このサイトは、2011年6月まで http://wiredvision.jp/ で公開されていたWIRED VISIONのコンテンツをアーカイブとして公開しているサイトです。

小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

数学エッセイストでもある経済学者が、経済学の視点から、環境問題、そして人の幸福 について考える。

コースの定理は、非人間的か?

2007年10月 4日

環境問題を扱う経済理論の中でとりわけ有名なものに、「コースの定理」というのがある。これは、イギリス生まれの経済学者ロナルド・コースの発見したもので、コースはこれらの業績によって1991年にノーベル経済学賞を受賞している。

「コースの定理」を、そのポイントだけ大胆にまとめると、次のようになる。

今、経済主体Aの生産活動が、公害などの発生で、経済主体Bに(市場を経由しない)損害を与えるとしよう。このとき、Aが利己的に利潤最大化を達成することは、社会全体で見れば最適なことではない。Aが、自分の生産にあたって、Bに与える損害を考慮しないからである。では、このとき、Aに「社会的に見て最適の量」を生産させるにはどうしたらいいのだろうか。「コースの定理」は、以下の真反対に見える2つの方法が、結局のところ、社会的最適性の実現という意味で同一の帰結を与える、と主張するのである。ひとつは、AがBに賠償をすることであり、もうひとつは、BがAに補償をすることである。

読者の皆さんは、この定理の内容を読んでどう感じられただろうか。

なんて非人間的な定理なのだ、と憤りを感じたかたも少なくないのではないか、そう予想している。なぜなら、この定理の内容をよくある事例に素朴に当てはめると、例えば次のようになるからだ。

「工場がその生産活動によって河川を汚染し、漁業に打撃を与えているとき、工場が漁民に賠償金を払っても、漁民が工場に生産縮小のための補償金を支払っても、社会的な帰結は同じだ」

実際、ぼくがこの定理を最初に本で読んだときは、すごく不愉快になったし、その本もそのような論旨だったように記憶している。それは、被害者である漁民が、加害者である工場にお金を払って生産を縮小してもらうことも、社会的最適性をもたらす、といっているからだ。今問題になっている地球温暖化でいうなら、「水没するかもしれない沿岸地域の貧しい人々が、二酸化炭素を排出している先進国の一流企業にお金を払って、過剰生産をやめてもらうのも遜色ない解決策」といっているようなものなのだ。普通の感覚なら、このような論理には同意できないだろう。

uneven surface on pier
CreativeCommons Attribution License, amy mew

結論を急がず、まず、どんなからくりで、こういう「冷酷に見える」帰結が出てくるのか、それを見てみるとしよう。さきほどの工場と漁業の例で考える。

今、工場が1単位の商品を生産すると、45万円の利潤が得られるとする。生産量をもう1単位増やして生産量を2単位にすると追加的に35万円の利潤が得られる(正味80万円の利潤ということだ)。さらに1単位増やして3単位にすると、追加的利潤が25万円得られる。以下同様に、追加的利潤は10万ずつ減る、と仮定しよう。このとき、工場は5単位までは生産量を増加させて行くだろう。なぜなら、4単位へ、5単位へと生産量を増加させると、それぞれ15万円、5万円と追加的利潤が入ってくるからだ。しかし、6単位に増やすことはしないだろう。なぜなら、そのときの利潤の増加はマイナス5万円だから損をしてしまうからである。このようにして、この工場の最適な生産量は5単位と決まる。

さて、この工場の操業が、廃棄物によって河川の汚染し漁業に損害を与える場合、社会的に最適な工場の生産量はこの5単位ではない。例えば、工場が1単位生産を増やすたびに、漁業が20万円ずつの損害を被ると仮定しよう。このときの社会的に最適な工場の生産量は3単位ということになる。なぜなら、3単位を生産している工場がもう1単位生産量を増やすと、工場は15万円の追加的な利潤を得るが、漁民は20万円の減収となるから、社会的に見れば(合計で考えれば)、利益は減少してしまうからである[*1]。

とはいっても、放っておけば工場は自己の利潤を最大化する5単位の生産を行ってしまうから、両者のなんらかの交渉によって、社会的な最適性を実現しなければならない。「コースの定理」以前には、既得権を持たないほうが持つほうに補填を行うよう法的な介入を行うべきだ、と考えられていた。ところが、コースは、どちらに既得権があっても同じ結果になるから、第三者の干渉なしに、当事者の交渉によって妥協点を見出せば、それが社会的に効率的なものになる、そう主張したのである[*2]。

まず、水源の使用に関する既得権が漁業にある場合を考えよう。この場合、工場の操業にあたって、生産が漁業に与える1単位あたり20万円の損害を工場が賠償するのが筋だろう。そうすると、工場の追加的利潤は、元より20万円ずつ少なくなる。このとき、3単位から4単位へ生産を増やすときの追加的利潤は(15−20=)マイナス5万円になってしまう。だから、工場の(利己的な)最適生産量は3単位となり、これは社会的最適量と一致する。

逆に、水源の使用の既得権が工場にある場合を考えてみよう。この場合は、漁業が工場に1単位の生産減に対して20万円ずつ補償をする交渉をすれば社会的な最適性が実現される。なぜなら、工場は当初、利潤が最大である5単位を生産しているが、1単位減産すると5万円の利潤を失うのに対して20万円の補償金が入り、さらに1単位減産しても、失う利潤15万円は補償金20万円で埋め合わせることができるから、3単位まで減産をするのである。

このように、工場の賠償でも、漁業の補償でも、同じ社会的な最適状態を実現できる、というのが「コースの定理」のロジックなのだ。読者の皆さんは、これにどういう感想を持つだろうか。

ぼくは、この定理に対して、最初は腹が立ったものの、経済学を大学院で専門的に勉強するうち、だんだん考えが変わって行った。きっかけは、大学院の若い友人から、「一つの理論として、ベンチマークとして見るのが正しい態度じゃないですか」と諫められたことだった。頭を冷やして、この定理について、いろいろ調べたり研究したりして見ると、最初の怒りはおかど違いだったような気分になった。今思えば、ある意味で、これは経済学という「クールな学問」の洗礼を受けた、いうことだったのだろう。

長くなってしまったので、どうような「洗礼」かは、次回に書くこととする。

* * * * *
[*1] このような公害などの市場を通じない損害のことを「外部不経済」という。外部不経済に関するもうちょっと詳しい説明は、拙著『エコロジストのための経済学』東洋経済新報社を参照のこと。
[*2] コースの業績については、ハートマッカーティ『ノーベル賞経済学者に学ぶ現代思想』日経BP社を参照。

フィードを登録する

前の記事

次の記事

小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」

プロフィール

1958年生まれ。帝京大学経済学部経営学科准教授。数学エッセイスト。著書に『サイバー経済学』『確率的発想法』『文系のための数学教室』『エコロジストのための経済学』などがある。

過去の記事

月間アーカイブ