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小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

コースの定理と経済学のクールさ 

2007年10月 9日

(これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら

前回は、ノーベル賞に輝いた「コースの定理」を紹介し、最初にこの定理を知ったときのぼくの憤り、というか戸惑い、というか、それを述べた。今回はその続きである。


CreativeCommons Attribution License, Patrick Doheny


念のため、「コースの定理」をもう一度確認しよう。

この定理は、経済主体Aの生産活動が公害を発生させ、経済主体Bに市場取引を通じない損害を与えているとき、AとBを合わせた意味での「社会」における最適な生産量をAに選択させるために、どんな交渉方法があるかを分析したものだ。意外なことだが、Bの被る損害をAがBに賠償しながら生産しても、Aの生産縮小による損失をAがBから補償してもらって生産しても、「社会的な利益」と「最終的な汚染量」という意味では同じ帰結がもたらされる、という主張なのである。そのロジックの要点については、前回を参照して欲しい。

この定理は、一見すると、血も涙もない非人間的な内容を持っているように見える。汚染者が被害者に賠償しても、逆に、被害者が汚染者に補償しても結果としては同じだ、といっているからである。少なくとも、現代の環境汚染に関するコンセンサスであるPPP(汚染者負担原則 Polluter Pays Principle)には全く合致しない[*1]。

ぼく自身は、この定理を知った当初は、単細胞的に、経済学というのはなんでこんな冷血な結論を平気で出すのか、と怒りを感じた。しかしその後、この定理のバックボーンを勉強したり、後続の研究をリサーチしたりするうち、ぼくの憤りは筋違いであったことがわかってきたのである。

まず確認しなければならないのは、ここでいう「社会的な利益」とは何か、ということだ。これは、「AとBの合計の利益が不変」といっているだけで、「AとBそれぞれの利益がどちらの交渉でも同じになる」といっているわけではない。実際、それぞれの所得は交渉の方法で大きく異なるのだ[*2]。

経済学が「社会の最適性」を論じるときの標準的な態度は、社会全体での総生産水準(または社会厚生水準)を問題にし、「分配の公正性」については論じない、というものである。(もちろん、分配の公正性を専門的に分析する分野もあることはある)。しかし、汚染で損害を被るBが補償によってさらに貧しくなることに対して、「公正を欠く」と感じるのが普通の市民感情だろう。

このような「経済学の標準」と「市民感情」との間に生じる齟齬について、今回は二つの方法でそれを緩和したいと思う。第一は、この定理を論じたときコースの念頭にあった環境問題を明示することであり、第二は、コースのモデルはあまりに特殊ケースなのであって、モデルを一般化すると定理が成立しなくなることを示すことである。

第一の議論は以下[*3]。
 実は、コースがこの論文を書くときに念頭にあった事例は、「開拓時のアメリカ中西部の牧畜業と農業との間で起きた利益衝突」であった。当時は、牧畜業が放牧している牛が農作物を食い荒らし、農民が損害を受けることが問題となっていた。このように書くと、悪いのは牧畜業のほうのように聞こえるが、事実関係はむしろ逆だった。なぜなら、牧畜業が既に営まれているところに、後になって東部から移住してきた農民が勝手に農業を始めたからだ。そういう意味では既得権を持っているのは牧畜業の側だったのである。だから、放牧の牛が農作物を食い荒らす、ということをして「公害の加害者」だと断じるのは性急なのである。このようなケースでは、農民が牧畜業者に補償をして、牛の行動範囲を制限してもらう交渉を行うのも、決して理不尽とはいえまい。

この例でわかるように、外部不経済の発生者(汚染者)に賠償を求めることがいつも「公正」なわけではないのだ。そういう例は他にも挙げることができる[*4]。例えば、不況によって住居を失った失業者が公園や駅などで寝泊りすることで一般市民になんらかの不快感をもたらすのを環境問題と見なした場合、失業者にその賠償を請求することはとても公正だとはいえないだろう。また、京都府民、滋賀県民による琵琶湖や淀川の水質汚染が、大阪府の住民の水利用に不利益をもたらしたのだが、勝手に人口増加しているのは大阪府のほうである、とも考えることができ、その根拠から大阪府が琵琶湖の水質保全費用の一部を負担した事例もある。これも奇異なことではあるまい。

こんな風に、幅広く事例を当てはめてみると、「コースの定理」の結論を、必ずしも非人間的で公正を欠くものだと断じることはできないわけである。経済学(に限らず広く社会科学)では、自分の狭い知見からモデルを解釈すると、先入観にとらわれて認識を誤ることが往々にしてあるから用心しなければならない。

