとしよう。このとき、社員が努力した場合の平均的な給与は12.02万円であり[*1]、リスク回避的な社員にとって、この契約は固定給12万円とかわりばえしない好ましさだと仮定する。(リスク回避的である場合、変動しない報酬なら確率的平均値が少々下がってもいいという性向を持っていることを思いだそう。詳しくは 前回を読んでね)。

 他方、社員が怠けた場合の給与の平均値は11.7万円である[*2]。リスク回避的な社員にとってのこの契約と同等な固定給を(確率的平均値よりやや低い) 11.5万円だったと仮定しよう。このとき、社員は努力することを選ぶだろうか、怠けるほうを選ぶだろうか。

 努力するほうを選ぶなら、2万円の努力のコストをかけた上で固定給12万円と同じ好ましさを得ることになるから、これは10万円の固定給の好ましさと変わらない。すると、怠けたときに得られる給与と同価値の固定給水準11.5万円よりずいぶん低くなってしまう。だから、社員は喜んでさぼるのである。

 したがって、経営者は、成果に対してもっともっと大きな差をつけなければならない。今、高利益のときの給与x万円と低利益のときの給与y万円を提示するとする。このとき、社員が努力した場合の給与(確率0.9でx万円、確率0.1でy万円)が固定給12万円と同じ好ましさになるようなx, yの組を選ぶのが正しい。次に、社員が怠けた場合の給与(確率0.5でx万円、確率0.5でy万円)を同程度の好ましさの固定給で表した額をb万円としよう。このbが(12−2=)10以下にならないと、努力するより怠けたほうが得なので、社員に努力させることは不可能である。したがって、経営者の最適な契約は、ちょうどb=10万円となるようなx, yの組、ということになる。さきほど具体例から、このようなx,yの組では、数値に大きな差がついているばかりではなく、社員に与える給与の平均値(0.9x+0.1y)もけっこう高額になることが想像されるだろう。

 この契約は、経営者と社員両方にとって、非効率な結果をもたらすとわかる。まず経営者は、社員にけっこう高い「平均給与」を約束することになる。情報の非対称性がなければ、12万円の固定給で済み、自分の平均所得は(48−12=)36万円となるはずなのに[*3]、それよりもずっと高額を社員に与えるので、自分の所得はその分減少してしまうのだ。また、社員のほうは、情報の非対称性がなければ経営者に引き受けてもらえるリスクの一部を自分で引き受けなければならない[*4]。

 以上、かなりテクニカルな解説になってしまったので[*5]、ぶっちゃけた直感的解釈を最後に付け加えておくことにしよう。

 要するに、社員が怠けてもそれがばれないなら、経営者は社員にまじめに働いてもらうために、かなりのコストを負担しなければならない、ということだ。言い換えるなら、人の持っている私的情報(努力したか怠けたか) をあらわにすることはとても高くつく、ということなのだ。その意味では、前々回で解説したグローブスメカニズムと同じメカニズムだといっていい。

 一昔前、日本の企業の多くは、「年功序列・終身雇用」という制度を実施していて、国外からは「日本的経営」などともてはやされていた。そのシステムの中に、「ボーナス制度」というのも加わっていて、これも世界にもあまり例を見ない制度だそうだ。経済学者は、これらのシステムを、きちんとした合理性を持ったシステムだと考えている。年功序列・終身雇用は、リスクシェアリングであり、ボーナス制度というのは、給与体系の一部に成果主義的な契約を持ち込むことで、モラルハザードを防ぐ知恵だと説明するわけである。

* * * * *
[*1] 給与の期待値=12.1×0.9+11.3×0.1=12.02
[*2] 給与の期待値=12.1×0.5+11.3×0.5=11.7
[*3] 社員が努力すれば、利益の期待値は50×0.9+30×0.1=48万円となる。
[*4]効用水準でいえば、12万円の固定給といっしょだから、これは少しはみ出し気味の解釈ではある。
[*5] とはいっても、均衡をちゃんと解いていないので、これは不完全な解答である。完璧に知りたい人は、拙著『MBAミクロ経済学』日経BP社(pp186-191)を参照せよ。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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