固定給にはそれなりの必然性がある〜リスクシェアリングの考え方
2007年11月 2日
(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら)
前回に続いて、「メカニズム・デザイン」にちなんだ理論を紹介しよう。今回と次回は、現在のメカニズム・デザインの研究の原型となったといってもいい「リスクシェアリング」の問題を扱うことにする。
社員の雇用形態として、「固定給」というものがある。これは、社員の給与を、会社の業績や社員の成果に関与させずに、おおよそ一定額を支払うシステムのことだ。「終身雇用・年功序列」などのことばでとりざたされた(ひと昔前の)日本型雇用形態が、その典型である。
このような固定給制度が、経済学的にどんな意味を持っているのか、どんなメカニズムが背後に働いてこのようなシステムが施行されるのか、今回はその解説に挑戦しよう。
固定給の問題は、裏を返せば、「経営者と社員の間で、どうリスクをシェアするのか」という問題になる。実際、企業の収益はいろいろな情勢の変化に応じて浮き沈みをする。固定給制度というのは、このような業績の変化に関係なく、社員に一定額の報酬を保証するものだから、つまりは、「業績の変化はすべて経営者がかぶる」、言い換えるなら、「リスクはすべて経営者が引き受ける」ということなのだ[*1]。
大事なのは、このような極端なリスク引き受けが、誰かの陰謀や強制ではなく、必然的に、双方の合意のもとでそうなる、ということなのだ。では、いかなる必然性で、このようなリスクシェアリングが生じるのだろうか。
これを理解するのは、まず、「リスクに対する態度」というのを知っておく必要がある。
経済学では、人間には3種類のリスクに対する態度がある、と考える。「リスク中立的」、「リスク回避的」、「リスク愛好的」の3種類である。詳しく精密に定義するゆとりはないので、おおざっぱにだけ解説する。
今、あなたは5万円か3万円かどちらかが五分五分の確率で当たる無料のクジに参加する権利を持っているとする。このとき、その権利を買いたいという人があなたの前に現れた。相手が、買い取り金額を少額からつりあげていったとき、あなたがそのクジの権利を売り渡す気になる最初の金額は、
(ア)ちょうど4万円である。(イ)4万円より安い。(ウ)4万円より高い。
のいずれになるかを考えてみてほしい。
(ア)と答えた人は、ある意味で、「数学的リアリスト」である。なぜなら、このクジに無数に参加すれば、1回平均の賞金獲得額は4万円ちょうど[*2]と見込める。その額でクジを手放す態度が「リスク中立的」と呼ばれる。このような人は、すべて自分の利益を「確率的平均値」で測る性向を持つ。
それに対して、(イ)と答えた人は、クジの平均賞金額よりも小さい金額とクジを交換してしまう、という人だ。こういう人は「変動を嫌っている人」だと解釈される。変動をなくすためなら確率的な平均値より低い額でクジを手放し、その際に生じる平均的な意味での損失を厭わないからである。このタイプの人は、「リスク回避的」と呼ばれる。(ウ)と答えた人は、まるで逆で、「変動を好む人」であり、「リスク愛好的」と呼ばれる。
人がギャンブルに参加する理由を、経済学では、この中の「リスク愛好的」性向に求める。実際、胴元が存在するギャンブルの平均的リターン(期待値) は、必ず、賭け金より低くなる。例えば、100円の賭け金に対して、競馬の平均的リターンは75円、パチンコは(良心的な店で)70円程度である[*3]。このように数学的にみると(期待値からみると)どう考えても不利な賭けに参加する人がいるのは、「平均的には不利でも、利益の変動そのものが大好きだから」、そう経済学では解釈するわけである。
同じように、保険に加入することも、平均値で考えれば不利なことである。保険会社という「胴元」が、掛け金の一部を自らの収益にするからだ。にもかかわらず多くの人が保険に加入するのは、不慮の災厄による損害という「変動」を消したいからなのである。
さて、以上を踏まえた上で、経営者と社員のリスクシェアリングの話に戻ろう。
今、経営者は「リスク中立的」で、社員は「リスク回避的」と仮定する[*4]。この仮定だけが結論にとって本質的なものだ。企業は、経営者1人と社員1人の雇用契約によって成立するとせよ。雇用契約が成立した場合、毎月の利益は50万円か30万円かどちらかが五分五分の確率で起こるとし、どちらが起きたかは経営者にも社員にもはっきりわかるものとする。(成立しなければ、経営者の利益はゼロである)。また、この社員は10万円未満の月給なら働くのをやめようと考えている。それは、失業しても10万円なら(親から調達するなりなんなりで)確実に手にできると考えているからである。