では、第二の議論に進もう。
 経済学者・柴田弘文は、「一般均衡モデルで考えるなら、コースの定理の結論が成立しないほうが自然である」ということを示した[*4]。「一般均衡モデル」というのは、社会を一つの「閉じた箱庭」と見なしたモデルのことだ。「箱庭」だから、その世界では、生産も交換も消費も、すべてが余すところなくモデルの内部で完全に描写されている。すなわち、経済を営むすべての人や企業について、彼らが最初に持っている資源をきちんと明示し、それらの資源を彼らがどう生産に活かし、取引し、消費するか、それらを徹底的な合理性の下で漏れなく記述したものなのだ。(ちなみに前回に「コースの定理」として紹介したモデルは、工場や漁民が得た金銭をどう消費するかを描いていないので、一般均衡モデルではない)。
柴田の一般均衡モデルを詳しく解説するゆとりはないが、2つの経済主体のケースで、おおざっぱにキモの部分だけ書きとめることとしよう。最も重要なことは、合理性の基準として、「パレート最適」と「コア」という概念を採用していることである[*5]。「パレート最適」とは、「誰にも不利益を与えずに少なくとも一人を良い状態に変えることが不可能であるような、そういう分配」のことをいう。また、「コア」とは(第5回「ライアーゲームっていうのは、要するに協力ゲームなのだ」で少し解説したが)、「部分的離脱を封じて全員提携が合意されるような利益分配」のことである。

柴田は、一般均衡モデルで見れば、(それは経済全体を余さず観察すれば、ということと対応するのだが)、「パレート最適」で「コア」であるような結果を得る交渉をするなら、AがBへ賠償するときと、BがAに補償するときとで、異なる「汚染状態」が実現されるのが一般的だと証明した。それはおおよそ以下のような理屈である。

Bに既得権がありAが生産をしていない現状を基点にして、汚染で与える損害をAがBに賠償する交渉をする場合を考えよう。まず、Bは基点での効用水準より良い状態にならない限り同意しない。それが「コア」というものの性質である(つまり、効用が低くなるなら、Bは交渉から降りることができるのである)。同様に、Aも契約によって基点より効用が高くならないといけない。だから、交渉は双方が基点より効用が高くなる方向に進む。このことは、Aに既得権があり、Aが最適な生産を実行しているところを基点として、Bが生産縮小の交渉をする場合でも同じである。

ところが、当然のことだが、この2つの基点では、「コア」の存在領域が逆の方角になる。このように逆向きになっている2種類の「コア」の中で「パレート最適」な分配状態を探すと、「奇跡的な特例」を除けば、実現されるAの生産水準(汚染水準)は異なるものになるのだ。容易に想像されることだが、Bに既得権がある場合のほうが、Aに既得権にある場合より、Aの生産水準(汚染水準)は少なくなる。ここで、その「奇跡的な特例」というのが、コースが設定した条件の場合なのである[*6]。

このように柴田は、「コースの定理」が市民の直感に合わないのは当たり前で、それは非常に稀な偶然ケースを扱っているからだ、だと論証して見せた。つまり、市民の感覚がおかしいわけではなく、「コースの定理」の設定が特殊すぎるため、市民の常識に合わない結論をもたらしていたにすぎないのだ。言ってみれば柴田は、毒に対してアレルギーを起こすのではなく、毒をもって毒を制したわけで、これぞ経済学のクールさ、といえると思う。そういう目で見るなら、ぼくの単細胞な憤りは、自分がまだまだアマチュアであることの証拠だったわけで、クールな学問である経済学の洗礼を受けた一件となったのだ。

* * * * *
[*1] PPPは、1972年にOECDが「環境政策の国際経済面に関する指導原理」の中で提唱し、その後、国際的に普及していった原則だそうだ。(植田和弘・他『環境経済学』有斐閣より)
[*2] 前回の数値例でいうと、Aの最適生産量はいずれにしても3単位になるが、AがBに賠償するなら、Aは利潤105万円から60万円をBに賠償として支払うので、Aの最終的な利益は45万円、この賠償を得たBの最終的利益は工場が存在しないときの利益と同じままである。それに対して、BがAに補償するなら、Aは利潤105万円にBからの補償40万円を加えた145万円が最終的な利益となり、Bの最終的利益は工場が存在しないときに比べて、汚染によって減少する60万円と補償に要した40万円を加えた100万円だけ少ないものとなる。このように双方の最終利益は、交渉次第で100万円の差が生じるのであるが、合計では同じものになる。
[*3] ハートマッカーティ『ノーベル賞経済学者に学ぶ現代経済思想』日経BP
[*4]柴田弘文・柴田愛子『公共経済学』東洋経済新報社
[*5]ちなみにこの二つは、経済学が合理的取引を記述するときの自然な要請である。
[*6]専門的には、コースの定理では所得効果が除外されているため、契約曲線が工場の生産量を表す軸に垂直になってしまう、ということだ。

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プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

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