コモンズの悲劇〜共有地とオープンアクセスの問題
2007年11月20日
(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら)
ここ3回、メカニズムデザインについてのいささか抽象的な話が続いたので、久々に環境の話に戻ることにしよう。
今回は、「コモンズ(共有地)」について解説する[*1]。
ガーネット・ハーディンが、後々著名になる論文「コモンズの悲劇」を『サイエンス』誌に発表したのは1968年のことであった[*2]。それは、19世紀にウイリアム・ロイドという経済学者の書いた無名の論文[*3]にもとづいている。
ハーディンの主張は、一言でいえば、「オープンアクセスな共有地(コモンズ)は、必然的に荒廃する」ということである。彼はこれを、中世のイギリスの牛飼いたちのコモンズを例に取り、次のような寓話で示している。
「牧草地をコモンズとして、牛飼いたちが共同で使っているとしよう。牛飼いたちは牧草地に自由で出入りできる(オープンアクセス)と仮定する 。このとき、牛をあと1頭牧草地に入れるときの損害(コスト)は牛飼い全体で等分されるが、利益はその牛の所有者だけが得られる。したがって各牛飼いにとっての利益は費用を常に上回り、どんどん自分の牛を牧草地に入れてしまう。これによって、牧草地は回復不能なほど荒廃してしまうことになる。」
このハーディンの主張を、簡単な数値例で検証してみよう。
例えば、今49人の牛飼いが牧草地で牛1頭ずつを飼育しているとし、50人目の牛飼いがあと1頭の牛を牧草地に入れるかどうかを検討しているとする。仮に50人目の牛飼いの得られる利益は10万円であるとし、他方、あと1頭入れることで牧草地が荒廃する追加的被害が20万円としよう。しかしこの損害を50人で等分して考えると1人あたり0.4万円である。50人目の牛飼いにとって、手に入る利益10万円は負担する損害0.4万円を上回るので、牛を牧草地に入れるのが合理的な判断である。ところがこのことを牛飼い全体の利害で見ると、10万円の利益を新たに得るために、20万円の損害を被ることになっている。つまり、牛飼いという集団としては不合理な結末なのである。そうであっても、オープンアクセスの原則がある限り、50人目の牛飼いの参入を拒否できない。このようなことが続けば、牧草地は回復不能なほどに荒廃してしまう。そう、ハーディンは指摘したわけだ。
この「コモンズの悲劇」という見方が重要なのは、多くの環境問題にこの構造が見られるからである。例えば、地球温暖化問題がその典型といっていいだろう。
わたしたちが自動車を新規に保有するとき、それで得られる(利用費用を差し引いた)利便性の大きさに比べて、個人的に被る環境的な損害は無視できるくらいのものだといっていい。なぜなら、自動車から廃棄されるガスは、長期的には地球全域で均等化され、薄められるからである。(もしも、自分の出した排気ガスをすべて自宅に送り込むことが義務づけられたら、自動車を保有する人はいなくなるに違いない)。このように、保有することの利便性が、自分の負担する環境損失を大きく上回っているために、人々は競うように自動車を保有し、それが大気汚染や温暖化ガスの蓄積をもたらしてしまう。個人にとって合理的なことが、集団では不合理なのである。これはまさに地球という巨大なコモンズで起きる悲劇だといっていいだろう。(ネットの掲示板で有意義な会話が成立しないのも、コモンズとオープンアクセスの問題といえるかもしれない)。
宇沢弘文によれば、ハーディンのこの論文に対する経済学者の反応はさまざまであったらしい[*4]。
ある学者は、「社会学者が、環境や資源の問題を取り扱うときに、基本的な枠組みを与える」と賞賛するが、別の学者は、「ハーディンの議論は、悲劇ではなく、喜劇というにふさわしい」と一笑に付し、またある学者は、「この短い論文のなかに、これほど多くの誤謬を含んでいる論文は他に見あたらない」と厳しく批判したそうだ。
さらにこの論文にとってもっと悲劇だったのは、その後の「民有化路線」の論拠とされていったことだという。何人かの経済学者によって、「コモンズの悲劇が起きるのは、コモンズの所有権がはっきりしないからであり、私有化によって所有権を明確にすれば、おのずと効率的な利用がなされることになる」という風に、伝統的な経済学の考えの中に取り込んでいく研究が勢力的になされたのだ。
宇沢は、これらの研究は、「オープンアクセス」と「コモンズ」との区別についての、完全な誤解に基づいたものだとしている。オープンアクセスというと、「誰でも自由に利用できる」ことを意味するが、実際のコモンズというのは、利用者は特定の村、地域の人々か、あるいは特定の職業的、社会的集団に属する人々に限定されているのが一般的なのである。そして、利用者にはコモンズを利用するときのルール、掟が、厳しく規定されている。コモンズというのは、むしろ、オープンアクセスを否定するものなのである。したがって、ハーディンのいうような「オープンアクセスなコモンズ」というのは、世界にもほとんど例を見ず、その意味ではハーディンの研究は(理論的には間違っていないとしても)現実性を欠くものであると、宇沢は評価する。
宇沢は、このような観点から、漁業コモンズや森林コモンズについて、動学的な経済成長理論の枠組みで研究し、その帰結として、利用者になんらかの形式で適切な負担を賦課するような制度や掟を施行すれば、コモンズはエコロジカルな意味で最適な成長経路を持ちうることを証明している[*4]。
次回は、コモンズの論理が、経済理論として有名な「独占の理論」と表裏の関係にあることを解説しよう。
* * * * *
[*1]拙著(2007)『数学で考える』青土社にて、この話を含んだ形で環境経済学を論じている。
[*2] Hardin,G(1968), ''The Tragedy of the commons'', Science 162, 1243-48
[*3] Lloyd, W.F.(1833), ''On the Checks to Population'', Reprinted in Managing the Commons, edited by G. Hardin and J. Baden, San Francisco: W.H. Freeman, 1977, 8-15.
[*4] 宇沢弘文(2003)『経済解析』展開編 岩波書店
小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」
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