この状況のもと、経営者が申し出る契約は、次のような形式のものとなるのが自然だろう。
[契約] 利益が50万円だったときはx万円、利益が30万円だったときはy万円の月給を与える。
この契約に対して、社員には交渉の余地はなく、できる選択は、「事前に契約を結んで就労する」か「契約をやめる」か、であるとする。このとき、経営者はどのようなx,yを提示するのが最適だろうか。
まず、経営者の利益は、契約が結ばれなければゼロであり、契約が成立すれば、(50−x)か(30−y)かが五分五分の確率で起こることに注意しよう。つまり契約が成立したあかつきには、「経営者の利益の確率的平均値」と「社員の利益の確率的平均値」の合計はどの契約においても40万円となる。経営者は、「リスク中立的」と仮定しているので、自分の「利益の確率的平均値」を最大化するのが目的となる。したがって、今の「和が一定」という事実から、それは「社員の確率的平均値」の最小化を目指すことと同じことである。
他方、社員は、「リスク回避的」であることから、変動する報酬になるくらいならそれよりも平均の意味で若干安くても変動しない契約のほうを好む。したがって、経営者が「xとyが異なるような契約」を提示するのは正しくない戦略である。なぜなら、「xとyの平均値よりも若干低い一定額の報酬」のほうが、社員にとって好ましいばかりでなく、経営者にとっても、社員の利益の確率的平均値を引き下げる(=自分の利益の確率的平均値を引き上げる)ことができるから有利なのである。したがって、経営者の提示する最適な契約ではx=yという「固定給」とならざるを得ない。また、このx=yの額は、小さくすればするほど、経営者の利益の確率的平均値を上昇させることができるから、10万円ぎりぎりまで引き下げるのがベストである。(それより引き下げることは、契約が成立しないので経営者にも損になる)。そんなわけだから、経営者と社員の最適な選択の結末は、「経営者が10万円の固定給の契約を提示し、社員はそれを飲んで契約する」というところに落ち着くことになる、というわけなのだ。この結果、社員は固定月給10万円を得て、経営者は40万円か20万円の利益が五分五分の確率で起きる、そういうことになる。
経済学では、このように、「どのような雇用契約をデザインするのが最適か」ということに着目して、戦略的な帰結として、「固定給」の必然性を説明するのである。一言でいうなら、「固定給」とは「社員が職務契約によって一種の保険加入を達成し、所得の変動を消すシステム」だ、と理解できる。経営者が「リスク中立的」で社員が「リスク回避的」である場合には、これが合理的な決着なのである。
蛇足になるが、万が一「リスク愛好的」な社員が契約するとしたら、結ばれる契約では社員の利益の確率的平均値が10万円を下回ることになるだろう。そして、この社員が長期的に就労すると実現される平均月収は10万円を下回ってしまうだろう。働かなくとも10万円を得られるのに、働いて10万円を下回る所得を得る、というパラドキシカルな結果となる。これは、就労という名のギャンブルに参加して、経営者という名の胴元にピンハネされているのと同じ顛末を意味するのである[*5]。
次回は、同じ状況でも、「情報の非対称性」がある場合には「変動報酬」が契約される、ということを解説する予定だ。お楽しみに。
* * * * *
[*1] 経済学やファイナンスでいう「リスク」とは「変動」のことであり、必ずしも「悪いことが起きる」ことではない。株の場合、値下がりはもちろんだが、値上がりすることも「リスク」と呼ぶのである。
[*2] この額は、「確率的期待値」=5万円×0.5+3万円×0.5である。
[*3] 競馬では勝ち馬の馬券への配当が総賭け金の75パーセントだからこうなる。競馬には本命や穴馬や、買い方の戦術があるからそうではないはず、などという人は、谷岡一郎の名著『ツキの法則』PHP新書を是非読むべきだ。
[*4] このことを、経済学では次のように正当化する。つまり、社員は、あまり資産がないから、所得の変動は生活を直撃するので避けたがるが、経営者は一般に資産家なので、変動そのものは厭わず、その平均値だけを問題とする、ということだ。
[*5] もちろん「期待効用」という観点では、社員は固定給よりも高い効用を得ているから問題はない、というのが経済学的結論なのだが・・・
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